君が見たものを何度でも

大事ではないのだけれど、(いや、その時その時ではとても大事なんだ俺の中で)色々とあって盛沢山。良くも悪くもとにかく疲れる。眠りが浅いのに、家の中にいると、ふと、寝入ってしまう。

 自分の残り時間、寿命、ではなく、何かしら意欲を抱けそうな時間が短いような、まだまだあるような変な気分だ。小さなことで、ぽっきり折れそうな、折れても仕方がないような、根なし草生活。そんなの嫌なのに、結局の所それしかできないんだ。

 そんな生活を向上させるとしたら、好きな物を見るとか触れるとか。それが難しいとか欲もないとか叶わないから見ないふりをする、ことだって仕方がない、けれども何かしらしていなくっちゃ、駄目になる。駄目ってどういうことか、理解したくないし理解できてはいないはずなんだけれど。

 恵比寿にある東京都写真美術館で「場所をめぐる四つの物語」を鑑賞。四人の写真家の作品が展示されているのだが、誰の作品が見たくて行った、というわけではなく、まあ、気が向いたから、といったような感じで訪れた。

 最初に展示されている、ユージン・スミスの「カントリードクター」の一連の作品がとてもよかった。おそらく、アメリカの田舎医者の診察や手術の光景を撮影しているらしいのだが、そこにあるのは緊迫した雰囲気で、まるで戦場での衛生兵の働きのよう、なんて感想を抱いたのだが、当たり前の話だ。手術に挑む医師も患者も、真剣そのものだから。ただ、それだけの話しだ。そして、スミスがそれを写し出したのだ。

 とはいえ、ゆったりとした時間、カントリードクター、何でも屋のオフショットも収められていて、戦場だって病院だって、悲しみと徒労ばかりじゃあない。働いている人々の様々な姿をこの一連の写真からは見出すことができて面白かった。

 奈良原一高「人間の土地 緑なき大地 軍艦島」も、とても見ごたえがあった。軍艦島で生活をしていた労働者、その家族、子供たちを収めた写真。奇妙な、あるいは一般社会からずれた人々の生活の記録、というのはそれだけでモチーフとして訴求力がある。

 その中で、人を、人の生活をどうとるか、というのが写真家のセンスと言うか、好みなのだろう。ロマンチックな眼差し、親愛なる眼差し、或いは、対象者を見たい映したいという(表現者としての痛々しくも切実なロマンテシズム)欲望。

 彼の写真は、そういった物がほどよくブレンドされているような気がした。センチメンタル過ぎず、しかし彼らの生活に寄り添っている、惹かれているような感じ。突き放すでも傍観者でもない。ちょうどよい、距離。

 ユージン・スミスもそうだが、奈良原も俺の超好み、な感じの写真を撮る人ではない。でも、惹かれたのは、彼らの構図やセンスが優れているという以上に、彼らが訴えたいものが俺にも見えた、感じたということなのだろう。

 誰かと同じ、かのような物を見る、追体験するというのは不思議な経験で、しかしとても好きなことだ。芸術の、表現の好きな所は、他人の生を、美意識を感じられることで、俺は無数の人生の一編に触れているよな感じがするんだ、好きなんだ。

 外に出て、スマホで写真を撮るようになっていた。どうでもいい風景。できあがりも「たまに、マシかも」程度の。でも、続けていくのが大事だ。街の中に構図を見つける作業は中々楽しい。

 最近は疲れまくっていて、写真や演劇や美術の本を読むばかりで、ちょっと頭を使う小説が読めてないし書けていない。でも、まあ、別のことをするのも大事な時間なのかもしれない、ということにして。

 山下裕二『驚くべき日本美術』を読む。その中での、彼の現代美術に対する視線にスゲー共感。

 

「社会問題を反映している作品が多いんだけど、そんな映像は僕に関係ないじゃない。しかも言葉で言えることなのにわざわざ造形美術にする意味があるとは思えない。(略)だったらジャーナリストになればいい。ところがみんな、美術という衣を着たがる。だから僕は基本的に社会派の現代美術が大嫌いなんです」

「文脈=コンテクスト。説明しなければわからないこと、とでも言うのかな。それが多ければ多いほど、美術としてはつまらないんだと思います」

「文脈倒れの作品は、絵をかけないやつが理屈に逃げているだけなんです」

 俺は大学生のころから、キャプションで辛うじて自立できるような、美術館の中でしか生き延びられないような作品がとても嫌いだった。でも、美術館で見られる現代アートの大半が、その文脈、アートワールドでしか生き延びられない作品だったのだ。

 ただ、山下裕二はめっちゃ作品を見ている美術史家で、自分の好きな作品が大好きで(なんて健全な事だろう!)単純なことを言っているだけなんだと思う。作品は見て感動出来てなんぼだろって。当然の主張だ。美術作品、なのだから、見て美しいか、すごいと感じるかという話なのだ。

 俺があまり好みではない、現代アートの村上やら山口晃やらを山下は評価していて、しかしそのポイントは俺も同じなのだ。俺は「好き」ではないが、絵、作品そのものに力がある。前後の文脈、立ち位置、なんてものを考慮しなくても、作品にインパクトがある。

 画って、見て美しいかそうでないか好きか嫌いかってのが「自分」にとって一番だろ? 誰かの評価ばかり気にしてるようじゃあ、アートワールドの一員には、投資家にはふさわしいかもしれないが、芸術家としての資質には欠けているだろう。

 好きな物は好きでいいんだ。

 そんできっと、好きすぎたら、ただ、好きって言うだけじゃあ物足りなくなるんだ。

 色々とトラブルと変化の日々。どうにか、暮らしていけますように。いかなくっちゃ、いかなくっちゃ。

はじめてみます

ふわふわへらへらしている。新しい仕事は慣れなくって、ああ、駄目だなあと思いつつも続けていて、しかしここ一か月、ほぼ毎日五時には目が覚めてしまう。俺はめっちゃ神経質なので、環境の変化で寝れなかったり早く起きてしまったり、ということがたびたびあるのだが、それで体力が削られるのが痛い。寝坊助なので、一日8時間は寝たいのに、最近は3~5時間しか寝ていない。(そして、家で一時間程度寝おちする。)だらだらいらいらして気が休まらない。

 ろくに本も読まずに、へとへとになって帰宅をして、ゲームやゲームの動画を見て、気づいたらああ、明日になっちゃうよ。

 みたいなの、全然好きじゃあない。好きじゃない日々を過ごしていると、自己肯定感がなくなる。よくない。

 そんな日々、スマホを買った。予想通り、一日中スマホをいじることになった。これが怖くて買わなかったのだ! 

 とは言っても、ずっと避けては通れないことだけど。

 ちなみに、ゲームは一つしかプレイしていない(その一つに時間を撮られているから、一つだからって意味がない!)。

 あんなにプレイしたかったファイアーエムブレムメガテンロマサガもツムツムもプレイしていない。グラブルは前にやって生活がおかしくなってやめた。デレステもバンドリも、モンストやパズドラも、当分やらないはずだ。

 

 その代わりsnsで人と交流。初めて数日で、ちょっといいことも悪いこともあった。なんでこの人はこんなことをするのだろう! と思うことがしばしば。具体的には書かないが、そりゃあマナー違反でしょ! みたいな人多いね! でも、俺の存在も誰かにとってはそれに近いものなのだろう。

 ただ、色んな人の生活を見たり知ったりするのって、やっぱり面白い。

 多分、ずっと同じ生活を続けていると、俺は駄目になる。それが平気な人もそれでうまくいく人もいるだろうけど。変化に敏感で耐えられないのに、じっとしてはいられないなんて、馬鹿な話。

 雨がずっと続いていて、せっかくの休みを家の中で無駄に過ごしてしまった。本も読まずに、スマホとパソコンがお友達。

 でも、やっぱり外に出なきゃ、駄目になる。ぼーっとしながら音楽を聞いて、歩いたり電車に揺られたり。俺のチューンナップ(クリンナップ)・フェイズ。

 スマホを買ってから、たまに街を撮るようにしていた。勿論、全然いいのは撮れない。ちょっと気が利いた写真、誰だって撮れるだろ? というか、すぐに良い物ができるなんて思ってないけどさ、でもさ、良い物を見すぎちゃったからさ、自分の写真を見ると何だこれって思うよ。

 けど、それなりに楽しい。街の中で構図を探すことも、偶然写ってしまったものも。俺は一番好きな写真家のような写真は撮れないだろう。けど、自分好みの写真は、撮れるようになるかもしれない。

 

 

 しばらくは、スマホのカメラでも俺には十分かもしれない。とにかく、数を撮るのが大切なんだ、多分。

 雨の中、渋谷へ。大好きなジャコメッティ中平卓馬関連の本を買う。大好きな人の本、何度も読んでいて、似たようなのを読んでいて、それでいいのかって、たまに思うことがあるし、俺は似たような人に、何かの問題に固執して動けなくなっているのか、動かないのが居心地がいいのかって思うことがあるけれど、今日は悪くはないと思える。だって、本をあまり読んでなかったから。

 帰宅ついでに図書館に寄って、本を十冊借りる。大体、週に一度、土日に十冊程度借りる。こう書くと、なんだか本を読む人みたいだが、あまり頭を使う物や面倒な物は読んでいないし、小説ですら週に一冊程度。エッセイ、評論、写真が多い本とかが中心だ。

 小説を書く、というか、題材が決まってラストも頭に入ってきた(俺はラストが決まらないと小説が書けない)。ただ、書き始めに至らないのは、もう少しパッションが欲しいというか、足りないんだ、俺。寂しい悲しい辛い苦しい、とか、愛おしい嬉しいでもやっぱり辛い、ああ、自分の感情が動いてるんだって感覚。

 それは、多分誰かといなきゃできないことで、本を読む/誰かの思想に触れる、ということでも可能だけれど、毎日知らない人に会って、下らない話がしたい気分だ。もうちょっと俺が稼いでたら、出会った誰かに、二度と会わない誰かに奢ってやるのにな、なんちゃって。

 最近感じているのは、それが事実であっても、自分を悪く言わない(認識を向けない)ということで、まあ、そんなん無理な話だけど、そりゃあ、事実じゃんって話だけど、それをしていたら歩き出すのがおっくうになる。

 誰かのことを考えて、誰かのこと、ここにはいない誰かのこと、小説書きたいんだ。

哀れにならぬよう愚かにね

 新しい仕事について、へとへとになる。これがいつまで続くんだろうって、毎回考えて、でも、続かなかったとしても、何かを続けるとか依存するとか頼みにするしかなくて、でも、頼みも依存先だってなくって、毎日へらへらしてやり過ごすのは愚かな事だろうけれども、そんな自分を哀れだとは思いたくない、というか愚かでもいいけれど哀れなのは嫌だな。哀れなのは嫌なんだ。

 写真機が欲しい、と思いながらも買ってない。金銭的な理由が主だけれど、それ以外にもあって、「今」俺が撮りたいのは、作り物の画面、コンセプチュアルアート(好きではない言葉だ)とかファッション写真みたいなものらしいのだ。

 お膳立て、衣装やモデルがあって、やっとスタートラインに立てるようなのが撮りたいんだ。

 そんなぐずぐずとした思いを抱きながら、新宿の街を歩く。写真を撮りたいな、と思って街を歩くと、街をどういう風に収めようか、と、ふと、頭に構図が浮かんでくる。

 また、渋谷の街を歩くと、特にスクランブル交差点付近にはスマホのカメラ以外にも、ごっついカメラを手にしている人らがちらほらいることに気が付く。

 俺が写真を見る、のではなく撮ることを考えたのは、小説を書けない時間に何かしたかったからだ。俺にとって小説を書くことは気になるテーマやシーンの編集作業であって、何であれとても頭を使う。だから、もっと瞬発的な、制作をしたかった。頭、というよりも感覚的な何か。

 森山大道『昼の学校夜の学校』再読。森山大道と写真を志す若者たちとの対話の記録。若い人々からの質問への、飾らない大道の言葉がとても楽しい。以下、彼の言葉の引用。

(印画紙はゲッコーのVR4 RCペーパー)

 

 

 

(若い時の写真が勢いがあって圧倒されるという言葉を受けて)「そう思ったら自分でやらなきゃあね。とりあえずやみくもにでもいいから、まず自分でやり始めないとね。それがあなた自身の写真のコードにつながっていくわけだから」

「様々な路上をうろついているのかということをごく単純に言いますと、そこにはほとんどありとあらゆる物と出来事があるからです。あなたが言ったように人間と言ってもさまざまだし、風景にもまた色々ありますよね。それらがかぎりなくクロスする都市の街路はそれこそ多様な顔を持ったモンスターです。そして出来事と物とが氾濫している。つまりそれらすべての混成が、都市であり路上であり外界であり世界であると思うんです」

「撮り続けていないとだめなんです。たいして動かないで考えて、あのスタイルもこのパターンもイヤだと分かったとか言ってやめてしまったら、そこでおしまいなんですね。やはり撮ることによって変わっていくしかないんです。(中略)要するに写真を一枚撮るということは、自分の欲望を一つ見つけること、対象化することですから」

「量もまた最大の力になるわけです。小手先の美学や観念で作られた写真なんて量が一蹴します」

 俺が引用した部分からも分かる通り、彼は若い人たちにとにかく「撮れ」と何度も繰り返して告げている。また、考える、自分の作品にキャプションをつけて説明するのはカッコ悪いだろ(しかしそういうのが一部の主流に、評価されることになっているのだろうか)、沢山撮りまくって、それを見せるんだってことを告げていて、共感した。

「要するに写真を一枚撮るということは、自分の欲望を一つ見つけること、対象化することですから」という言葉が、特に胸に残った。

 今の自分が苦しいとしたら、虚しいとしたら、おそらく、欲望が欠けているとか欲望を発散できていないからだ。俺の人生、楽しいなって時間は少ないけれども、それでもたまにはあって、友人との恋人との満たされているような幸福な時だってあるけれど、それ以外はきっと、何かに向き合っている時間、作品に触れるとか作品を作っている時間だ。欲望、好きな物を捉えようとする、幸福な徒労だ。それは愚かだけれど、哀れじゃない。俺が何度手を伸ばして、しかし手にできなくても、悲しいなんて虚しいなんて思えない。

 でも、時々、どうしようとか、もう終わりにしたいんだって思う。気持ちが毎日ぐらぐらしていて、途方に暮れる。ぐらぐらし続けていると、単純に疲れるんだ。とにかく終わらせたいんだ。でも、そういう意識に身を任せるより、何か、手を伸ばす方がいい。

 スマホを注文する前に、充電器とカヴァーと画面に貼るフィルムを注文してしまった。スマホを使って、二十代の若い子がするようなことを、この年でするのかよ、って思うとなんだか気恥ずかしいけれど、そんなんよりも、さっさとやっていかなくっちゃなと思う。

 スマホのカメラでも、多分今の俺には十分だ。撮った写真もどこかに上げていきたいな。何かしら考えるよりも、そういうことをする時期なのかもしれない。何より、やりたいこと、やらなくっちゃ。がむしゃらに。

大丈夫だって言ってくれ

 悲しいことがあって、そのことばかり考えてしまってる。何とか別のことを考えようとするんだけど、うまくいかない。

 それ以外にも心配事やら不安事があって、じぶんで思っている以上に疲れ切っていた。睡眠も浅く、でも、日中にすごく眠くなったり疲れを感じたり。

 元気になりたいなって思うんだ。その為には、何か別のことに目を向けなきゃならない。

 あ、その話とはちょいずれるけど、AVGっていうウィルス対策のソフトをインストールしているのだが、(ずっと無料版を使っていて、アップデートをしてしまった?)なんと、三か月連続で6000円近く引き落とされている。使ってないのに!! 未だに広告が出る! 返金するには購入番号とかが必要なのだが、自分のページには購入履歴がない。買ったメールも届いてない。

 会社が外国だからか、サポートも頼りない。けど、使ってないウィルス対策ソフトの使用料金を毎月6000円も取るって、詐欺か? 普通でも、一年で6000円じゃないの? 日本の企業のソフトでこれないよねレベルの酷さ。ネットで検索してもあの会社の悪評しかヒットしない……どうすりゃいんだ!

 って、愚痴はおいておいて、渋谷文化村ギャラリーでやっている 

印象派への旅 海運王 バレルコレクション を見に行った。まあ、それなりに見知った作品だと、そこまで大きな期待はしていなかったのだが、とても良い展示だった。

 マネ セザンヌ クールベ ドガ ゴッホ ルノアール といった有名どころに加え、普段見る機会が少ない(であろう)スコットランドの画家たちの作品を見ることができた。

 ラインナップとしては、分かりやすい静物画や風俗画や海をモチーフにしたロマンチックなモチーフが多かった。それらが、当時の人々の生活を感じさせていて、このコレクションの世界に引き込まれた。

 キャプションに、コレクション内に動物が描かれているものが多いが、それは動物好きというよりも、その時代は家畜が今よりも人間の生活に結びついているから といったようなことがかかれていた。

なるほど、馬車を引く馬や、神話や権力者やアレゴリーなしで、主題として描かれる動物は、素朴な味わいがあって良かった。

 当時の人々は、どんな生活していて、何を考えていたのだろうか? そんなことを考えながら、当時の街を、人を見ていた。

 好みの画はウジェーヌ・ブータン トゥルーヴィルの海岸の皇后ウジェニー

 傘を持った婦人たちが集まり歩いている。その上に広がる空が広大な空間を感じさせていてよかった。にぎやかな地上の様子が楽しく、それよりもずっと広々と描かれている空との対比が良い。

 また、この展示の目玉である ドガの初期の名作 リハーサル がとてもよかった。 ドガはバレエを題材に様々な、動きを持った、生き生きとした人を捉えた作品を残しているが、この「リハーサル」はその中でもかなり優れた作品だと思う。

 右手前にスカートを広げて立つバレリーナ。左端には螺旋階段。その奥には練習中のバレリーナ、一番右奥には赤い服の講師 と、おそらく、実在の稽古場の一面を切り取っているのだが、そのバランス、構図が巧みで、今、まさにそれが行われているのだという緊張感が伝わってくる。現物を見られて良かったなあと思える作品。

 何か、誰かの何かに触れると、気分がすっとする。素晴らしい物について考えると、生きるのって悪くないって、その時は思うんだ。

 でも、疲れ切っていたから、すぐ帰宅して、翌日行くはずの映画もキャンセル。翌日もだらだら過ごしてしまった。

 疲れた時、どうしたらいいのかな。少しずつ、自分の生活を変えなきゃいけないと真剣に考えていて、ずっと持ち続けていた本やcdをまとめて処分した。でも、もっともっと処分する。そして、新しい物にアクセスできるように。

 スマホも来月買うことに決めた。少しでもフットワークを軽くしていなくっちゃ。外に出ないと、俺は駄目になる。一人家でパソコンとにらめっこも、控えなくっちゃ。パソコンが一番の友達、なんて、愚かな考えだ。それが事実であってもさ。

 ただ、これから、色んなストレスや不安や支払いを思うと、俺は働き続けられるだろうかとか、空元気を続けられるられるだろうかと、たまに、物凄く気持ちがグラグラする。

 そんな時にできることは、きっと、大丈夫だって、そう思うことなのかもしれない。俺は多分、大丈夫。どうにかなる。誰かの声を好きな人の声を聴けるなら、聞こうとできるなら。

無限新兵

 精神状態のアップダウンが激しくて、やたら疲れてる。安定剤をアルコールで流し込み、俺は大丈夫だ大丈夫だ大丈夫だと唱えたかと思ったら、ひとりでむっちゃにやけて涙が出そうなほど気分があがったりして。

 こう、文字にするとやべー人みたいだな違うんだ、ただ少し、色々あっただけなんだ。

 たまに、自分の感性が死滅していると感じることがある。ああ、俺はもう深い感動とか情動を抱かずに、フェイクだか幻灯装置だか影だかにすがるのかなあ、なんて。ゆっくり、一人、緩慢な自殺に向かって歩んでいくのかなって。

 そんな気分。みっともない、情けない状態にしばしば陥るのにさ、色んな変化があって、何か、したい、しなきゃって思ってる。

 家の段ボール三箱分本を売った。売ったというか、どうせ値段がつかないから、処分したと言ったほうが正しい。大好きな、大好きだった本たち。とはいえ、まだまだ家に本はあって、いまだに下駄箱の中に文庫本が入ってる状態。だけど、まだまだ処分したい。

 欲しくなったらまた買えばいいんだ。

 dsのカードヒーロという超面白いゲーム、俺、この前また購入した。このゲーム買うの五回目。同じゲーム五回も買ってるんだ。頭大丈夫か? 俺、ゲームはすぐ売り払う。なのに数年くらいしたらやりたくなって、同じゲーム買って売る、というのを繰り返してる。

 暇な時、パソコンでMTGA(カードゲーム)をしながらその対戦相手の思考時間でDSのカードヒーローをやっていた。そんなに俺はカードゲームが好きなのか? 好きなんだ。あの、魔法が描かれたカードという物が。

ゲームやりこんで強くする人がいるけれど、俺は弱いのを強くするのが好きだ。永遠の新兵。身体も心も老いるけれど、羞恥を抱きつつ新兵気分。

 そんで、スマホ買おうと思った。スマホ持ってないんだ。俺。ガラケーで十分過ぎる。どうせスマホかったらスマホゲーに夢中になる。金もかかる。俺携帯扱い雑だから壊すだろうし。だからガラケーで十分だと思った。けどさ、スマホで、もう少し、誰かと交流しようかなと思った。

 スマホで交流って、何時代の人ですかね……

 ミクシイ、昔超流行ってた。好きだった。あの、いろんな趣味について熱く語っている感じ。勿論今だって、それぞれのSNSでみんな語ってる。でも、俺はコミュニティと日記、みたいな形式が好きだった。文章読むの大好き。誰かが何かについて、長文で語っているの、大好きなんだ。

 なにかしら、色々と大好きになる準備しなきゃなっておもってる。

 準備? そう。あまりにも自分がダサイと、人と会いたくなくなるし、自分が何をしたって変わらないよ、って思えて来る。まあ、それはそれで賢明な判断だけどさ、もっとさ、自由に叫ぶというか騒ぐというか踊るというかそういう軽やかさ、俺、失ってきてる。よくないな。気軽に好きって、言えばいいのにね。

 俺、相当惚れっぽい。大抵のことに大袈裟な振る舞いで感動する。そういうの、奇妙に映るんだ。具体的な話はしたくないけど。俺、はしゃぐのも派手なのも好きなのに、目立ちたいというわけではなくて。

 でも、普通に見られますように、って念じながら委縮してると、それが自分の身体にまとわりついてくる。社会性。社会性がなきゃ生きられないよ誰だって大なり小なり持ち合わせてる。生きる為に寂しさを紛らわせるために愛の言葉を口にする為に。

 恥ずかしい真似、しなくっちゃなって思うよ。誰かに馬鹿にされちゃうような行為。奇異の眼で見られちゃうようなこと。誰かに(あんまり)迷惑かけないとしたら、したいなら、したほうがいい。

 俺、小説を書くから何かしらゲスイ状況に陥ると、ああこれ資料になるかもってたまに思うんだ。勿論渦中でそんな風に思えないことも多々あるし、絶対にほじくり返したくないこともある。

 ただ、色々経験しなきゃな。もっと、知らない人に気軽に会って、知らない人と喋って、知らない場所に行く。そしたらきっと、色々考えずにすむし。多分、自分のことを嫌いにならないで済む。新しい誰か、何か。そのことを考える。きっと、そわそわしちゃう。大変だ。なのに家にだっていたくない。

 俺が売り払った本たち、金井美恵子 古井由吉、松浦理恵子 笙野頼子 町田康 えすとえむ 他にも漫画沢山(でも彼らの本はまだ家にあるのだ) ロリータファッションの本とかスタジオボイスとか美術手帖とかゲームの攻略本とか(でもまだ家にあるのだ!) ゴミみたいに捨てるなら、誰かにあげればよかった。

 あげられる友達、作らなきゃな。ジャンクでもオートクチュールでも感情を共有できるような友達。友達じゃなくても、たまゆら、感情交換しなくっちゃ。(俺の売り払った本たちの多くは、なんというか、形容しがたい、素晴らしい物です。でも、売り払わなくっちゃいけない。ずっと、持っていられない。)

 気軽に誰かと交流することを考えると、気分が楽になる。俺、自由に喋りたいな。好きな物を人を好きだって毎日言いたい。

 海野弘の『ファンタジー文学案内』のプロローグがとてもいかしてるから引用。

 

 もしあなたが、若く、無名で、貧しいなら、ファンタジーを読んで欲しい。若いとは、あなたがいくつであろうと、今とこの世界を飛びたいという願望を持っていることであり、無名とはまだその願いを可能にするすべを見つけてはいないかが、いつでもその冒険に飛び出せる身軽さを持っていることであり、貧しいとは、今とこの世界を変えたいと切に希求していることだ。

 この世界、この今の時に満足している人にはファンタジーは必要ないだろう。この世界は私の求めている世界とはちがう、もっと別な世界が見たい、と思う人に必要なのだ。

 ファンタジーを読むには、あなたはロマンティストでなければならない。現実にはあり得ないもので、他のだれもが信じていなくても、私はそれをしんじよう、という孤独な冒険を引き受けなければならないのだ。十八世紀末から始まっロマン主義は、孤独な芸術家の想像力の旅を見出した。その時から、人間が別世界を想像し、創造するようになったのであった。

 

 

 

 めっちゃいい言葉だ。こんなことを言える人だから、色んな美しい本、画家、についての本を編集できるのだろう。

 編集って、素晴らしいことだ。好きな物を自分の乱暴な秩序で構成するんだ。その為にはきっと、好きだって言っていなくっちゃ。好かれなくっても振られちゃっても、いい。いや、よくないけど、ただ、愚かでもロマンティックな人生の方がずっといい。

 俺、ずっと、これ以上嫌なことが起こりませんように、って、回避型の生活をしてしまうことがあって、それは俺なりの処世術ではあるけれど、ださいんだ。毎日の、過去の塵芥沼憎しみ憎悪、らと友達になるより、知らない何かのことを考えていなくっちゃ。

 俺は30半ばのおっさんだけど、まだまだ愚かに軽やかになれるって。この年で新兵。恥ずかしいけど。でも、何かに触れていたいと思うよ。

きみになりたい。

 動物のことばかり考えてたら、猫を二匹飼う夢を見た(小さなころ捨て猫を二匹拾って飼っていた。それとは別の新しい猫)。夢の中の猫、かわいがりたいのに、俺が撫でても知らん顔して部屋の中歩いてた。可愛かった。

 毛皮をネットで検索すると、オークションサイトやらブランド物の通販やら本物からフェイクファーの安物まで色々とヒットしたのだが、いつもは誰が着るんだって感じのイカれたイタした、ハイブランドの洋服が、本物の毛皮を使用した服がそろいもそろってスタンダードなデザインというか実用的でちょっと面白かった。

 でも、俺が欲しいのは猟師が自分用に捕らえた、毛皮かもしれないと思ってしまった。ハイブランドの毛皮のコートなら欲しいし画になるし。でも、それよりももっと、仕留めた獲物の頭がついているような、生々しい死体が欲しいなあ。そんなのどうやって手に入るのだろうか?

 魅力的な死体について思いを巡らす俺、人並みに働いて、死体みたいになって。へとへとで鬱々となる。人とあって、平気なふりを続けていると頭がショートする。Windows98位の性能だ俺。

 自分が後、どれくらい頑張れるか、ということを常に考えていて、長生きして楽しく生きる、なんてのは最高だけど、俺にとってそういう展望は少額の宝くじに当たるような、そんな現実味が薄い物だ。

 何かしようとしているのに、つまらない問題でできなかったり形にできないことが多くて、自己嫌悪や内省で気が滅入る。今日も、雨で家にこもってた。

 少し、積んでいた本を片付ける。今週読んだ本は、世界のかわいいお菓子とか世界のかわいい刺繍とか世界の美しいステンドグラスとか……(本当にそういう書籍がある)疲れてるのか? 

 疲れてると、かわいい本かアウトロー関連の本が読みたくなる。図書館で毎回十冊くらいの本の貸し借りをするのだが、海野弘のとても素敵なイラストレーター・童話関連の本や幸福な食事の本(食って幸福な物らしいんだ!)を返却するのと同時に、ドラッグや犯罪や反社会的な本や作品を返却口に並べていると、なんだかひどく恥ずかしくなって、大体週に一度図書館で本を借りる俺、これって一週間のポルノ動画のアーカイブみたいなものじゃあないかと一人感じてしまうのだ。

 昔の本を読むとたまに変態性欲、なる記述に目が留まることがあって、まるで本棚ってプレイリストってぼくの変態性欲カタログ。他人の好きな人のそれってさ、気になる気にならないシェアしたいしたくならない、知らないよ。

 小説を読んだり書いたりすると、体調が悪くなるか気が滅入る。でも好きなんだ。怠け者の俺が続けられているのがこれ位しかない。小説は俺を必要としないけれど、俺は必要だ。でも身体に悪い。反社会的、というよりも何かに属するのが困難になる。犯罪集団だって、帰属意識が持てるとしたらその人には意義があることだ。良い悪い、という問題とは少しちがって、だってさ、視野狭窄なんだ夜目なんだ、小さな救いしか目に入ってないんだ。

 だから、健康の為に写真、撮ってみたいなって思った。それか動物を感じたい。毛皮とか本物とか。小説よりも身体を使う感じ。身体使わなきゃどんどん駄目になる分からなくなる。ポルノ以外でも身体使ってよミスター。頭使って解決しないなら、身体使って誤魔化す方が良い。身体使って空っぽになったら、頭を使ってやり過ごすしかない。日々、誤魔化しやり過ごし。

 野田彩子『ダブル』読む。すごく面白かった。

 アマゾンの紹介文

 

天才役者とその代役。
鴨島友仁(かもしまゆうじん)と宝田多家良(たからだたから)は同じ劇団に所属している俳優仲間。
安アパートに隣同士で住み、共同生活をしている。
お互い無名ではあるものの、友仁は多家良の類まれな演技力を見抜き、その才能を世に知らしめるために彼を支えている。
自身も「世界一の役者になりたい」という想いを抱えながら。
やがて周囲は少しずつ、多家良の才能を見出していくが―――。

 熱気と実力はあるけれど、売れない役者の二人。宝田は天才肌のタイプで、画になる貌と才能を持っている。しかし生活、と言う物を把握できていない。勉強以外がまるで駄目な子供のような宝田。鴨島はそんな彼の才能に惚れ込み、献身的に、周りから見れば少し奇異に映るほど支えている。

 そんな中、宝田だけ、事務所に所属が決まって、彼の才能を世間が発見していく、

 という物語の始まりが描かれているのだが、すごく引き込まれた。多分、二人の関係がいびつでぴったりとしているからだと思う。共依存や恋人同士、のようでそうではない。二人の奇妙で幸福な関係。まるで仲の良すぎる兄弟みたいなふたり。多分、どちらかが欠けたら生活や役者人生に支障が出てしまうだろう。でも彼らは子供でも兄弟でもない。おそらく同性愛者でもない。この幸福な関係はいつまで続くのだろうか? どう発展していくのだろうか? 役者としての成功と、二人の関係という二つの要素が絡みあい、続きがとても気になる。

 知り合い、はたまにできるが友達、と考えると思考停止になる俺だけど、以前は親友と呼べるような友がいて、金がない学生だったこともあってか、毎日のように一緒に彼といて、何かあると彼のことを考えていた。その人の幸福が、一番輝いている状態が、俺の幸せだ。

 世界で一番素敵な物の一つは友情。なんてくさい台詞を吐いたとして、それは的外れではないような気がする。でも、友情だって愛情みたく愛人みたく肉欲みたく恋人みたく、あっさりと壊れたり戻せなく戻れなくなることがある。

 親友、という言葉で思い出す友と、俺はもう二度と会わないだろうし、会ったとしてももう、しらじらいいだけだろう。過去は大抵ロマンチック。

 誰かのことを考えられる人、というのは幸福で、俺もたまに、いや、しょっちゅう、誰かのことを考えている。願わくば、それが恋人や友人であればいい。ドラマチックだしロマンチックだし。

 夢が、野心がある人というのは、それだけでもそれなりに素敵だ。わくわくしている人じゃないと、出会った人、きっとわくわくしたりしない。

 役者って素敵な商売だなって、たまに思う。嘘ばかりつけばいいから、いや、そんな簡単な話じゃない。

 二十代の頃オーディションみたいなのに出たことがあって、しかし「小説を書くときの資料になるから」という理由で受けたそれ。審査員に演じることとはどういうことですか? みたいな役者についての質問をされて、質問されるなんて思ってなかったから(馬鹿なのか?)、ちょっとびっくりして、でもその場で答えた。

「演じる他人の人生に責任をもって、やりとげることです」

 本当は「埋葬する」という表現をしたかったが、しなかったはずだ。文学的で、恥ずかしいじゃん。

 で、演技したんだ。台本持って。楽しかったよ。大きな声出して嘘つく。でも、途中で気づいてた。それはオーディションだけど、合格者は事務に所属っていうていで、実の所入学金やら登録料をだまし取るためのものだったんだって。

 後で俺、呼び出されて、事務所で二人がかりで説得された。才能があるよって言われた。ああ、個室に呼び出し二人がかりでさ、こうやって人を騙すんだなあ、とわりと冷静にその場を「記憶」しようと思ってた。人を騙す人の瞳、きらきらぎらぎらしてるんだ。はなっから疑ってるからさ、疑い過ぎてああ、この人たちはもしかしたら俺を騙そうとしていないのかも、なんて思っちゃうよね。

 ただ、金を巻き上げようとする事務所の人間ではなく、実際に演技を見て審査をしていた名前を知らない役者、らしい人から「この先演技を学ぶとして、エゴイスティックさを捨てておごり高ぶらないなら、君は良い物を持ってるよ」みたいな言葉を言われていたよ、みたいなのを後で聞かされた時、お金回収の為のオーディションだったとしても、その言葉は俺の胸に残った。

 その場その場で誰の迷惑にもならない嘘ばかりついて場を繋いでいる人間は、ばれる嘘はつかない。誰かを傷つける嘘は(なるべく)つかない。嘘を一つついたら、整合性を整える別の嘘をつかなきゃならないからさ。

 取り繕う手段は、それなりに心得ている俺。でもそれは役者の演技ではない。

 でも、誰かの、物語の誰かの責任をとること、機会があるならしたいと思ってる。だって俺も小説を書くときは、それを意識しているから。俺にとって魅力的な誰かを生み出し、埋葬するんだ。血肉を与えて友情、交合、みたいなふりだけして、それから眠らせるんだ。

 さすがに三十代でオーディション、なんて出る気はないけれど(夢や熱意がある人は別だ。俺には役者の魂がない)、でも、楽しかったな。大きな声で誰かのふりをするんだ。

 

 俺の友情はおわったけど『ダブル』は連載途中なんだ。きっと彼らの友情は終わらないんだろうな。ずるいな、うらやましいな。素敵なことだな。

 誰かのふりがしたい。それで、健康になりたい。けだものになりたい、俺、君になりたい。

愚かなけだもののように

 色々変化があって、よいこともあればそうでないこともあるというか、日々終えてあーっ疲れたーって感じだ。マジ毎日疲れ切っちゃう。え? 成人男性は大体そうだって? でもなー俺、生涯一、怠け者なので。

 軽い本ばかり読んでいた。疲れるとマジで頭を使う読書ができない。

 文豪の書いたラブレター とかそういう内容の本を読んでいたら、芥川龍之介が恋人に送った手紙がほんと、良すぎた。こんな人と結婚したい! って感じなんだマジ。相手への思いやりの上で書かれている文章。他の文学者の手紙と並べると、その素朴で愛情深くて思いやりがあって、平易な文章で書かれていて、彼の誠実な人柄にムネキュンするぜ絶対、って、ああ、でもそんな友達や恋人にしたい彼、自殺しちゃうけどさ! 

 それに比べて夏目漱石の安定の突き放した感じに思わず笑みがこぼれる。奥さんはアンドロイドと結婚、ばりの困難さだったのではないだろうか。

 あとは坂口安吾のがよかったなあ。思い煩いがありながらも、どこかそんな自分を観察しているような。深みにはまるのか、深みを覗き見るのか、という感が。

 ってなことを書きながら、俺にとってこの感想がそのまま坂口安吾への印象だという気がしてきた。

 他人の私的な手紙を見るのって、どんな言い訳があってもやっぱ品がないとも思う。でも、出版されてるものならさ、見ちゃう御免ね。

 『写真を紡ぐキーワード123―写真史から学ぶ撮影表現』大和田良

 を読む。

 写真史、といった内容の本は幾つも目にしてきた。誰が出した物でも、それなりに面白く楽しめるものだ。ただ、この本は珍しく、写真集を出している現役のカメラマンからの写真史(写真家)への言及と共に、テーマにそって、実際にカメラマンである著者が撮影をして説明をしている(前半が写真家、後半がテーマごとの撮影)。こういう構成珍しくない?

 写真家って、写真史、については語りたがらないものだと思っていた。美術家もそうだ。美術史を書く(出版できるような形にする)美術家というのは思いつかない。

 前半は写真家を取り上げ、説明と共に引用文献としてその人らが撮った本、写真集(の中身)載っている。これを見るだけで楽しい。評論家が書いた文章よりもずっとライトで読みやすく、手軽に色んな人の写真集についても一部ではあるが見られてとても楽しめた。

 それに加えて、簡単な実演、講義と言った感の、モチーフごとの撮影も載せられていて、これはこれから写真を撮るような人にはもってこいの良書だと思う。

 というかさ、これ見てたらマジ写真撮りたくなってきていて、でさ、写真撮るのにはやっぱそれなりの値段がするカメラが必要でさ、その上さ、俺、撮りたいと思っているのが頭に浮かんでるんだ。毛皮なんだ。高価じゃんか。カメラは用意できたとしても、毛皮(を着た人間)を用意するのは困難だ。なのに、俺、本当に撮りたくてたまらない毛皮がけだものが。

 ビーパルとか山と渓谷とかの雑誌読んだらさ、漁師のおじさんが自分で仕留めた狐(おかしらつき!)を首に巻いていて、超クールだった! ファッションアイテムとしての毛皮について、俺はフェイクファーでも成立してれば別にいいと思うけど、本物の毛皮のこと考えるとやっぱわくわくしちゃう。毛皮、欲しいマジ。

 撮りたいものがあって、でもお金が原因で断念するのってやっぱ情けない。でも、どうすればそれなりに見栄えのする毛皮(フェイクファー)を用意できるのだろう。ああ、真面目に生きて働いて毛皮のコートを買っていればよかったと数秒後悔。

 その本にはアーヴィング・ペンも載っていて、久しぶりに見た彼の写真はやはりとても良かった。俺はファッション写真に詳しくないけれど、俺は彼を一番「洒落た」「ファッション写真」を撮る人だと思っている。

 で、ファッション写真ってことは作り物だってことだ。

 そして作り物から遠く離れようとした、中平卓馬。そんな意識がなかったであろうウジェーヌ・アジェの写真が本当に好きなんだ。写真は物を映す機会だということに真剣に向き合った写真家だと思うんだ。誰かが見た景色が写真には写っていて、写ってしまっていて、それなのに匿名性があるのに彼らしか映しえない、かのようなそれを見ると、写真が目指すのはここなんだ、俺が見たいのはこういう写真なんだって思う。

 けど、「洒落た」作り物だってやっぱり好きだ。ラリー・クラークだってティルマンスだってとてもキュートだと思う。大好き。

 本書には俺が大好きなダイアン・アーバスについて語ったスーザン・ソンタグの言葉が引用されている。

アーバスは自己の内面を探求して彼女自身の苦痛を語る詩人ではなく、大胆に世界に乗り出して痛ましい映像を「収集」する写真家であった『写真論』」

 以前も引いた、ダイアン・アーバスの発言をまた引用する。

 

 知っておかなければならない大切なことは、人間というものは何も知らないということです。人間はいつも手探りで自分の道を探しているということです。

 ずうっと前から感じていたのは、写真のなかにあらわれてくるものを意図的に入れ込むことはできないということです。いいかえれば写真に現れてきたものは自分が入れ込んだものではないのです。

 自分の思い通りに撮れた写真はあまりありません。いつもそれらはもっと良いものになるか、もっと悪いものになってしまいます。
 
 私にとって写真そのものよりも写真の主題のほうがいつも大切で、より複雑です。プリントに感情を込めてはいますが、神聖化したりすることはありません。私は写真が何が写されているということにかかっていると思っています。つまり何の写真かということです。写真そのものよりも写真の中に写っているもののほうがはるかに素晴らしいのです。

 物ごとの価値について何らかのことを自分は知っていると思っています。ちょっと微妙なことで言いにくいのですが、でも、本当に、自分が撮らねば誰も見えなかったものがあると信じています。

 

 ほんといいこと言ってる。優しさとか誠実さとか挑戦とか、まるで芥川龍之介の恋文のようなムネキュン。真面目なアーバス自死を思うと胸が痛くなる。カメラになろうとして死んでしまったのか、とかいう余計な感傷さえわく始末。

 この本に、中平卓馬の『来るべき言葉のために』の海の写真が載せられてるんだけど、久しぶりに見たそれは、やっぱ、すごくてさ、俺にとって海って魅力的だけどとても怖いんだ。海を見ていると水葬、というか、自分が大きなものに呑まれて駄目になる連想をしてしまう、のに、何だか心が安らぐ、かのような思いを抱いてしまう。怖い海、その怖さをマッスを肌触りを捉える中平は本当にすごい。それに海はすごい。

 でもおれ、海よりもっと獣がけだものが毛皮が好き。

 動物園、行こうかな。動物園で檻の中の彼ら見るとさ、自分が猛獣を殺して毛皮を剥ぐ夢想が頭をよぎることがある。俺は虎大好き。虎長生きしてほしいけど虎を殺すならきっと一生折に触れて殺したことを思い出しわくわくしてしまうだろう。勿論そんなことはできない(逆に喰われる)から、荒唐無稽なことは小説とか写真の世界でどうにかするしかない。

 荒唐無稽な生真面目さも甘えも悪ふざけも、実生活でどうにもできないこと、何かでっちあげて感情の処理をしなくっちゃ。

 毎日、毛皮けだもののこと考えてる。この気持ちをどうにかして発散させなくっちゃ。俺には毛皮はないけれど、愚かさと少しの何かしらがあるんだよきっと。