肉袋の中の宝石、悪魔

あまり外に出られず、家でグダグダしている日々。しかしこんな生活をずっと続けられるわけがなくて、久しぶりに肉体労働。マスクをして、体力が落ちた身体でのそれはびっくりするくらい疲れて、俺、大丈夫か? と思ったが、大丈夫大丈夫ではないとかではなく、やらなければ。やらなければ終りってことだ。

 とはいえ、体調は以前よりはだいぶ良くなっている。ちゃんと外出なきゃなってことだ。引きこもっていた頃は気分の波が激しかったが、一応読書の時間はとれていた。でも、当たり前というか、身体が疲れていると活字を追うという気にならない。

 けど、俺の楽しみは読書なのだ残念なことに幸福なことに。貧しい者にも等しく書物は開かれている(と思う)。好きなことがあるのは幸福だきっと。

 雑記。

ボルヘス詩集『永遠の薔薇・鉄の貨幣』読む。どれだけ理解しているかは置いておいて、俺は彼の書く文や詩や散文や講演の記録等が好きで、優れていると思っている。だが晩年に書かれたこの本は、好きとは思えなかった。意識したであろう、繰り返し現れる盲目や死からは詩情とは別の物を感じた

これまではページを開くと、彼の筆致に才能に夢中になっていたのに、この本は大して感受性が動かなかった。単純化して、同じことを語るのは意図したことだろうが、その詩は小説の一部を切り取ったかのような散漫さがあり、彼の以前の作品にも到達しないまま終わる物があったにせよ、それらには詩情を感じられたのだが、この本の中の文章には、そういったものが弱く、俺がこの本を理解してないとしても、別の本の方がずっと出来がいいのではと思ってしまった。好みの問題だろうか。目を向けている先が違うのだろうか。単に好きな作家の本の前で俺が戸惑っているだけなのか

生田耕作マンディアルグ『ポムレー路地』読む。彼の手にかかれば町の路地を幻が浸食する。「私の側の病的関心によって幻想的に拡大された細部」例えば「殺し屋の石鹸、いんちきトランプ、花嫁の鍵、悪魔の目玉砂糖」、もっと山ほどの不可思議に出会う。謎の女性。鰐人間。著者は一流の雄弁な人さらい。

 とてもこの短編は好みだった。マンディアルグの中でも一番好き。もしかしたら、マンディアルグとしては話が分かりやすいからかもしれない。すんなりと様々な魔術(意匠)や構成(骨子)が頭に入ってくるのだ。

 『前衛調書 勅使河原宏との対話』読む。勅使河原宏の足跡と映画作品についての本で、とても面白かった。華道家の家に生まれたが、美術への道を歩み映画制作をすることになる。だが、父と妹が相次いで亡くなり、華道家として本格的に生きることになる。彼の作品が様々な経験から育まれたことが分かる。

映画の話を引き出す四方田犬彦がうまい。勅使河原は型にはまった演技を嫌い『砂の器』での岸田今日子をとても褒めている。ヌーベルバーグの監督の話題、影響関心。『利休』のシナリオを赤瀬川源平に頼んだのは路上を見つめるトマソン、無用の物から。それが利休の茶室に繋がる

監督の立場にある時、撮影時に型にはまったものよりもハプニングへの対応や揺れを求めるのは、似ていても昨日と同じ花などない、自然の花で構成する世界、いけばな、花を素材を尊重して与えられた物を空間に配置するからだろうか。

 彼の花、いけばなの作品が好きなのは、美術の空間把握能力、抽象絵画やミニマルアートに通じる美意識を感じるからだろうか。映画、美術、華道、陶芸等というものが混じり合って、それぞれの制作に良い影響を与えているように思える。

 同著106p

四方田「(伝統とか映画史的記憶とやらが重荷になったかと質問して、勅使河原がないですと答えた後で)そこがハリウッドにこだわり続けるゴダールなんかと違うんですね。勅使河原さんのフィルムには映画というものをめぐる自己言及が全然ないわけです」

勅使河原「そうなんです、風景や人物たちに感動したりという、そういうぼくがただいるだけなんですね」

 この質問はとても興味深く、軽やかな彼のスタンスを表しているから、読んでいて楽しかった。目の前の題材を捉える、美しく或いは意図したとおりに撮る、なんて言葉で書くのは簡単だが、それができるのはとても困難だろう。美しいコンポジションを提示する作り上げるのに、美術、華道の感性が通じている。引用と主張(政治、意志)の織物を音楽に乗せて投擲するゴダールとはかなり異なる立場にいながら、二人共刺激的で素晴らしい作品を作っているというのは感謝したくなるような心持にすらなるのだ。

 アイラミツキの復帰第一作のシングル『lightsaver』のカップリング曲f.c.c. が本当にいい曲なのだが、この曲シングル限定でiTunesに売ってないのだ。何年もどこを探してもない。だが、数日前アマゾンで5000円で売っていた。マジかよ。今見たら数日で売り切れてた。マジかよ。

宇野千代95歳(!)のエッセイ『私は夢を見るのが上手』読む。歳をとり身体の不自由について「人間はどんなことでも、慣れれば平気になれるものなのである」と言えるのに明るい心持ちになる。歳をとっても、欲望はなくならず、整理されシンプルになる。書けなくても机に向かう姿。人生とは行動すること、そう彼女は言う。

ボルヘス、文学を語る』読む。米大学での講義録。様々な作品を手がかりにして、詩や文学について語る。それは自分の文学観と自作への言及になる。「書物は不壊の対象ではなく美の契機」「生涯で最も重要な事柄は、言葉たちが存在すること、そしてそれらの言葉を詩に織り上げるのが可能だということ」

ボルヘスの自撰短篇集『ボルヘスとわたし』読む。登場人物も読み手も夢の中に誘うようないつもの作品と共に、残酷で暴力的な作品も多い。百年前のブエノスアイレスを想う。自伝風エッセーと著者注釈があるのが嬉しい。その中でアルゼンチンの人間はやくざや女衒の話を好むとあり、日本にも近い文化、ヤクザ、任侠物。色町、花柳界についての作品の歴史と人気があることを思う。色欲と暴力は(物語の中では)どこでも人気だと言ったらそれまでだが、それが作品として残っている、未だに人気があるとしたら、見知らぬアルゼンチンに日本と近しいものを感じたのだ。

 最近ボルヘスをよく読んでいるなあと思う。彼の本を初めて読んだのは大学の時で、大学の頃読んだ本、好きになった本で、俺の好みはほとんど変わっていないことに気付くと、何だか虚しい気持ちになる。だけど、俺は大学の頃よりも作品に対する理解が深まった、或いは別の感受性を得るのだ、と考えるとまだましな気がする。

 恐ろしいことに俺は読んでいない本が山ほどあり、しかし俺は読んだ本を十全には理解できない血肉にできないそうだと少し思えてもそれらは薄れゆく。大した理解のないまま、やがて、精神か肉体かが駄目になるのだ。

 今の状況だと、それが身に染みる。大学の頃は先のことはなんとかなると思っていた。まあ、なんとかなったのかもしれないが、それから十年以上すると、駄目かもしれないという気持ちが滓の様に身体にたまっていくのだ。

 そういう考えを頭から締め出すためには、書く/読む、しかないのだ残念なことに。虎と遊んだり生でガムラン聞いたりしたい、けど今の俺ではとても無理だ。でも、俺は幸福だと錯覚できる時間が多い方がいい。だから肉袋の中の宝石を、悪魔が憑りついていないかと、ありもしない虚妄にふける。