「悲しみなどあてにはならない」

 相変わらずの綱渡り芸人の日々。少し、開き直っているのか感覚がマヒしているのか。分からないけれど、他に考えなきゃならないことは沢山あるはずだ。

 元気で、健康的に年を重ねる、ということがイメージできない俺は、今をどうにかせねばと思っている、のに、すぐ寝る怠ける。けれど消費した物の雑感等を

何故かヴィスコンティの『家族の肖像』のパンフを買っていた。この映画は、小品といった印象なのだが、好きで何度か見返している。老人(教授=監督)も若者(ヘルムート・バーガー=愚かで美しい左翼の青年)も、哀しい人だからだろうか。てか、バーガーの血を拭く教授!官能的でわくわくする。

 十年前(!)にこの映画について書いた感想を引くと、

『家族の肖像』のことを想起すると、少しはこの無駄に高揚した気分が収まってくる。ヴィスコンティのようでヴィスコンティではない教授と若き美しき男との触れ合い、が主題ではあっても俺にとって印象的なのは燕を手にした年老いたブルジョア女、が主要な女として見出されている点であって、若き美しき「ヘルムート・バーガー」の自死に件の女は涙を流しつつも「悲しみなどあてにはならない」と告げる、その生き生きとした、醜さ! 『ヴェニスに死す』のラスト、化粧をされた作曲家の道化のようにしかみえないあの顔のように、醜く、趣味の良さを救っている。

 とあり、俺も、何も変わってないんだなあと思う。愛する人を失い、涙を流しても、「悲しみなどあてにはならない」といえる強さ。げんなりする。だけど、ほんの少しだけ、羨ましい。

ねんがんの 今井キラの画集『ひと匙姫』をてにいれたぞ!

甘くて残酷で可憐で、触れることの出来ない世界。頁をめくる度にうっとりして立ち止まってしまう。なのに、すぐに読み終えてしまう。 

 今井キラの描く少女たちは、男子なんていらない、って感じの排他的な美しさというか、もしかしたら(同性の)友達や恋人すら必要ではないような、孤独というか、孤高のヴェールをまとっている。でも、彼女たちがなんであれ、美しいのだ可愛らしいのだ。だから、それだけで十分過ぎるのだ。

 オリジナル・ラブの田島とペトロールズの長岡のライブアルバム、sessions聞いてるけど、マジでいい! 甘くてしっとりと調和していて、時には激しく。味わい深い大人の音って感じだ。激しくてノリが良いキャッチーな曲が大好きな俺だけど、この二人、このアルバムはとても心地よいんだ。すーっと染みわたる。熟練のわざって感じだ。

mtg動画面白いなあ。最近お気に入りの人のを良く見るんだ。マジックはフレーヴァーテキストもすごく素敵で、おっさんなので、古いのに好きなのが多い。
高潔のあかし/Righteousness

やがてわたしも、死の前にひざまずくときがくるだろう。だがそれまでは、勝利の栄光を味わわせておくれ。
――ホメロスイリアス」第18巻

 地獄界の夢/Underworld Dreams

眠気を誘うような思考の洞窟の暗い奥で、夢は日中の様々なものが落としていった欠片から巣をつくるのだ。
――ラビンドラナート・タゴール

木下恵介監督映画、『遠い雲』見る。脚本や登場人物は、どうかと思うが、高峰秀子の演技上手くて、もう、それでいいんだってなる。画面も広がりを感じさせ、構図も上手くて流石。メロドラマって、感情移入出来ないと見るのきつい。でも、高峰秀子木下恵介コンビなんで、最後まで見てしまうんだよなー

 30過ぎてから、高峰秀子の本やら映画を何度も繰り返して見ている。本も魅力的だが、この人の演技、大好きだ。日本映画で一番演技がうまいと思う(って、単に俺が好きってだけの話です)。俺は俳優の演技の良し悪しなんて大して分からない。けどさ、彼女の演技のうまさは感じるし、説明できちゃう(言語化してしまえる)んだ。演技のうまさを文字で説明だなんて無粋だからしたくないけど(でも、過去にしてるかもしれない。いや、してるだろう)

金子光晴旅行記、いや遁走記を拾い読みで、読み返してた。俺は彼の弱さに無計画に惹かれ、詩人である彼の文が、無軌道な生活を送りながらも冷静な文がたまらなく好きだ。汚泥も汚泥に咲く花をも等しく注視し、その不思議さを伝える力は、幸福なことではない。でも、それが詩人ということなのだろうか。

『アジア旅人』という、金子光晴の旅の記録と、横山良一がその旅の地の写真を合わせた本を読んだのだが、とても良かった。横山は写真だけで言葉は全て金子光晴の引用になっている。金子光晴のファンブック的な側面もあるのだが、まあ、俺は金子光晴のファンなので問題ない。というか、読み返したくなるなあ。読みたい本が多くて困るな。

 俺は、きちんとした頭で、どのくらいの本を消化できるのだろうか?

 ジョルジュ・バタイユ、と勘違いして借りたクリストフ・バタイユ『時の主人』 俺は全く知らない人だ。若い作家で、色々と絶賛されているらしいことが書かれているのだが、小説を読んで久しぶりに「なんだこれ!」って思った。小説はわりと有名どころやら古典を読み返したりが多い俺には、この本は頑張って優等生が書いた習作なのかな? としか思えなかった。つまり、俺には合わないし必要がない本だということだ。

 はっきりと自覚しているのは、俺は文章(小説)にもポエジー、詩的感覚、センス、美意識を求めるということで、物語の筋なんてわりとどうでもいいのだ。だからミステリとか興味が薄いのだ。話がご都合主義でも悪文でも、そこに輝くものがあるなら上等。

 などと感じているのは、考えているのは極めて少数なのかなと、今更ながらに、そう思う。でも、それが俺の思う文学作品なのだから仕方がない。よくできた、できのよい作品だって好き。でも、一等好きなのは、輝きや眩暈を閉じ込めた作品だ。自分がかいている小説に、それが出来ているか、よく考える。考えながら困難だと楽しいなあと思う。

 一人、自分で酔っているだけなのかもしれないとも思う。

 でも、酔えるなら、錯覚できているなら俺は幸福なんだって多分。