今も変わるから

 朝や夜、少し肌寒く感じる時があって、ようやく秋の始まりを実感する。デパートの菓子売り場で、和三盆の干菓子の形がお月見になっていた。まだマスクが手放せない生活で、東京の感染者はなんとも言えない推移をたどっているけれど、何事も変わっているのだろう。

 渋谷や新宿へは仕事帰りやら用がないけどなんとなく向かうのだが、ここ数日で明らかに人が増えた。あの日の前の混雑っぷりには戻っていないけれど。これが良いことだと感じられたらいいなと思う。

 神経が過敏になっていて、とても辛かったけれど、前よりかは緩和しているような気がする。それはきっと、新しい小説を書いているから。書かない時はずっと書いていないから、自分の書き方、文章の呼吸というか流れというのがしっくりこない気がするけれど、ある時はっと思い出す。自分の好きなリズム。物をつくるって、なんて健康に良いことだろうと思う。

 体力気力は低下していて、どうしても良いことが思いつかないし、起こらないけれど、小説を書きたいなら書けるならまだ平気なんだって、そう思う。

 雑記

『文豪と暮らし』読む。昔のゴールデンバットのデザインめっちゃかわいい。泉鏡花はおばけを信じていてたのに、犬やバイ菌を非常に恐れ、何でも加熱してパンの自分の指が触れた部分すら捨てた。室生犀星は貧乏が長く、ツグミを愛でるのではなく、食べた後、身体がほんのりと桜色になるのだ。等々

 泉鏡花が目に見えないばいきんを非常に怖がったのは、このコロナを意識せざるを得ない現状でとても身に染みた。俺も何かに触るだけで非常に気分が悪くなっていてヤバかった。外出ができない! 座席が空いているのに、電車で一人だけ立っていることもしばしば。

 見えないものが見える感じられる信じられるってもろ刃の刃かよ。(俺は幽霊妖怪信じていないし「見える」とか言う人が無理だけど、泉鏡花は好きだ)

Bunkamuraの展示カタログ『永遠のソール・ライター』読む。街を、街の顔色が変わる瞬間を捉えた写真。そして、妹やパートナーの女性といった、親しい人を撮り続けた写真。人生の大半をニューヨークで暮らしているのに、自分をよそ者と言う彼。だからこそ、街の些細な変化にときめくのだろうか。

 自分がひかれる街に住み街をとり続けているのに自分をよそ者だという彼の発言に森山大道を連想した。でも、ソール・ライターと森山はかなり離れているような気がする。ソール・ライターはきっと、よりよく生きよう楽しもうとした生活者としての一面があって、だからこそ家族やパートナーを美しく撮れた、とり続けられたのだろう。

 昔は森山大道みたいな、もっというと中平卓馬みたなヒリヒリする人らの作品がすきだった。挑戦的で挑発的で、見る方もただではすまないような作品。でも、今は愛おしい人をとらえたものだって素直にいいなって思える。おっさんになって少しはよかったところかもしれない。

『かわいいナビ派』読む。ゴーガンや日本画の美学に影響を受け、自分たちを新しい美の預言者(ナビ)と称したナビ派。平面で装飾的、感覚的な絵画。読み解く絵画、理想化された身体とは逆の、身近な人や景色を愛した画家達の絵はゆっくり見るのが合っている。

『この写真がすごい2』大竹昭子・編読む。70人のインパクトがある一枚の写真と、編者の短い文章が並ぶ。写真家の名前や出展は後ろに纏められており、誰の作品なのかって先入観抜きで見られるのが素晴らしい。正直、好きではない写真が多い。でも、色んな人の写真が一気に見られるって刺激的で楽しい。

チャールズ・シミックコーネルの箱』読む。絵も彫刻も作れない芸術作品コーネルの作品と偏愛モチーフについて、著者が写真と散文を添えた一冊。箱の中につめられた小世界。がらくたも古典作品も同価値にコラージュ。子供が好きな物を集めたような、幸福な時間が閉じ込められているかのよう。

 コーネルの箱ナビ派の作品も、二十代の頃はもっと刺激的な作品を求めて目を向けなかった気がする。でも、些細な日常に、穏やかな時間に感応できるっていうのも素敵なことだ。

 俺の生活や精神状態はいっつもグラグラで、幸福な状態、という物に関する理解、共感、感応の数値が低いように思えていた。まあ、単純な話、希死念慮がどうだなんて言ってる人間が、幸福な人々の素敵な生きざまを見ても居心地がよろしくないっていう下らないことなんだけど。

 ただ、俺は俺の生活を良くしていかなきゃなって。何度でも忘れてどうでもよくなるけれど、好きな物を見て触れて、何かを書いていけたら。その時は忘れているのだろう忘れていいのだろう。忘却は恩寵、と言った川端康成を想起する。また読みたいな。でも、読んでいない本が山ほどあって、げんなりして有難いのかも。