だって、感受性全開

結構疲れている。疲れているということを認識して、回復しなければ、と思う位には元気になってきたのかもしれない。

 小説を書かなければと毎日思っているのに、できていない。しかも、小説を書こうって思っている時は、他人の小説が読めないのだ。他人の創作物を読むというのは、その位力がいる作業なのかもしれない。

 それでも、何も目標がないよりかはましだ。目標、手に入る、手が届くものといえば、最近植物を育ててみたいと思っていて、ズボラな俺でも育てられそうなのを探すとミントが良さそうだと思った。俺はチョコミントは好きではないが、ミントの香りは好きだ。

 でも、鉢を植え替える? 土を買う? というのがどうもわからない。店で聞いて買えよ、って話だが。

 最近結構やばい位お菓子を食べている。ストレスや疲れているとお菓子食べまくってしまうのだが、結構まずい。体調的にも金銭的にも。急に止めると反動が来るから、徐々に減らしていけたら。ガンガン食べてガンガン動いて夜は寝る、なんてのが理想だけど、実際はガンガン食べてもガンガン動いたり寝たりはしていない。

雑記。

映画『ティモシー・リアリー博士の生涯』見る。LSDで内なる意識に目覚め、自由を得ることを主張した博士のドキュメンタリー。大学の頃本を読んだ。内容は忘れた。ス⚪リチュアルではないから、博士の主張は荒唐無稽ではない。正しさや快楽のムーブメントが生まれては消えるのを見ると、歴史を思う

三好一『モダン絵封筒の世界』読む。メールはないし、電話も気軽にかけるものではない時代、文通は人々にとって一般的な手段だった。ロマンチックな絵葉書や封筒は、送る方も貰う方も楽しいものではなかっただろうか。だれかに文章を送る機会には、素敵な柄を贈りたいと思える一冊。

ドキュメンタリー映画マティスピカソ 二人の芸術家の対話』見る。二人の交流や作品を、近しい人達の証言と共に辿る、正統派ドキュメンタリー。二人の熱心なファンではないのだが、生涯作品を作り続けた芸術家の生き様は見応えがある。好きなことを続ける人は困難だが、とてもかっこいいのだ。

藤異秀明20年記念原画展が大阪でやるって。関西の人が羨ましいデビチルの漫画大好き。
おおかみさんのコピー、

永遠の小学生の皆様!

って素敵だ。キュートも狂気もある漫画、血みどろもサービス!

 デビチルの無印のゲームや漫画好き。アトラス、メガテンらしいダークな展開と子供向けのキュートなの、どちらもあったから。原画展行きたいけど、さすがに関西は無理だなあ。

 でも、ふと思ったのは、好きな人の作品を「生」で見ると、時折、本当に満たされた気持ちになるってことだ。美術館に行った時に、たまにこの幸福な現象に出会うことがある。

 たまに、もう駄目だって思う。でも、それを先延ばしにしてくれるのは誰かの、誰かの作品との出会いしかないのだ多分。

『東京モダン建築さんぽ』読む。モダン建築の見どころを、見たこともない形、素材そのものを生かす、パターンの繰り返し、人の動きを考えられた空間性(凝った手すり)といったキーワードで説明。建築に明るくない自分でも分かりやすく、建物の魅力に気づく。たまに目にしていた景色の新たな顔を知るのだ

 正直、建築の良さについて、俺はよく分かっていない点が多い。好き嫌いはあるが、具体的に言葉で語れない。でもこの本を読んで、好きになる見方が広がった気がした。特に空間性、人がゆったりと感じられる身体性ということを考えて建築を見てこなかったから、これからはその点も感じられたらと思った。街のいつもの空間が少し変わるんだ。素敵なことだ。

ツイッターの動画で、燃えるような赤毛の狐を見た。とてもかわいい。欲しい。似たような体格の、犬猫狐、全て歩き方が違うしみんなかわいい。毛皮を着た動物はどれもこれも好きだ。今日フィナンシェを食べたら美味しかったから、毎日狐にフィナンシェを作ってもらいたい

いしいしんじ『きんじょ』読む。三人家族の日常エッセイ。これがとても面白い。大人の作者も、小学校にあがる息子も好奇心旺盛、毎日のように、はじめて、に出会う。様々な登場人物も魅力的で、これは作者の瞳を通した風景や人物に呼応しているようだ。きんじょ、でも大人でも子供でもワクワクできる。

『世界のかわいい小鳥』読む。普段肉眼では、はっきりと見られない小鳥の姿が見られる。美しいカラフルな姿を見ると、生きるには目立たない方が良いような気がするが、見る方は有難い。たまたまだが、四枚の写真似たような構図の白と青。ぱっ目についたので自分の好みが分かるなー。

 いしいしんじの小説は、少し合わないかもしれない。でも、彼のエッセイは好きでたまに読む。中でもこの本はとても良かった。ああ、彼は、彼の家族や「きんじょ」の人達は世界に自分たちが開かれていて繋がっているんだなって感じられた。素敵なことだ。だって、感受性全開だ。

 だから、俺は彼の小説を読む気になれないのかもしれない。だって俺の好きな小説や俺が書いている小説は、エンタメ性物語性がある(と思っているし、すぐれた作品は大抵そうだ)けれども、狭い世界の出来事への逃避や憧れやオブセッションから生まれている物が多い気がする。世界と友達になれていない人間の小説。

 楽しそうな人達を見て、ああ、俺とは違うのだと感じることがある。卑屈や皮肉ではなく、生き方の問題だ。人生の色んなことよりも、神の存在や塵芥タトゥー宝石まがい物、好きなんだ大切なんだだから、生活はうまくはく行かないんだ。

 でも、楽しそうにしなかったら、つまんない。俺はいろんな人たちの様には生きられなかったけれども、忙しさや不安で楽しみが霞まないように。なんどでも思う。

 感受性が遊べるように。それを思っていたら、案外うまくいくんだって祈って思って。