地獄の入り口ダンス

今の俺の人生は死んでるのと同じでは?と思い、酒と薬を追加して、借りた金をギャンブルにつっこもうとネットで色々検索しまくってたら、数時間寝ていて起きた。吐き気がする。汚泥に咲くのが睡蓮だとして、俺は花々の幻覚を見ながら終わるのか。新しい幻覚を作る事もなく、死んだまま腐敗していくのかな。

止めたい、とか思いながらもスマホで出来るのだから、ギャンブルは続けていた。恐らく毎日やっていた。今もだ。

 でも、そんな資金もない。クレカの支払いは膨れ上がる。その上職探しも上手くいっておらず、収入面が厳しいのに、止められない。

 救いも楽しみもギャンブルしかないから。

 その日、というか数日で十数万負けて、もうやけになってプレイしていたら、妙に勝ちが続いた。でも、その勝ったのも賭けてしまうのがいつものパターンで、それなりにまとまった勝ちがあっても、それをかけ続けているといずれは負ける。

 そんな当たり前のことが分からない。分からないというか、かけ続けてないと不安で仕方がない。気づけばスマホで入金。最近は一日の食費は300円にしているのに、数万円を気軽に入金。

 そんな愚かな生活。

 その日、負けが続いて、いつもと同じ物をプレイしていたのに、勝つ。ずっと勝ち続ける。途中で冷静になることがしばしばあった。降りることができないから、俺は負債を膨らませていた。

 でも止まらない。止められない。スマホの画面を見続ける、かけ続ける。

 結果、一日で数十万勝ちが残った。トータルではまだ負けだが、自分としてはかなりの金額を得て、少し現実味がない。やっすい俺の給料数ヶ月分かな? それを一日で稼いだ(とか言いながらその日だけで7万近く入金して溶かしてるけれど)

 これでとりあえず、年末年始以降も生活費は大丈夫だろう。そう思ったら気が抜けた。今も面接の結果待ちだし、未来が明るくないのは同じだが、あまりにも視野狭窄過ぎた沼からは抜けられたような気がする。

 毎日スマホギャンブル、クリニックのお薬、寝る。元気なふりをして、どうにか面接をしても受からない。もう、駄目かもしれないと思った。

 最悪の生活。俺よりもずっと負債を抱えていたりする人らは沢山いる。色んな人のを見た。彼らがツイッターやらブログやらを更新したり、普通のつぶやきや日記を書けているのが不思議だった。俺は無気力で、しかし生活費をどうにか稼ごうと自分なりに必死になっていた。動ける時は日雇いもしていた。

 今、多少精神が安定している時に、俺にはもう欲しいものがないのかな。そう思ってしまった。

何年も大切にしていた物を売り払ってしまった。お金の為。数万円にはなったけれど、それらはすぐに消えた。

欲しい物は沢山あるけれど、ギャンブル生活以前から躁鬱でメンタルの波が激しく、仕事を転々としているから、不安で中々買えなかった。大好きなものも、どうせ売り払ってしまうのだ。

 欲しいものがない、やりたいことも今はやる気が起きない、かといって働く気もない。無気力なのか鬱なのか。

 そんな曖昧な感情を抱えたまま日々を溶かして金を溶かしている。でも、最近少しずつ本を読めるようになってきた。ずっと本が読めなかった。ずっと、スマホでギャンブルをすることしか頭になかった。

 俺は数か月前までギャンブルをほぼしなかった。誘われて少し。たまーに一、二万とか数千円すって落ち込む。二度とやりたくないと思う。そんな人生。

 だけれど、もう変わってしまったのだ。今は勝ったからいいけれど、俺は多分またギャンブルをするだろう。

 ただ、本を読めない位の愚かな状態にはもうなりたくない。本を読む/書くことだけが、俺に残された楽しみであり続けていることだから。

 この愚かな体験、中毒状態、依存状態も何かの創作の餌になるのかな。書かなくっちゃな。読まなくっちゃな。それには生活を安定させなくっちゃな。

 ここ数ヶ月毎日ギャンブルをしていて、その地獄の入り口でおかしくなっていた。入り口でだ。もっと深みにはまっている人は山ほどいるだろう。

 入口で希望と絶望のシーソーゲーム(笑)に苦しんでいた自分は、同時に熱狂もしていた。

空虚な俺の隙間を埋めてくれたのは、大当たり(後で消える)と金を溶かすことだった。

雑記

連絡をもらえるはずの所が二つとも音沙汰なし。ふてくされて、一日中バッハを聴きながらギャンブル。我ながらまともとは思えない。マルク・コッペイというチェリストを初めて知ったがとても良い。金を溶かしながら聴くバッハは脳味噌を愛撫する。人間に戻りたいのにな

 

 

サルトル『戯曲 悪魔と神』読む。めっちゃくちゃ面白い。善も悪も、証明はおろか貫くのは極めて困難だ。犯罪、信仰、愛、戦争。人間の愚かさと嘆きを饒舌に語らせたら、サルトルは本当に上手い。悪魔も神もいないけれど、デーモニッシュで崇高な人間はいる。少なくとも本の中には!!!

 サルトルは評論や哲学はさっぱりだったり嫌いだったりするけれど、小説や戯曲の言い回しが本当にすごいと思う。生きた人間の言葉だ。犯罪者や聖人や聖人ぶった俗物の言葉や言動がものすごくうまい。彼の描いた物語や人物を見ていると、とても心地よい。ギャンブルでは得られない刺激がここにはある。もっとも、ギャンブルでも小説では得られない刺激はあるけれど。

麒麟が欲しいなーって思ってたら、焼身自殺をするひとの映像が頭に浮かぶ。『裁かるるジャンヌ』モノクロの、無声映画。声を奪われ、白い炎に焼かれるジャンヌ。それを見て涙するアンナ・カリーナ女と男のいる舗道』辛くて美しい。モノクロの映画って何でこんなにわくわくするんだろう。

ゴダールは初期のカリーナとのモノクロの映画が特に好きだけど、後年の映画におけるカラーの自然の美しさも素晴らしい。中平卓馬との近しさを浅田彰が指摘していたけど、政治的試みと敗北や作風の変化、ひっくるめて全部凄いってまじやべーな。凄い人間は他者に生きる力くれるなんちゃって

根津美術館『鈴木其一 夏秋渓流図屏風』見に行く。装飾的でありながらも、描写の巧みさは見事。白百合と落ちゆく赤い葉の対比が楽しい。そして円山応挙の没年の作品『保津川図屏風』がはんぱなく良すぎた。うねる濁流は同時に絹のようにしなやかで量感がある。岩のごつごつとした質感

と大胆な構図や省略。何度も作品の前を行ったり来たりしたけれど、どこを見てもすごい。写実の力を下敷きに、現実以上の自然の光景がそこにはあった。水と木と岩が生々しいのだ。生きている。素晴らしい。本ではなく屏風の本物を見られて良かった。

 根津美術館に行くのは久しぶりだ。チケット屋さんに出回らないから定価の1500円を払わないといけないから。数万円とかしているのに、1500円を惜しみ悩む愚かな俺。

 それに精神的に負けが続いてまいっていたので、美術なんてどうでもいいやみたくないやって思っていた。でも、鈴木其一は琳派で一番位好きなので行った。

 朝顔の画が好きだから、それは無いし点数が少ないから不満もあったが、やはり本物の屏風を見られてよかった。

 何より、円山応挙がすごすぎた。三十過ぎてやっと、雪舟円山応挙のすごさに気付いた。本、印刷では絶対に表現しきれない実物のすごさ。日本画は特にそれが顕著だと思う。

 俺はいつも金欠なので千円二千円を惜しんでいたけれど、円山応挙は見られる物は見に行きたい。写生の凄さを語られる彼だが、それを越えて本物以上の迫力がそこにはあった。すごい人の作品に感動できるなら、まだやっていけるような気がした。

 その気分もすぐに変わるけれど、でも、今は眼を向けられているってことにしておいて