余生の終わり

小説を書き終えて、文学賞への応募を完了した。少しだけ気が楽になると共に、自分にこの先がもうないような気もしてくる。二十代はなんだかんだで乗り切れたことも、三十代後半になってくるときつくなってくる。

 今回のギャンブルで多額のお金を溶かしてしまったのは完全に自分の責任だ。買うか悩んでいた、お絵かき用のタブレットは当分買うことはできないだろう。

 本当に愚かなのだが、今もギャンブルがしたい。お金を取り戻したい。生活の不安を少しでも減らしたい。だが、それが負債を増やすだけなんて馬鹿でも分かる。

 だけれど、馬鹿なんだ。本当に底の底までいかないと、理解できないんだろう。今は踏みとどまれているが、借金ギャンブル生活が眼前でぼやけて見えている。

 というか、数十万程度で自分の人生が狂うと考えると情けなくも馬鹿らしい。そんな金で人生終わらせようと思うなんて。

 自分としては、十数年もの様々なことが重なって、精神的にまいっているのを自覚した。色々あってもなんだかんだで立ち上がってきたけれど、さすがにきつくなってきた。

 書きたい小説の構想はある。でも、何度書いても誰にも求められず、その他の生活も上手くいかないのなら、もう生活も終わりにしたい欲望が目の前をちらついている。

俺は薬を飲んでようやく仕事に行けたり行けなかったりする人間だから、お金が無いから沢山頑張って働くというのが難しい。無理をしてそのぶり返しも怖いし、今の自分の精神状態がいつもよりもずっと不安定なことを自覚している。

 頭がおかしくなるのが怖い。自分が自分でなくなって、他人に迷惑をかけたりひたすら寝るだけの生活。過去にそういった期間があって、その無駄な時間を今も悔いているし、そこから立ち直った自分の人生は余生だって思ったこともある。

 余生の終わりを考えると、怖くなる。何とかして立ち直ろうとしてはいるが、それと同じ位、もう破滅して自殺したい気持ちを処方箋で抑え込んでいる。

 それに、もう、躁鬱の薬を十数年も飲み続けるのも嫌になった。十数年躁鬱の薬を飲んで、小説を書いて、得られたものは?

 俺は自分の書いた小説が好きだ。様々な人の作品に触れ、歳をとってようやく理解できたことや、その美しさをより深く感じられるようになったこともある。歳をとるのも悪いことばかりではない。

 でも、それ以外はボロボロだ。素晴らしいこと楽しいことも結構あったし、自分の小説(作った物)が好きだと言えるのは誇れることかもしれない。

 ただ、それ以外の不安憎しみ悲しみ虚無、そういった物の方がずっと多きかった。美術やら処方箋やらが一時の鎮痛剤で、そういうのを誤魔化して生きてきて、限界がきたのだろうか。

 限界を感じたきっかけがギャンブルで大負けしたというのは、自分でも笑えてくる。お金。芸術や親しい人や自然等ではなく、お金のことばかり考え悩む人生。

 いつも、一応前向きなふりをしているのだが、今回は分からない。疲れた。疲れたんだ。