まぼろしにさよならなんてできないよ

朝に早起きして銀座へ。ウイルスの影響で一度は中止になったエルメスの映画上映だけど、再申し込みがあったんだよね。それで二日前にはいつもみたく、「お待ちしております」メールが届いたから、銀座へ向かったら、三月中は全てのプログラムを中止するという立て札が! お待ちしておりますメール送っておいてそりゃないよー!

(※後でエルメスのホームページで予約状況確認したら、四月某日に変更していた。勿論変更したのは俺。だけど三月に申し込みした分の記録があったから、エルメス側から、お待ちしておりますメールが送信されたんだよね。ちゃんと四月に再予約したんだから、メールが届いても日時確認しなかった俺が悪い。でも、お待ちしておりますメール来たから勘違いしたんだ)

 資生堂ギャラリーもしまってる。人がまばらな朝の銀座。祝日で、日の光で暖かいのに、何だか別の街みたい。銀座百点もらって、鳩居堂へ。銀座の鳩居堂に入ると、紙の、和紙の匂いに包まれるから好きだ(他の店舗はデパートの一角なので)。あれもこれも欲しくなるけれど、あまり無駄遣いはしないように。

 時間が空いて仕方がないので、四谷の教会ショップへ。そしたら、三万五千円の木彫りのキリストが売り切れていた!!!!! 哀しい!!!! どうせ買えなかったけど、値段の割にとても造りが良かったんだ。ガッカリしながらメダイを数個買って、教会へ。

 教会に行ったら、そこも色んな催しが中止の張り紙が!(俺はキリスト教徒ではない) ぼんやりした頭で聖堂に入り座っていると、正午を知らせる鐘が何度も、聖堂の中に鳴り響いた。広々とした空間で鐘の音を聞いていると、気分が良い。また、聞きたいな。

昼間に日の光を浴びながら、yo la tengo 聞きながら雑踏を歩く。健康的だ。真昼が大好きだって、今だけそう思うよ。

 某、女の子向けのキラキラショップが閉店セールで、全品半額! セールという文字を見るとIQがマイナス六億になるぼくは、気がついたらこんなに買い込んでしまっていた。愚かな中年、レジで自己嫌悪。夕ごはんは、ラムネと金平糖とキャンディかなー?

画像1

 でもなー無駄遣い楽しい。一生無駄遣いしていたい。パステルカラーの世界に憧れる溝色の瞳の俺。

 持っているのに、どこにあるか分からず、『さよなら子供たち』のパンフを買う。ルイ・マルの映画は『地下鉄のザジ』も『死刑台のエレベーター』も『鬼火』も好きだけど、この『さよなら子供たち』が一番好きで、一番見るのが辛い。だが、どんな過酷な運命があったとしても、その前に、彼らは少年なのだ。生き生きとしたり、怯えたり、はしゃいだり、様々な眼差しを持っているのだ。

そこに寄せられていた、宮崎駿の文章が良かったので、引用。 

 

 

世界の奥深さをかいま見る瞬間の少年を描くのに成功しているからだ。それにしても、なんと寒々とした世界だろう。(中略)世界の敵意に触れて今も子供たちがたじろぎ、張りつめた瞳で凝視し続けているのを作り手が識っているからこそ、この作品は意味を持っている

 

 

 

 宮崎駿といえば、女の子を生き生きと描く人で、女の子の生活、冒険、戦いを描くイメージが強かった。だから、少年同士の、この映画についての言及は少しだけ驚いた。でも、性別は違えど、子供の心で、いや、真っすぐな瞳で世界と向き合うのなら、年齢も性別も関係ないんだよね。それができるか、年経ても、可能かはその人にかかっている。

 でも、そうしなければ、多分人生つまらない。困難なこと。常に驚き、挑戦し、世界の不条理に不思議に立ち向かう瞳。

 最近、完成させた自分の小説を読み直していて、苦痛だ。陰気で嫌味で読みにくくて、人に薦められない物語。こんなん書いても、どうにもならない。そう思いながらも書かずにはいられない。

 だけど、ものづくりしている人なら誰でもそうだと思うけれど、制作中やら完成後やらに、ふと、あ、いいなあ、とか気が楽になる瞬間がある。それだけでも俺にとって救いになる。きっと、素直に何かを見つめて、みつけているんだ。その時だけでも。錯覚、まぼろし。それを良いものにするように。一人感動するだけではなく、感性を、殺さないように。神様なんていないけれど、神々への捧げものになりうるように。そう思うと、少しはマシなものを作らなきゃって気になる。

 眠ってばかりの俺だけど、目を見開いて。