俺の為の図書館の司書でなければ、辺獄で迷子

色々と安定していない。こんな時だから当然なのだけれど。

 雑記。

 『ボルヘス怪奇譚集』再読。世界中の、数十年前から、数千年前まで様々な物語を集めた一冊。滑稽や皮肉、幻想や理不尽、悲劇や洒落。幅広い物語の中の、数ページの断片の数々は、読む者を夢の図書館へと案内する。本を求める人はきっと、自らの終わりない図書館を編んでいるのかな。

 『林芙美子随筆集』読む。彼女といえば、『放浪記』の困難な生き様が頭に浮かび、この本にも愛金嫉妬悪口強気、もあるが、それよりずっと穏やかな文が並ぶ。生活の雑事や野草や詩句を愛する姿は、微笑ましい

川端康成の『禽獣』を


川端氏の触覚、視覚すべて愛(かな)しく美しい。という一文は胸を打つ

白洲正子『草づくし』読む。草花や和歌や古典文学や骨董品を自由に語る楽しい本。

若菜摘む、に俺は残酷な喜びを見たが、著者は豊穣の祈りとエロスを見る。
山部赤人の句

春の野にすみれ摘みにと来し吾ぞ
野をなつかしみひと夜宿にける

(菫摘みに来たら、魅せられてそこで一夜)
可愛すぎだろ。

今日も、何度も眠り続けて、夜になるとましになる。ふと、『マイ・プライベート・アイダホ』のことを思う。ゲイの監督が撮った(ガスの映画好きだが)、美少年同士の友情、片思い、犯罪。当時見ていて恥ずかしくなった。多分、俺は彼らに憧れていたんだと思う。あと、設定はハードだけど優しいから。

寺田寅彦『柿の種』読む。本人が日記の断片のようなもの、と言う短文集。動植物の話題がやや多いか。観察をして、明晰で読みやすい文は著者の人柄からか。

震災後、焼けた樹木に黴が生え、恐ろしい速度で繁殖し、植物も生える様を

焦土の中に萌えいずる様はうれしかった。

という言葉は胸に来る

YMCKのファミリー スウィング
聞く。いつものjazz+チップチューンの楽しい仕上がり。タイトル通り、ジャズ色強めで、ミュージカル映画を見ているような気分。捨て曲無しの、ワクワクしてちょっぴり切ないアルバム

ゴダール『フレディ・ビュアシュへの手紙』また見る。シネマテーク館長フレディへの映像手紙、という手法のわずか13分の短編映画。
音が画が動画が美しい。最高。後期ゴダールは自然も美しく撮る。
手紙というより、いつもの自由な独り言、エッセイ。平和な内容で、穏やかで幸福な時間は、すぐに終わる

シェリー『鎖を解かれたプロメテウス』読む。一般的なアイスキュロスの作品とは異なる解釈で、暴虐と全能の神ジュピター(ゼウス)への抵抗と愛の成就による勝利が描かれる。訳注が数百!一読しただけでは読み取れてない点も多いだろうが、大地や月や精霊や神々の織り成す叙情詩はとても美しい。

『インノサン少年十字軍』読み返していた。少年十字軍って題材、耳から血が出る位好き。結末は予想がつくのに。踏み散らされる花々が好みというよりかは、彼らが絶望へ立ち向かう姿に心を打たれるのだと思う。
この本は全三巻。濃密。好きとか言っておいて、切なくてラストは読み返すのが辛い

夜になって少し安定。毎日こうだ厭になる。早く白骨かチェブラーシカになりたい。
軍艦島全景』の写真集をパラパラ見ていた。この本は、何年の何号棟はどういう目的で利用されていたか細かく説明されていた。写真だけではなく、生活の気配を伝える説得力がある。もう、誰もいない風景は心を慰撫する

Nq のrecording syntaxを数年ぶりに聞く。工業製品のざわめきのようなエレクトロ。買った時俺は学生で、CDを買い漁っていた。このCDもそうだが、ライナーノーツに佐々木敦の名前を見つけると、それだけで当たりだと分かった。なのに、俺は音楽雑誌をほぼ読まないから、彼の仕事をほとんど知らない

『フランシス・ベイコン 対談』再読。晩年のインタヴュー。偉大な画家にゴッホを上げる。二人の絵には近しいものを感じる。自分の画が人気なのは運が良かったと語る曲者の彼

僕の作品は、自分が嫌いなあらゆるものと、自分に影響を与えるあらゆるもののお陰というわけさ

永井荷風『花火・雨瀟瀟』再読。随筆のような小説のような作品と、短編小説が収録。知らぬ間に孤独になってしまうと言う著者。自己憐憫の甘さは薄く、雑事や自然の移り変わりを乾いた眼で美しく捉える。短編は浮気芸者嫉妬冷酷、という小品で、それを上手く書けるのは、やはり著者の孤独からか

音楽がないと不安になるので、寝るときも常に流している。しかし体力は消耗する。
思い切って音を消す。交感神経は喜んでいる気がする。
音の無い時間に身体を調律するのか、と思うと、調律師、チューニング出来る人が冥府の住人のように思えてくる。音を殺して身体を正しくするのだ彼ら

トリュフォー監督『野生の少年』また見る。昔の実話が元。森で発見された捨て子に教育を与える話。冒頭四つん這いで森を逃げる少年と追いかける犬達はすごい迫力。見世物になったり教育を押し付けられたり、胸が痛む場面が多い。だが、自然の中を二足で駆けたり温まる交流もある。少年の演技とても巧い

 教育を受けてはいても、雨を全身で受けて歓喜を表す少年。てか、ほんと少年の演技がうまいのだ。

ヒッチコック/トリュフォー』見る。トリュフォーが書いた『映画術 ヒッチコックトリュフォー』を軸に、十人の監督が彼や著作について語るドキュメンタリー。サスペンスとサプライズは違う。とは、ホント名言。彼の映画の作法、美しいパズルについて、敬意と興奮で人々が語る様はとても楽しい。

 この映画でウェス・アンダーソンを久しぶりに見た(映画ではなく本人だが)。彼の映画、大抵家族が大きなテーマで、暖かくてトラブルばかり。でも、彼の映画見てないなー。見たい監督結構あるんだよな、でも。思うだけ。

 柳田国男『日本の祭り』読む。神事である祭り。その歴史を体験していない学生に向けて語る講義録。祭りを通じて、人が成長し結びつく。民俗学的な信仰の形。今は形骸化した文化、しきたり。経済発展は、文化を殺し、新しい娯楽や聖なるものを生む。忘れられる思いを記録し伝える事もまた、大切な事

 『二人のヌーヴェルヴァーグ』見る。ゴダールトリュフォー。批評精神と映画への愛と才能で結ばれた友情は、ゴダールが政治へと傾倒していくことで決別へと向かう。出てくる映画、ほとんど見てた。彼らの、あの時代の映画が大好きなんだ。才ある者は挑戦する者は常に新しい。彼らの作品も、勿論。

 見ていて楽しくて切なかった。高校時代に彼らの映画と出会って、それからずっと彼らの映画が好きだから。色んなあの時見たシーンが、彼らの映画の断片だけでも見るのは楽しい。ただ、俺は古い物ばかり愛するのか、あの時のまま年だけとって変わらないのかと我が身を思ってぞっとする。

 またそれとは別に、二人の決別。トリュフォーが亡くなって、しかしゴダールはまだ撮り続けているという奇跡に感謝すべきか。

 二人の才能ある監督に愛されたレオーにも焦点が当たっていて良かった。インタヴューで彼が、(一時期)近しすぎるトリュフォーに反発心を覚えるようになり、ゴダールの映画ではのびのびとできた、というのが何だか聞いてて微笑ましくなった。

 三日連続でトリュフォー関連の映画を見て、それはネットレンタルでたまたま適当に選んだのを見ただけなのだが、やっぱりいいな、好きだなと思った。それは映画の本の芸術の中の巴里。俺は一生会うことがない、できない巴里。

 体調がぐらぐらしている。というか、こんな時期に元気な人の方が少ないだろう。開き直って、読書の時間は増えたような気がするが、やはり街に出られない、色々な物が静かに幕を下ろす姿が流れ過ぎて、自分の感覚が麻痺してきているし、俺の何かも駄目になってきている。

 とはいえ、生活は続く。生きている限り。俺は俺の身体を任されているのだから、幕引きまでは良い選択をしなければ、つかみ取らねばならないんだ。

 書き終えた小説を、ちょこちょこ直しつつ、気持ちや小説を整理している。男を、生き生きとさせて、埋葬する。そういう物ばかり書いているのかと思うとぞっとする。でも、俺は俺の為の図書館の司書でなければならないのだ。それが俺の役にしか立たないにしろ、俺は書くことで虚ろな自分を繋ぎ留めているのだ。

 数年前から行き当たりばったりで、「人に読まれることを意識した」「俺が読みたい、古臭い」ファンタジー小説をネットにアップしている。ほんの少しだが、読んでいる人もいる。

 人に読まれる、ということで、最初の方に書いた文章は特に読みたくない。俺は読みやすい文章なんて書いてなかったし、書くつもりもなかった。

 エゴイスティックな自分の為の小説ならいいだろう。でも、さらりと読めるゲームみたいな、ファンタジー小説が読みたかった。

 読みやすくしようと思ったら、単にスカスカな感じになった。人に伝わる表現を、と思うと味気ない物になる。更新頻度も少ないし、惰性で続けていた。

 でも、気晴らしに小説を書くというのは、それなりに身体にいいものだ。最近は、物語の中でよく分からない図書館で、シェヘラザードの語る「おはなし」と称して、ボルヘス矢内原伊作やフランシス・ジャムやノヴァーリスボリス・ヴィアンを引用していて、書いていて楽しい。

 もっとも、読んでいる方がそれで楽しいのかは分からないが、読んでいる人がほとんどいないという点では、好き勝手できて気が楽でいい。「人に読んでもらえるような」作品にしよう、とは思ったが、自分の為に書いているのだ。

 登場人物、がでるとして、誰かの人生に向き合う作業、というのが作品を作る上では必要になる場合が多いだろう。それは大抵とても疲れる作業だ。毎日他人の苦しみや喜びのシャワーを浴びていたらおかしくなる。

 でも、小説は、文章は、何でもいいから書き続けている方が良い。地獄のようなマラソン、なんて思うよりかは、司書なんだ世界の編集者なんだと思う方が身体にいいだろう。

 体調ぐらぐらだけれど、何かを消費して、何かを生み出さなければ。それが当たり前なんだって、そうやって生き延びなければ辺獄で迷子