錯覚を編み、蝕み夢を

さすがにここまで長引くとは思わなかったというか、思わないようにしようとしていたというか。働き口は減っているし見つからないし。まあ、選ばなければ、誰でもどこかで働けるだろうが、大抵の人はそういうわけにはいかない。でも、そろそろ覚悟を決めなきゃなってことか。

 ふとした時、心がささくれ立っていることに気付いてしまう。自分の身体や思考がスポンジのように感じられる。でも、水を吸ったその時は、いきいきとしているような錯覚を覚えるのだ。錯覚で編んだ紐の上、綱渡り芸人で生きていけたら。

家にいるべきだし、第一金が無い。でも、家にこもっているとおかしくなる。流石にこの時期は極力行かないようにしていたのだが、厭になり新宿へ。仕方なく乗り換えで利用はしていたが、新宿駅で降りたのは2,3ヵ月ぶりか? こんなに新宿に行ってないのは初めてかもしれない。

 でも特に用があるわけでもない。薄汚くも華やかな雑踏を歩くと心地良い。紀伊国屋書店の壁に森山大道のプリントがあって、元気を貰った。本とお菓子とゲームを買う。色んな店先にビニールカーテンが出来ていて、人通りや店の人の入りもまばらだった。店内ガラガラで、通りを見る店主が目に入る。二回も。街が少しずつ弱っていく、かのような感覚。そんなのは感傷だって、思う方がいい。これからの生活は不安しかないが、明日のことは明日にできたら。

アイスキュロス『縛られたプロメーテウス』再読。天界から火を盗んみ人に与えた罪で、終わりなき責め苦を受ける。永遠の苦しみとか火刑、という題材は恐ろしく、惹かれてしまう。『裁かるるジャンヌ』や自らの焼身自殺をした某国の僧侶。彼らのことが時折頭の中で映像になり、投射され、俺は陶然とする

赤瀬川源平が選ぶ広重ベスト百景』読む。シンプルかつ大胆な構図の作品は、どれもこれも素晴らしい。赤瀬川の感想・解説からは感動が伝わり読んでいて楽しい。技法や構図から、つげ義春水木しげるの絵を連想するといった話題まで、なる程と思う説得力がある。

ヒッチコック『鳥』久しぶりに見る。パニックの要素としての鳥って絶妙だなと思う。猛禽類でなければ、どうにかなりそうな感じと、集団で襲われたらどうにもならない存在。攻撃してこない鳥の群れは、いつ襲ってくるのか分からない恐怖心を生む。良く出来てるなー

辻惟雄他『花の変奏』読む。文学や絵画や行芸等の中に現れた花と日本文化についての一冊。仏教から花の意匠は生まれ、四季が花の文化を育む。九相観(死んだ人が土に帰る様)、六道絵の中で腐乱して啄まれ白骨になる様子に四季の移り変わりと花が描かれているのはおぞましくも美しい。

古今集では落花の首が多く収められているという。散ることへの嘆き感嘆安らぎ。日本人と花、諸行無常、全ては移り行くという仏教思想を感じる。それでも草花は芽吹き、魅惑する。文中に花筏(桜の花びらが集まり水面を流れる図)という俺の好きな言葉が出たが、桜は散るからここまで愛されるのだろうか

永井荷風『麻布襍記 附・自選荷風百句』読む。初めて荷風の小説を読んだのは高校生の頃で、なんとなく好きかもしれない、というぼんやりとしたものだった。おっさんになり、荷風の孤独侘しさ寂しさ優しさ、といった物が多少は身に染みてきた。孤独という病を抱えたまま生きるのは、辛い慰めなのか

赤瀬川原平が読み解く全作品 フェルメールの眼』読む。フェルメールをカメラが出来る前の写真家、と定義し、その魅力に迫る。19世紀にカメラが登場するまで、絵画はリアリズムを目指していた。フェルメールの絵も本物みたいなのだが、少し違う。ところどころ筆のタッチがずいぶん粗いのだ。

それは視覚のレンズ効果。ピント機能により、合っているとこはありありと、合っていない所はぼやけて見える。また、絵画的な人のポーズではなく、スナップショットのように人の動きを切り取る。白い歯を見せる女性の絵画なんて、昔はほぼ無かった。写真のない時代に、写真的な写実と神秘を備えている

全編空撮のドキュメンタリー映画、ホウシャオシェン制作総指揮『天空からの招待』見る。台湾の美しい自然、発展、その代償。島国で農耕と漁業が盛んで山が多く、経済発展を遂げた台湾という国は日本に似ていて、映画を見ながら日本の自然と歴史に思いを馳せる。空撮で雄大な自然を捉えた映像は圧巻

山田五郎『へんな西洋絵画』読む。現代人が見たらへんな絵画を集めた一冊。明らかに遠近法がおかしい絵や想像上の動物、超絶技巧を駆使して描かれた細密画やデフォルメの激しい身体。時代や国や作者のことを考える。落選が続いて、絶望する男なる題をつけたナルシストイケメンのクールベの自画像がツボ

 大人、というか悪鬼のような顔をした「かわいくない子供」やデッサンが一部だけおかしい身体というのは、見ていて面白い。ぎょっとするものだったり、作者の美意識を感じられる物だったり。自由に描いているんだなって伝わる

檀一雄『わが百味真髄』読む。幼い頃両親が別離し、料理をすることになった著者は報道班員となり、各国の料理にも触れる。どんな食材も貪欲に求め、調理する。自分の為、人をもてなす為。何度か太宰治の名前が出てきて、さっぱりとした仲の良さを感じる。酒飲みは優しく強引で寂しがりだ。

図書館で古い『マラルメ詩集』を借りたら、装幀がピエール・カルダン。シンプルで洒落ている。神秘をまとう優雅な倦怠或いは音の連なりのごとき飛翔。

「諸々の対象の観想、対象がかもし出す夢想から立ち昇る心象、これが詩というものです(略)この神秘を完全に駆使してこそ象徴が形作られるのです」

 マラルメ関連の本を読むと、高確率で「難解」と書かれている。それはそうとして、彼の詩についての文章は、とても詩情に溢れていて良かった。説明できないことを表現するには、詩やユーモアのセンスが求められる。批評や評論がつまらないとしたら、その分に詩が足りないからだろう。俺はマラルメの詩や、もっと言うと古典的な詩を理解しているとは思えないのだが、彼の文章を優雅だと思えるのは幸福だ。何度でも迷い、感動できる。

 とはいえ、色々と当てのない中年がいつまでも迷子というのは、心身が腐っていくのだ。みっともなく、辛いことだ。蝕みの中で見る夢よりも、健康的な状態で、明晰な瞳で物事を見ていきたいのだが、そんなことができていたかなんて子供の頃から疑わしい。

 変わらない変われないんだ大体。それでも、本は大抵俺に優しい。図書館でならタダで、俺のメモリや処理能力以上の物が閲覧できるから。こんな状況だけれど、迷子を楽しむ心を忘れずに。