中年が見た夢の話

もの凄く、嫌な夢を見た。以下長文。

中学の時の顔見知り程度のクラスメイトと再会して、その日の数時間後に電話で場所を決めて会う約束をした。彼は何故かとてもうれしがっていて、俺も嬉しくなった。代官山で時間を潰していて、とても高い場所でスマホiPodを落としてしまった。学校で落とした➡

らしいのだが、どうやっても落としたらしき場所には辿り着けず、約束をしたクラスメイトにも電話が出来なくてとてもあせり、街を歩き回る。その時、町の路上で写真の展示をしていた、絶縁した元親友と再会した。夢の中なのに、十年以上たった親友の顔が分かったことに俺は驚く。友人とは酷い別れ方をしたのだ➡

俺とその友人は、大学時代の親友だった。有人が少なく、気難しい俺だが、彼は親友といえる存在だった。お互い物作りをしていて、俺は彼の作品と優しい人柄が「友達」として大好きだった。辛辣な俺だが、彼は荒削りだが才能があると思っていた。俺も彼も、自分が思ったような華々しい成功を得られないことに内心不満だった。➡

そんなの、若い芸術家(志望)ならみんなそうだ。俺は元々すれていたので、人に分かってもらえなくても、作品が作れたらわりと平気だったが、彼はそうではなかった。大学卒業後に会った彼は変わっていた。詳細は書けないが、俺はとてもショックを受けた。でも、変わってたのは美術業界でのし上がる➡

功名心だけで、それ以外はちょっと無神経で優しい彼のままだった。その時の俺は、幼稚で潔癖で、彼の変化とある行為が許せなかった。そこまでして有名になりたいのかと、彼が嬉々として話す内容に耳が痛かった。芸術家は、作品を作れれば他には何もいらない。そんなことが綺麗事だって、二十代の➡

俺でも分かっていたはずなのに。親友との仲はギクシャクして、俺は池袋のジョナサンで彼を呼び出して、何で俺が怒っているか、彼を傷つけないように説明をした。でも、わかり合えなかった。俺は辛くて、千円札を机に出して店を出た。俺みたいに口が達者ではない彼は何も言えず➡

さめて固まったパスタを前にうなだれていた。別れ際にちらりと見た、彼がうなだれ傷ついている姿は、今もはっきりと記憶している。それ以来、彼とは音信不通だ。
その彼と、夢で十年以上ぶりに再会した。俺は戸惑ったが、夢の彼は笑顔だった。写真の展示をしていて、少しだけ話した。当時のことなんて➡

口に出さず。俺がスマホiPodを探していることを告げると、彼は手伝ってくれると言ってくれた。とても嬉しかった。彼と仲直り出来た気がした。親友の隣には、小柄で仲良さげにしている男性がいた。三人で歩いていると、その人が何か口ごもっていて、俺はピンときて「仲良しだね。付き合ってるんだ」

と言った。彼らは「あれーばれたかー」みたいにおどけて、ほっとしているようだった。大学の元親友は、異性愛者。俺は恋の相談を受けたこともあった。親友から恋の相談を受けて、少しだけ嫉妬する。ゲイ(俺)ならよくある話、でも俺は覚めていて、彼の恋の成功を願っていた。それなのに、夢の元親友➡

バイセクシュアル?ゲイ?になって、恋人が出来ていたことにとても胸が痛くなった。でも、俺は彼を傷つけ友情を壊したのだ。自分の胸の痛みは、汚い感情だと思った。三十代になった俺らは、それなりに、傷つけ合わないような会話をしてまちを歩いていた。気づけば、俺は代官山ではなく池袋にいた➡

元親友がバスに乗って代官山へ行こう(そんなバスは実際はない)と言って、バス停で待っていたのだが、その彼がどこかに行ってしまい、彼の恋人と二人きりになった。その瞬間、彼の恋人は豹変した。「お前は俺の大切な人を傷つけた。許せない」と悪意を向けられた。それは事実だが「何で急に彼を➡

嫌いになったのか理由を言え、とキツく言われた。でも言えっこなかった。俺の告白が元親友の名誉を傷つけるおそれがあったから。その時、俺は走り出し、元親友がいるトイレの個室にたどり着いた。彼は大泣きしていた。彼は何か言っていたけれど、別れのファミレスの時みたく、話しはかみ合わず➡

要領を得なかった。その時に俺は、彼の容姿に「老い」を見たのだ。俺らは二十代ではない。おっさんだ。泣いて傷ついた友人に心を痛めながら、造形の老いについて冷静に注目する自分は、芸術家気質で、人でなしだと思った。俺はまた、彼を傷つけ慰めることもできなかった。➡

彼と別れて、池袋の街を歩くと風俗店が並ぶ通りがあり、誰でもいいからセックスがしたいなあと思いつつ、スマホを探していた。辺りは暗くなっていた。約束をしたクラスメイトに理由を話して謝りたかった。だけど池袋から代官山はいつまでたっても歩いて辿り着けない。夢の中の俺は、代官山と池袋は➡

隣の駅だと思い込んでいた。何度もきゅうな坂を上り、ヘトヘトだった。そして、どうやら代官山に到着したらしい時に目が覚めた。
最悪の気分だった。でも、元親友が今回の事では傷ついていない事実に気づいて、ほっとした。きっと、彼は俺とのことなんて忘れている。二度目➡

に傷つけた事実がただの夢だったのだと思ったら、涙が出た。
今の俺は、かなり酷い不安定な生活を続けている。色々と状況は悪化しており、二十代の空元気ではどうしようもないことに直面しながらも、俺には空元気と芸術位しかないのだ。ただ、はっきりと分かるのは、自分が小説➡

をかく力は、明らかに上達したと言うことだ。十年以上続けているのだ。当たり前だが、それは小さな救いになる。
でも、俺はもう親友とは会えないしあの頃の友情は戻らないのだ。それは、やはり辛い。つらいけれど、芸術があると生きていける。俺は芸術至上主義ではない➡

でも、芸術は現実にないものをみせてくれるのだ。めまいと錯覚を与えてくれるのだ。二十代も今も、頼りが処方箋と芸術。でもさ、それだけでは足りないんだ。足りないのにいきていけちゃうんだ。


小さい頃から、神様がいたらいいなって思っていた。自分に救いをもたらさない、残酷さすら生温い➡


神話の中の人間なんてゴミくずとすら思わない、傲慢で絶対の存在がいたらいいなって。そりゃ、優しい救いの神様がいたら嬉しいけれど、小さい頃からそんなのはいないと、根拠なき確信を抱いていた。
どこにもいない、でも大好きな神様。貴方のことを考えると、少しだけ気分が楽になるんです➡

頻繁に、貴方のことを考えて、神様的な絶対者に憧れる登場人物を描きました。絶対者に憧れる人は、大抵不幸になりました。でも、憧れは愛情は友情は、たまに美しいものだと思います。俺の作る小説の一部分は、光が反射した硝子やガソリンのようにきらきらしている事でしょう➡

まあ、それは大抵の作品はそう言うものだと思います。感受性や経験や知性は、目にうつしたものの輝きを捉える事ができるし、出来映えはともかく、作品は誰かにとっては輝かしいものですから。でも、神様、俺は貴方に近しい輝きを持った小説を書いてみたい。そんな不可能な➡

夢物語を糸にして綱を編み、観客のいない綱渡り芸人を続けています。大体毎日、綱から飛び降りたいと思っています。でも、それをしないのは愚かにも傲慢にも自分は永遠に若く、老いるときに死ぬのだと思っているからかもしれません。そういう強がりを自分に言い聞かせ➡

かまさま、貴方や元親友への愛情なんてものは持っていないんだよって、輝きに目を背けて小説を書くことで、錯覚ができているのかもしれません。辛いのに、俺は色んな人や作品に愛情のような一方的で気持ち悪い恋文のような感謝を抱いているのです。げんなりする。気持ち悪い。でも、俺は若いから。