夢の中の絵画も、バベルの図書館も、天使になれずに息絶える俺達の為の贈り物。

久々に夜勤。へとへとになるというか、自分の体力のなさにうんざりげんなり。終わって電車でフォーレ弦楽四重奏をずっと聞いていた。疲れていると、音楽はクラシック以外聞けないって、ジジイか?

 帰宅してシャワーを浴びて、起きて寝てを繰り返していたら、深夜十二時を回っていて、また寝すぎたと、げんなりしながらもそこまで嫌な気持ちにならなかったのは、その前に見た夢の映像を記憶していたから。

 こんな夢を見た。俺は本当は行ったことがないニューヨークにいて、momaに行きたいと思いながら(夢だから当然なのだが)どこかの奇妙な美術館にいて、そこの作品に感動していたのだ。

 中でもピカソ作(当たり前だがピカソの作品ではない。しかも俺はピカソがやや好き程度だ)の巨大な黒と白の抽象画に感動していた。学芸員が「これは偉人の巨大な寝室です。人は具象絵画から始まり、抽象絵画に還っていくのです」と説明をしていた。なんのことだかよくわからない。

 でも、モノクロでカンディンスキーマチスフランク・ステラをごちゃまぜにしたような、迫力のある抽象画。しかもばかでかい。どこまでも続く抽象画だ。でもそれは夢の絵画で、俺は二度と会えない。そして、その画の細部も大部分も、すぐに忘れてしまうんだ。

 書き写したとして、それはつまらないものだろう。あくまで夢での感動した体験なのだから。でも、夢の絵画、ありがたい贈り物だ。

 もし、自分にきちんと働ける社会性なり精神力なり、お金を稼ぐ才覚なりがあったら、好きな時に好きな場所にいけるのにな、なんてたまに思う。お金を理由に、色々な美しい物を見たいものを目にしないで、老いるか自死を選ぶのかなと、たまに考える。

 お金に抗う、ということを真剣にしてことなかった。する必要も感じなかった。でも、新しいことをしなければ精神が老いるんだ。

 とか言いながら、またいつもの読書音楽映画で満足してしまう、懲りない俺。

アントニオーニの『さすらい』の台詞

「逃れられない悪癖以外の全てから 逃れようとした。」

ヒューかっこいー! 十代の俺はそれがかっこいいと思いまして、そういうこと以外ができませんで、三十代でそのツケを払っているような気がする。

 

十数年ぶりに、『麗しのサブリナ』見る。オードリー素敵!以外の感想がない……つーか、オードリーが主役じゃなかったら映画の魅力半減以下的な印象…… ブリジット・バルドーの主演した、バルドーを見るための映画みたく、ごちゃごちゃ言わずに見るのがいいっすよね。面倒な俺。

 何か一つでも美点が見つけられたなら、ご都合主義でもストーリーや登場人物に疑問を覚えてもいいじゃんか。って、思ってるんだけれども。

 アゴタ・クリストフ原作の映画『悪童日記』見る。原作の小説読んだの高校生の時だ! 映画を見ながら、おぼろげな記憶で、原作はもっと淡々と悪事を為していて、それが大きな魅力だった。その映像化は、生身のちびっ子が主演の映画では難しいはずだ。露骨なエログロとか、ちびっ子が主演だと映像化はほぼ無理だろう。

 でも、この映画の双子の幼い輝きも、切なく良かった。彼らの顔の変化、双子なのにたまに違って見えたり、物語の進行にしたがって顔つきが変わるのが魅力的だった。名役者のとはまた違った、刹那的な変化の、ある時間だけの魅力。

 よくある聖書系絵画の読みやすい本を読んでいたら、ジョットの『ユダの接吻』が! マジ好き過ぎる。自分のローブで包み込むようにしてキリストを捕まえるユダ。そして口づけ。犯人を他人に教えるのにキスをするか? というか、それいったら神話も聖書も意味不明な個所ばかりだが……まあ、ユダのキリストへの歪んだ愛情に胸キュン。普段は(一般誌の)男同士のイチャコラに何も妄想しない醒めた性格だけど、これはホモでは?案件っすわマジ。太宰治の『駆け込み訴え』は超王道エもい同人誌。異論は認める。

 ボルヘスの詩文集『創造者』の、冒頭の作品、自死を選んだ図書館長「レオポルド・ルゴネスに捧げる」の図書館の描写から、うっとりして困る。

ほとんど肉体的にと言っても良いが、わたしは書物の引力を、ある秩序が支配する静謐な場を、みごとに剥製化して保存された時間を関知する。右に左に、明晰な夢に没頭する読者達の束の間の顔がミルトンの代換法(語句の中で修辞的にも意味的にも適合しない単語を結びつけること。その意外性は読者の想像力を刺激する)さながら、好学のランプの光に照らされて浮かび上がる。

 こんなに魅力的に図書館を表現した人が他にいるだろうか? というか、ボルヘスは図書館大好きだから、何度も図書館について言及していて、彼が目の疾患を抱えていたことを考えると、残酷でもあり、痛ましく感じながらも嗜虐心に火をが灯るんだ、屑な俺。

 また、「天恵の歌」という詩文でも図書館について語っていて、その中の一か所

ギリシア史書の記述によれば)ある王は

噴泉と園庭に囲まれながら飢渇ゆえに死んだという。

わたしも当てどなく、この高く奥行き深い

盲目の図書館をさまようだけだ。

 

 彼の人生(ほぼ盲目状態で図書館長に就任した)を思うと、痛ましさと共に、俺も書物の、意味の虚無のごとき広さにがらんどうになる。多くのことを知り得ない、そもそもその手段さえ、試みさえ奪われる。老人も幼子も、天使になれずに息絶える。

けれど、本を人を意思を作品を貪らずにはいられない、グールのような人生、宿命。

 夢の中の絵画も、バベルの図書館も、天使になれずに息絶える俺達の為の贈り物。そう思うと、多少は気が楽になって、自分の現実なんて見ちゃあ駄目だ、本、読まなきゃな、等と考える。