ナイトメアサバイバル或いは僕はくたばりたくない

小説を書き上げて、腑抜けになる。この雑記でもそうなのだが、俺は本当に誤字脱字やらが多い。普段はほぼ推敲や読み直しをしない。自分の書いたものを何度も見返すのは多少面白いが、苦痛。でもそれから解放されると、変な気分になる。俺に何か能力があるとするならば文章を書くこと位で、しかしそれで俺の生活が変わるわけでもない。でも、書かずにはいられない。俺の感情の、日々を彩った残骸たち。墓標。

 

 花屋の花束にわれもこうが並んでいて、あの赤茶色の細長いのを見るとなぜだか秋を思う。ボルドー色に近い=秋、とかいう単純な想起だろうか? 個人的には黄色のミモザも秋ってイメージがあるが。

 

 図書館で鉱石の本をたくさん借りて読んでいる。鉱石、たのしいな、欲しいな。ついでに澁澤龍彦の『犬狼都市』を借りて再読する。シンプルな小品、といった作だが、澁澤の小説の中では一番好きかもしれない。

 

 

 

「婚約指輪が送られてきたというのに、お前は手に取ってみようともしないで、今までどこを歩きまわっていたのだね」と父親が咎めるように言うのを聞き流して、麗子は、肩からさっさと重い二連銃をはずし、革のジャンパーをぬぐと、射ちおとしてきた五六羽の小鳥の、まだなまあたたかい骸を、ひとかたまりにして、テーブルの上にどさりと投げ出した。マニキュアの紅の上に死んだ小鳥の血が点々と凝(こご)って、蛍光灯の明かりの下に、娘の爪はむしろ黒かった。

 

 

 冒頭の一段落を引用してみたが、薫り高く、わくわくする書き出しだと思う。幻想文学とか、こういうディレッタントというか、かっこつけ文学が流行らなくなって久しい、というか、そもそもそんなものはごく一部の金持ちや貧民の趣味人の楽しみでしかなかったからかもしれない。

 

 でも、俺が一等好きなのは、そういう金持ちや持たざる者の傲岸で間抜けなエレガンスなんだ。

 

 ふと、俺も大人の為の童話……豪奢で優雅で本として所有したい鉱物のような小品。奢灞都館みたいなのを自分の手で監修して出版してみたいなあ、と思うが資金面で確実に頓挫する未来しか見えない。

 

 そういうのは働き者に許された権利なのだ、残念なことに。

 

 俺はゲーム実況が好きで、家ではよく垂れ流しているのだが、童話や詩の朗読チャンネルみたいなのがあればなあとたまに感じていた。いや、探せばきっとあるだろう。でもその人の声が自分の好みかはまた別の問題だ。

 

 無いなら作ればいい、と暇人は思ったが、それより働き口を見つけねばならない……一生涯休職中、求職中。酷い有様だ。俺はノマドでも『綱渡り芸人』でもない。屍人のごとき遊民。

 

 頭のことは常に別のことばかり。

 

 だから気分転換に現実逃避に死の朗読を あ、詩の朗読でもしたり童話を朗読の配信をしてみようかなと思いがわいて、でもこんな無駄な雑記を書いたうえでそれもするなんて、ほんと金持ちの道楽レベルだ。

 

 でも、何かしら新しいことはしたいなと思っている。

 

 もう一つ頭にあるのは、アイドルポップスの作詞をすること。勿論アイドルをプロデュースする能力もなければ楽譜も読めない。何をしたいのかと言えばつまり、スパンクハッピーピチカートファイヴの真似事をしたい、というようなことで、でもそれには俺がエレガント、或いはゴージャスな「ふり」をしなければならない。「ふり」だけならば金で解決できることだが、俺には金がない。でも、歌詞だけなら、短い詩だけなら大丈夫かもしれない。誤魔化せるかもしれない(才があるならば)。

 

 エレガントについて、断片的な歌詞を頭の中で弄ぶことがある。頭の中に物語の場面が浮かび上がることがある。短編小説というよりもむしろ、ハウスミュージックに合わせたい詩、言葉が。使い捨てられたいキュートで豪華なエレガンスが。

 

 家で寝すぎている位なら、現実へのリハビリテーションとして作詞か詩の朗読はいいかもしれない。というか、数年前俺がかなりやばかった時、身体を動かさねばという目的で、公民館の前でラジオ体操の後でボリス・ヴィアンの『ぼくはくたばりたくない』を朗読するという健康法を行っていたことを思い出した。

 

 とにかく、声を出すのは身体にいいらしい。

 

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ALI PROJECT - 薔薇色翠星歌劇団 (Bara-iro Suisei Kageki-dan)

 

アリプロジェクトの中でもとても好きな曲。

 

わたしはPoete 祈りのペンで  ひとりぼっちで 詩う

 

 これを聞いていると、自分の都合のよい解釈で、一人きりでする詩の朗読って素敵なことのような錯覚をしてしまう。

 

 でも、意味のないことを馬鹿らしいことを愛のことをエレガンスのことを愛さねば、きっと退屈で死んでしまう。少し、健康になりたいと思う。

 

魔法使いはいつ夢から覚めちゃうの?

気分が落ち込んで仕方がないというか、体調も悪くって、しかし家の中で腐っていても仕方がない。新宿のNEWoMANでやっていたマジックザギャザリング25th展に行ってきた。

 

 正直、このマジック展に行ってみたのyoutube動画を二本も見ていたのだ。内容はだいたい分かるのだ。しかも、当たり前だが、展示はカードを並べている感じだし。カードはカードショップでみられるし。

 

 ところで、このマジックというゲームは、俺が小学生の頃にめちゃくちゃはまって、当時はウルザブロック、というのが最新のエキスパッションで、だからそのあたりのカードは今見ても本当にわくわくする。

 

 というか、引退して何年もたつのに(途中一度復活した)まだいろんな人の動画やショップページを見たりしているという……そして最近数年ぶりにパックを十個くらいかったが、全て爆死した! これ、ほんと金持ちの遊びなんだよね。カードは高いし、内容も少し難しいし(すぐ慣れるけど)カード屋さんもプレイヤーは平均年齢2.30代って言ってたし。

 

 本当は大好きなゲームなんだ。でも、遊ぶには仲が良い友達(同じくらいの腕前と言うか、同じフォーマットのデッキを持った人)というエベレスト級の問題がそびえたっている。当然俺は一人でカードを眺めるだけー みんなどうやって友達ゲットしてるんだろうか……ポケモンGOとかでつかまえてるのだろうか……

 

 そんでもって、とにかく家にいるのが嫌だったので、MTG展に行った。したら、整理券をもらって、一時間後に再入場と言うことになった。中は大分込んでいて、正直いつもの俺だとそれだけでサヨナラしたくなるレベルだったが、なんとかこらえた。

 

 中でオタクが小声で熱く語っている声がそこかしこで聞こえた。ちょっとうらやましかったし、発言の細かい間違いは訂正したくなってしまった(友達がいないオタクあるあるー。って、そんなことをするくらい無粋ではない)。あーやっぱ友達とわいわいきたかったなー

 

でもなーみんなカードゲームって、ガキのあそびって思ってるもん。別に間違いじゃないけどさ。スマホゲーはみんながしているからオッケー。でも、ガチで何万、何十万、それ以上もカードゲームにつぎ込むのは「キモイ」って思われるんだよね。趣味は平等なのにね、寂しいことです。

 

 でも、マジックは本当にすごいんだよね。(他のカードゲームを貶める意図はない)絵柄もシステムも、フレーヴァーテキストも本当に質が高い。そして原画も展示されていて、有名な

等の原画を見る機会があって、やはり生の油彩、水彩画は筆致が印刷とは別の迫力がありとても素敵だ。

 

特に大好きなレベッカとニールセンの原画は家に欲しいレベルだった。あーこんな時に俺がお金持ちだったら、なんて思ってしまう。でも、見るだけでも十分楽しめるんだけどね。

 

後、マジックのアニメーションも見ることが出来た。森本晃司らが二作品のアニメを発表していて、時間が数分間で、長いマジックの歴史を考えるとどうしても映画の予告編みたいな内容になってしまっているのだが、それでも結構見どころがあり面白かった。マジックのウェザーライトサーガか兄弟戦争のアニメ見たいなー

 

 それで、来場者にはセラの天使のプロモをもらえて、入場料500円。マジでいい展示だったー。久しぶりに行った展示だったし、行って良かったなー

 

 帰宅して、オスカー・ワイルドの『幸福の王子』を読む。読む前から泣くかもしれないと思ったら、やはり泣いてしまった。本当に胸が痛くなる。『フランダースの犬』とか『ロミオの青い空』とか、『人魚姫』とか、こういう童話にほんと弱いんだ。

 

 こういう主人公がひたむきなファンタジーを目にすると、少し、自分の中にも硝子片のような輝きがあるような気がしてくるのだ。

 

 マジックザギャザリングと言うゲームは、自分がとても力のある魔導士になって、カードを操り相手と戦うゲームだ。小学生の俺は、大切なカードを操って、まるで魔導士みたいだった。

 

 いつ、みんな魔法から醒めてしまうのだろう?

 

 それが死であるならばいいのにな。

 

 魔法の為に、この酷い体にファンタジーを流し込んでいく。自分の身体が幻想とチョコレートで駆動している、と考えると、まあ、悪くはないのかもしれない。

泥に咲くのは睡蓮と死体

酷く気分が悪い。

こういった書き出しにも飽き飽きしてしまっているのだが、沼の中から抜け出せずにいる。浅い汚泥の中でもがいている気分だ。いつ、これから解放されるのだろう?

何かを飲んだり、目隠しをして誤魔化すのがほとほと嫌になってきた。

金がないのに(自分としては)散財をしてしまう。

でも、無駄遣いをできない人生なんて、狂ってる。

 

ふと、自分がタトゥーを何年も入れていないことを想起する。

大好きなんだ、針を刺されるのも刺されている最中になんだか飽きてきてしまって暇になるのも、出来上がったモノクロのアレゴリーも。

 

 ただ、何をするにもお金がかかるというのは本当に問題だ。

 働くのが好きか、他人からお金をだまし取るのが好きならよかった。

 あ、この二つは同じことか。

 

 フォーレのピアノ四重奏というのを聞いているのだが、なんか好きだ(クラシック知識がまるでないのだ)。というか、クラシックばかり聞いているのは、自分としてはやばい兆候かもしれない。俺にとってのクラシック音楽は(大好きなバッハは)風や雨などの自然の音に近く、完成されていて穏やかな物だからだ。(なので俺はうるさいテクノやロックが好きなくせに、仰々しいクラシックは苦手なのだ)

 

 どうせ死んでしまうのだから、やることを済ませてからがいい、なんて思ってはいるものの、薬やアルコールの力を借りて鬱々と、うつらうつらとしたまま眠りにつく日々。

 

 そんなホームレス予備軍の日々の中で、自分が好きなのはエレガンスだなあと改めて思う。エレガンス。それは滑稽で美しい美意識。それをするには寝ているだけではだめだ。無駄遣いをしてたまに悪口を言って上品でなければならない。愚かでなければならない。愚かであって、美しくなければならない。

 

 最近俺は鏡をあまり見ないようにしている。鏡は、見なければならない。そんなことは分かっているけれど、自分の様々なことを忘れたい、けどそんなのは無理なんだ。俺はこれまでの俺で作られていて、様々などうでもよい傷と美を捨てられずに後生大事にしているのだ。

 

 最近人間関係で酷く嫌な体験をして、それが未だ尾を引いている。それについて書いた雑記は、色々とフェイクを入れながら書いたのに、自己嫌悪で消してしまった。

 

 自分の人と会話する能力のなさに(うわべだけは、その場を取り繕うのは得意なのだが)げんなりする。何度も同じような失敗を繰り返しつづけるという低級地獄。

 

俺が動物や花が大好きなのは、人間関係が苦手だからかもしれないと思うと、またげんなり。人が嫌いなんじゃないんだ。ただ、コミュニケーションがこんなにも難しいなんて、いや、みんなが、こんなにも神様とかエレガンスとかゲームとかについて考えていないなんて!

 

 結局俺は小学生のまま身体だけは老いて、置き去りになっている。いや、自分でそこにとどまることを選んだのだ。

 

 クローゼットにある、昔、好きなブランドの服がなんとなくしっくりこない。三十過ぎれば誰もが経験することかもしれない。

 

 いつまで俺はこんなどうでもいい言葉を吐き続けることができるのだろう、という経過をここでしているのかもしれない。疲れた。

 

 

 

イマジナリーゴッドを大切に

体調が悪い、ということばかり馬鹿の一つ覚えのように書いているし、いい加減自分でも芸がないと思うのだが、そうだから仕方がない。

 

 一応、小説を書き上げてはみたものの、出来があまり満足できるものではなく、腑抜け。頭の中が空っぽで、何かを入れてはみたいのだが、ここ数日は寝てばかりいた。

 

 日銭稼ぎをしなければならないのだけれども、色々な物がどうでもよくなっているのはいいことなのか悪いことなのか。少し、建設的な生活をしてからまた何かを書き上げるのがいいとは分かっていても、そううまいことはいかない。

 

 バッハの音楽の捧げものとかいうアルバムを繰り返し聞いている。落ち着きたい時は、大好きなうるさいテクノや陰気なロックではなく、バッハが一番だ。

 

 部屋を暗くして、身体を丸めて錠剤とアルコールとバッハ。ひどい話。ひどく、つまらない話。こんなのよりも映画の話しの方がまだましだ。

 

鈴木清順『全てが狂ってる』を見る。鈴木清順のカメラやら構図やらテンポの良さやらは相変わらず良いのだが、自分史上一番、清順映画で脚本が酷かった。ベストセラー三文小説みたいなのを見せつけられる(しかし映像はいいし、主演の男も中々はまっているし、若いお嬢さん役の吉永小百合も河合らしい)という、悲劇。清順だから、脚本があんまりでも、最後まで見ることができてしまうという……

 

 ミヒャエル・ハネケの『ベニーズビデオ』をなぜだかまた見てしまう。

 

物質的に恵まれた家庭で育った少年ベニーは、
スタンガンで屠殺される豚の映像に魅せられていた。
ある日、彼は家に招いた見知らぬ少女を衝撃的に殺害してしまう。
しかも、その模様をビデオカメラに収めていた。
そのビデオ・テープを目撃した両親が選択した道は・・・。

 

 

 ハネケの映画にケチなんてつけられないのだが、(つまり彼は映画の才能が有りセンスが良くて性格が悪くてシャレを理解していてクソ真面目なのだ)何だかそんなに面白くはなかった。

 

 それはこの映画の主題が古びているのかもしれないというか、単に俺が主人公の心情を理解してしまえるからだと思う。衝動的で好奇心旺盛な馬鹿。これをサイコパスや共感性やらの欠如という言葉で片づけたくはないのだが、うまい言葉がみつからない。

 

 うまい言葉がみつからない、というそのもどかしさをハネケは頻繁に描いているから好きだ。

 

 先日新宿の紀伊國屋書店の並びにある鉱物やで鉱物をずっと見ていた。じっと見ているのに飽きない。安いのは2000円くらいでも買えるので、買うかどうか本当に悩んだ。しかし家にはガラクタが山ほどあるのだ。

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 色々あったが、アメジストの鉱石がとてもよかった。綺麗に加工されているよりも、岩とくっついている感じのがとても良い。いいなあ、綺麗な物を眺めてくらしていたい。

 

 そう、思っていても実際は現実から逃れるために惰眠を繰り返すだけだ。

 そろそろ俺の頭と体に耐久年数がきたんじゃないか? そう思いながら最近暮らしていて、ヤバイ、という思いと共に、思考停止になったり、逆にやれることをどんどん片づけなければという躁状態にも陥っている。

 

 躁鬱の揺さぶりで、自分の身体が自分の物ではない気がしてしまう。のだけれど、明らかにこれは俺の所有物で、俺が責任を負わねばならないのだ。

 

 長い間悪いことを考えすぎた。そろそろまた、空元気を出してやっていかねばならないのかもしれない。惰眠よりもロマンティックの方がいい。でも、ロマンティックはシャボンよりも脆い夢。ずっと夢を見るには? ロマンティックの代償って?

 

 ふと、ミンサガのラスト、邪神サルーインにディスティニーストーンを捧げる場面を想起した。酷い有様も現状も、俺の選んで行った結果。ありもしない神様に、ありもしない言葉を捧げる人生。

 

 愚かな言葉を書き連ねることで、なんとかロマンスについて考えることができている。ベニーズビデオ、よりかはfriends を大切に。

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けだものは君を見ない

 調子が悪いということを毎回のように書いていて、自分でもうんざりしてくる。しかしそれが事実なので仕方がない。たまに、ふと、自分が今生きていることが不思議で、ほわほわした、地に足つかない気持ちになる時がある。

 俺は死にたがりではない。ただ、なんか助かってしまったとか、いつの間にか生きていた、みたいに後から思うことが少しある。不思議だな。でもそれは、

 よくある話ね
 退屈な話 (夏木マリ/ミュージシャン)

 たまに、自分に金を稼ぐ才能(なんだそれ)が絶望的にないことに気づく。新宿の京王デパートの外観にカルティエの大きな広告看板がある。モノクロの豹の写真に赤でカルティエと描かれていて恰好が良い。一時期携帯電話の待ち受けにもしていた。俺、動物好きなんだ。

 そのカルティエの前で、赤銅色の肌をした浮浪者がオブジェのように固まっている。フォトジェニックな光景だと毎回思うが、撮影する気にはなれない。俺は豹の中に浮浪者の中に自分の姿を見る。しかし俺はきっと豹にも浮浪者にもなれない。ただ、自分の中の豹や浮浪者の部分が呼応するのだ。

 新宿は好きだ。二十代のころ少しだけ住んでいて、歩きながら大して好きでもないピストルズのアルバムを聞きながら歩いていたら、すごくはまった。あと、アジカンの青臭くて必死な感じのアルバムを図書館で借りて、大して好きでもない阿部和重の小説を暇つぶしに読んでいた。

 好きな物は、大抵食いつぶしてしまったような気がしていた。気がしていただけだけど。

 新宿の街のそこかしこから香る、悪臭。つつましげなデパートとラブホテル街。RPGのダンジョンみたいで好きだ。ここは俺の居場所なんかではない。というか居場所何てないのだけれども、小奇麗なのも小汚いのも受け入れる繁華街というのは、とてもいいものだと思う。


 たまに、ダイアン・アーバスの写真集を見返す。彼女のちょっと神経質で好奇心旺盛で真面目な感じが好きだ。彼女はなんで自殺してしまったのだろう。そんな分かるはずもないことを時折考える。そんなことは誰にも、きっと本人にすら分からないことなのかもしれない。

 希死念慮自死に結びつかないのは、きっとやり残したことがあるからかもしれないと最近思うようになってきた。最近ネット通販で馬鹿みたいに散財している。一回一回の金額はサラリーマンの飲み代みたいなものだが、塵も積もるとヤバイことになる。でも、久しぶりに無駄遣いをして、虚しくて楽しい。

 写真集の最初に、ダイアン・アーバスの発言がまとめられている。彼女はきっとエキセントリックな人ではなく、真面目な人なんだって感じる良い文章だ。俺は真面目な人が好きだ。それがなくてもいいのはきっと、顔がいいか動物みたいな人だろう。

以下、アーバスの発言。
 


 知っておかなければならない大切なことは、人間というものは何も知らないということです。人間はいつも手探りで自分の道を探しているということです。

 ずうっと前から感じていたのは、写真のなかにあらわれてくるものを意図的に入れ込むことはできないということです。いいかえれば写真に現れてきたものは自分が入れ込んだものではないのです。

 自分の思い通りに撮れた写真はあまりありません。いつもそれらはもっと良いものになるか、もっと悪いものになってしまいます。
 
 私にとって写真そのものよりも写真の主題のほうがいつも大切で、より複雑です。プリントに感情を込めてはいますが、神聖化したりすることはありません。私は写真が何が写されているということにかかっていると思っています。つまり何の写真かということです。写真そのものよりも写真の中に写っているもののほうがはるかに素晴らしいのです。

 物ごとの価値について何らかのことを自分は知っていると思っています。ちょっと微妙なことで言いにくいのですが、でも、本当に、自分が撮らねば誰も見えなかったものがあると信じています。



 これを読んでいてふと、ロートレックの一枚の絵画を想起する。オルセー美術館に所蔵されている(勿論行ったことがない)『ベッド』という油彩画で、ベッドで眠りにつく、二人の女性の同性愛者の娼婦の画だ。

 しかしこれは説明がなければ、二人ともショートヘアで、兄弟が眠りについているようにも見える。ここにあるのは、(ロートレックにしては珍しい、といえなくもないのだが)親密さなのだ。

 アーバスも多くのフリークスを親密さで、敬意を好意をもってカメラに写したはずだ。神聖ではなく、親密さ。だから彼女の写真はほのぼのとしていて、たまに見返したくなる。

 先日森山大道の本をまとめて借りていて『森山大道論』という評論、感想が書かれた本を読みながら、すっかり自分が批評から遠ざかっていることを再確認する。二十代の俺は、おそらく批評の言語で見てそれで何かを語っていた。今もそれは有効であり有益であるとは思うが、それよりももっと、ジャンクな言葉が、製作者のどうでもいい言葉(なんにせよ制作者の言葉はそれに関しては『プロ』ではないので、その人の作品に比べるとずっと退屈な物が多いのだ。当たり前だが)の方がずっとキュートだ。

 そんな風に思うようになってきていた。作品は、ポエジーは常に誰かの手から言葉からすり抜ける。それに対するラインズマン或いは恋文、というのは時に無粋で、しかしそれを誰かがしたいのならば仕方がない。なにより他人の恋文って、なんだかんだで人気なんだよね。羞恥を刺激されながら、文句を言いながらも読んでしまうそれ。

 その本の中で森山大道ブエノスアイレスを撮った写真とウォン・カーウァイの『ブエノスアイレス』をからめて、二人の親近性について語っている文章があった。曰く、カーウァイの主人公は「利己的な放蕩者である独身者による恋愛」であり、自分を優先して失恋を繰り返すのだ。そして、不安に突き動かされてシャッターを押し続ける大道。

 その全体を読むと、納得する部分もありつつも、少しロマンティックすぎないか、と感じたのだが、森山大道の言葉を引用している部分は好きだ。


ぼくの場合、なんか写真を撮ることも含めた日常の時間に四六時中おおいかぶさっているのは生とか死とかっていうよりも、漠としていながら確実に身辺に充ちている不安ですね。ぼくが写真を撮っている唯一のモメントは、じつはこのキリのない不安に根差しているように感じています。


 生とか死とかっていうよりも、漠としていながら確実に身辺に充ちている不安ですね。


 という部分は自分にも重なるし、何より彼が撮る景色にも表れているように思う。彼の写真はしばしばロマンティックに語られたりするけれど、それよりもどうしようもなさや寄る辺なさ、どこにいたって異邦人、という感がする(それがロマンティックだと言われたら、まあ、そうだけれども)。

 ただ、異邦人は異邦人なりに街にそれなりに歓迎され、ほっぽり出される。しかし彼はカメラを手放したりなんてしない。街に好かれていようが嫌われていようがそもそもそんなことなんて問題ではなく、不安と欲望が多くの作品を残していく。

 しばしば俺はエネルギーが切れてしまう。街も俺もポエジーも動物も神様も、どうでもよくなってしまう。ただ、俺が満足をして、区切りをつけて、ホームレス/社会人になるとしたなら、それには未だ早い。まだまだ無駄遣いをしなければ。

 ぎらぎらしたほの暗い、いや、のんきな欲望を抱いている誰かさんと誰かさん。俺は彼らにはなれないのだろうと思いつつも、その他者を見ると、自分にも何かの感性が、欲望があるような気がしてくるから不思議だ。

 惰眠に効く薬は筋トレや日光よりも、死に行く人や死んでしまった人や、獣の方がいいらしい俺の場合。

エレガントの夢魔

 酷く嫌な思いをして数時間ごとにそのことを反芻、しかし雨の日や肌寒い日が続いてきて、暑さにまいっていたので、何だか嬉しくもなってしまう。とはいえ、肌寒さの中で掛布団を抱きしめて横になっていると過眠が悪化する。

 嫌な夢を見た。二日連続で見たから次の日も見るのかなあと思ったら三日連続で見た。でも、夢の最後で覚えているのは、黒人の少女が戦後の日本のような荒れ地で、車の上で裸でジャズみたいな歌謡曲を歌うという映像。曲名は『米、米、アメリカ』という。だって、彼女がそう言っていたんだ。どんな曲なのか興味はあるが、こればっかりは知ることが出来ない。

 日々が惰眠に飲まれて溶けて行くのに、身体が動かない。まるで他人の身体。しかしそれの所有物は俺だから、たまには見るんだ映画。

 大学の時に見たっきりの、ベルイマンの『夏の遊び』を再び見る。とても美しい映画。自然の美しさと、回想シーンの恋人たちの瑞々しいやりとりがとても良い。教訓めいたメッセージよりも、自然と若者があればそれでいいのだ、と俺は感じる。

 ゴダールも好きだったらしいのだが、そういえば後年のゴダールはとても自然を美しく撮るようになったなあと感じるようになってきた。初期ゴダールには、自然の美しさというのはあまり感じない。

 中平卓馬も後期の写真を見るととても自然をのびのびと、美しく、いや豊かに撮るようになったなあと感じる。数年前にも俺はゴダール中平卓馬を関連付けて想起していたように思うが、他に賛同者がいないしそもそも友人がほとんどいない。別に関係はないけどね。

 北欧の自然の中で暮らす子供たちの生活を描いた『やかまし村の子供たち』を見る。

 正直あまり期待していなかったのだが、とてもよかった。子供たちの生活が淡々と描かれていて、それらは小さな事柄だけれど、子供たちにとってはわくわくの連続なのだ。

 見ていてふと『ロッタちゃんのはじめてのおつかい(赤い自転車)』を思い出した。あれも北欧の子供の物語だが、こちらはストーリーが一応あるし、ロッタちゃんのわがままな魅力がでているファミリードラマといった風だ。

『やかまし村』は、登場人物の子供も大人も自然も動物も、どれもこれも分け隔てなく眼差しが注がれているような感があった。勿論題名にもあるし、主役は子供たちなのだが、北欧の生活のなかにある、小さな喜びやハプニングの瞬間がつめこまれた良作だった。

 これも大学のころに見たベルトリッチの『ラスト・タンゴ・イン・パリ』を見る。二十歳のガキが最初にこの映画を見た時に、不満点もあるが、まあ、好きかもな、なんて感じていたのだが、三十過ぎの老けたクソガキが見ても、まあ、似たような感想を抱いた。

 大好きなマーロン・ブランドが出ているだけで、多少点が甘くなってしまう。しかも、中年になって顔に疲れも出ていて頭皮も寂しくなった彼だ!

 改めて見ると、女優のマリア・シュナイダーはかなり役にはまっているように思えた。あと、ジャン=ピエール・レオー が出ているのもいい。ゴダールトリュフォーが好きだからか、レオーが出ているとなんだかほっとする。彼の顔が優等生的な美形だからかもしれないし、演技をそつなくこなす優等生だからかもしれない。

 この映画を見ていると、マーロンブランドの美しさや醜悪さや哀愁やかわいらしさや、様々な表情を楽しめるのでファンには向いていると思う。

 ただ、構図やカメラワークのセンスの良さに加えて音楽も過剰で表現が大げさに感じられる場面もちらほら。実相寺昭雄の『哥(うた)』を想起させる。いや、どちらも結構好きなんですけどね。

 ただ、この映画に限ってはヴィスコンティと同じ、エレガンスによって作られている映画といえるのかもしれない。エレガンスとは滑稽で気高い美意識のこと。
この退屈な映画を見ながら(退屈、といってもフェリーニパゾリーニのようではなくて)頭の中でスパンクハッピーの『エレガントの怪物』の歌詞が頭に浮かんでいた。

 
 例えば男の子は自信なさげにはなす
 不潔な独特のファッションを纏う
 彼らが持っている現代の奇妙なエレガン
 あたしを盗撮している奴がいるって

 ヴィスコンティの映画の持つエレガンス、センスの良さは多くの人が認める所であるだろう。そしてそのエレガンス、趣味の良さの与える安心、ブルジョワジー的な感覚、退屈さに対するつまらなさ、について金井美恵子蓮實重彦ゴダールが言及していたように思う。

 つまり、ヴィスコンティの映画は良いものだけれど……

 話を『パリ』に戻そう。あの映画のラストは、かなりひどいと俺は思う。センスがない、と言ってもいい。それでも、俺はこの映画もヴィスコンティの映画もどちらも結構好きだ。愚かでロマンティックでかっこつけている(のが見透かされている時もあるが)、つまりエレガンスな映画。

 俺はヴィスコンティの映画における、美しい男性が鋭利な美、ナイフのような女性によって始末される様式美にポルノ映画のようなわくわく感とちょっとした気恥ずかしさを覚える。でもそれが好きだ。美しい男性/女性は不幸になるべきだし幸福になるべきだ。

 この映画は、マーロン・ブランドファンの為の、中年男性の為のメルヘンポルノといった感もあり、肩ひじ張らずにみられる点はよかった。

 俺は日本の一部で大人気な某作家の作品がセンスの無い謎解きメルヘンポルノだと感じて本当に嫌なのだが、この映画のメルヘンポルノは、ちゃんとおぞましく醜いから良い。でも、見る人に逃げ道を、謎やセンスの無さを用意してくれる方が、受け手としては安心できるのかもしれない。

 マーロン・ブランドのファンの俺はわくわくするのだけれど、昔は美しかった面影がある、うらぶれた中年男性の醜く滑稽で自分勝手な様子は、お粗末と言ってもさしつかえがないストーリーとあいまって、多くの人に不快感を与えるだろう。

 顔がよければ、エレガンスであれば、許される世界、許される瞬間は素敵なこと。いいや、そもそもそれさえ許されなかったら俺は何を許せばいいのだろう?

 気分が悪くなって、日々口にする錠剤と少量のアルコール。俺の、現代の奇妙なエレガン。ということにして、今日も悪夢の為にまた一休み。

もう会えない君のせいで生きのびてしまってるんだなんちゃって

俺は音楽が好きだ。外に一人でいる時は必ずipodで音楽を聴きながら、何かをくちずさんでいる。でも、自分で作ろうと思ったことはほとんどない。それは俺が小説を書いているからかもしれないし、単に機材やらのお金の問題とかいっしょにやれる友人がいないからかもしれない。

 数年ぶりに友人とカラオケに行った。ちなみにその友人はずっとカラオケ嫌いだったらしい。しかし二人とも音楽の趣味が近いし、音楽好きなので、歌わなくても話してればいいやとフリータイムに入ることになった。

 俺は好きな曲が多く、歌詞を見なくても歌える曲が多い。とはいっても、それはipodとくちずさむ程度のもので、当たり前の話だが、歌える曲と歌いたい曲は違うし、すごく好きな曲を歌いながらも自分のスキルのなさに(プロと比べたら当たり前なのだが)少しげんなりすることもしばしば。

 なので、数年ぶりのカラオケがフリータイムのカラオケってどうなんだろう、という思いもあったが、結果、5時間以上ずっと友人二人で歌い続けていた。楽しかった。

少し前のことなので、覚えている範囲で歌った人らの名前を

菊地成孔feat岩澤瞳
フジファブリック
ピチカートファイヴ
キリンジ
アリプロ
great3
銀杏BOYZ
サカナクション
ヤプーズ
プラスティック・トゥリー
キートーク
女王蜂
m-flow
dragon ash
ZAZEN BOYS
モーニング娘。
ベリーズ工房
キュート
松浦亜弥
おそ松さん
アイマス
うたプリ
でんぱ組
perfume
キノコホテル
夢アド
エレファントカシマシ
くるり
カプセル
清水愛


 こうして書き出してみると、普段聞いている曲を見せているような、少し気恥ずかしいような(こんな雑記書いていて今更かよ)変な気分になる。ただ、歌いたいけど、歌唱力が無くて歌ってないのも多々あるんですよねー。でも、やっぱり声を出すってのは、歌うのは楽しいなって思った。

 友人がとてもフジファブリックが好きで、フジファブリックの曲を何曲も歌っていた。そんな時に、何だか不思議な気分になった。多くの人は知っていると思うが、ボーカルの志村は若くして亡くなった。

 そして、そこまでファンではないのに、俺はその現実を受け入れようとはしていなかった。

 元々フジファブリックに興味を持ったのは、俺が日本一好きなバンドのgreat3の片寄明人がプロデュースをしたからだった。

 ファーストアルバムを聞いて、いいなあと思った。その時の俺は二十代の前半だったような気がする。そしてその時の俺は一部をのぞいて邦楽ロックから離れていった。

 多分、俺が好きな邦楽ロックは、とてもエモーショナルな物だからだ。その歌詞やたたずまいは、どうしてもこちらの心も揺さぶるものだった。その人がその人が好きな物が知りたくなる。でも、時間も金も有限だし、俺は乏しい。

 好きなバンドは、つまりヴォーカルに大きな魅力があると言っても間違いはない気がする。まあ、俺の場合。

 つまり、そいつの生き方が音楽がかっこいいから惹かれるし、それと同時にそれが魅力的であると、時に消化できずに、なんとなく距離を置きたくなってしまう時もある。

 いつも聞いていた音楽を聴けなくなる時。単純に飽きたのかもしれないし、聞きすぎたのかもしれないし、新しい何かを求めているのかもしれない。

 俺は惰性と集め物好きで、好きな人のアルバムは一から聞いて行く(いきたい)方だし、好きな人が好きなアルバムも聞いていきたい方だ。そして気疲れしてしまう。幾ら好きでも他人の人生をトレースすることはできない。その人が体験したライブを、感動したレコードをCDを味わえることはできない。


 だから、日本で一番好きなバンドのgreat3の片寄のラジオの存在を知りながら、俺は一度も聞いていない。

 解散後に好きになった日本で一番好きなポップスのアーティスト、ピチカートファイヴ小西康陽のDJを聞きに行ったりしたこともない。

 単純に俺に金がなさすぎるからクラブやらライブやらに行ってないのもある。でも、それ以上の、当たり前のことがあるのだ。

 俺は簡単に色んなものを好きになり、どうでもよくなる。言い方が悪いならば、好きな物が多すぎてどうしたらいいのか分からなくなる。

 でも、これは当たり前の話。だれだって多かれ少なかれそうだ。

 でも、残ったものが大切な物とは限らない。多分、偶然残ったものだ。引っ越しの度に捨てられないあれやこれや。捨ててしまって後悔しているあれやこれや。
 

 どんなに素晴らしいと思った人であっても、同じ物を同じことを共有できたとしても、同じではないのだ。

 ずっと彼と彼女と遊んでいたいのに、それは無理な話。子供でも分かること。

 俺は小説を書いている。何かを編集し続けて、秩序らしきものを与えている。そうしないと、生きられないのだ。

 だから、他人の人生を引き受けることは、受け入れることはきっとできないのだろうと思う。大げさな言い方をしているが、単に俺が誰かの大ファンにはなれないのだなあという、寂しいような当たり前の感情がたまにわいてくるのだ。

俺も漫画家でもアイドルでもバンドマンでも芸術家でも格闘家でもゲームの世界のヒーローでも何でもいい、熱狂したい。愛してるって届かない愛を叫びたい、届かない愛を叫びたいんだ。けれど俺にはその素質にかけているらしいのだ。

 それが、たまに寂しい。

 すぐ、いろんなことをものを好きになるのにな。

 先日、カラオケ後に、フジファブリックの曲を聞いて、そして片寄明人フジファブリックの志村の訃報に当てて書いた長文を改めて読んだ。

 とても素敵な文章だった。だから俺はこの人が、この人が好きな志村、フジファブリックがすきなんだって改めて思った。文章は検索すれば出てくるはずなので、気になる人はぜひ読んで欲しい。

 誰かを、何かを手にしたとして関りができたとして、ずっとうまい関係でいけることなんてない。関係は変わり続けるし、自分だって色々とダメになっていく。色々なことを忘れて、目をそむけながら、なんとか生きていく。俺じゃなくっても、きっと多くの人が。

 でも、誰かのエモーショナルな感情に触れるって、とてもエネルギーがいるけれど、やっぱり素敵すぎることで、それなしには生きられないなって思う。

 色々あると、俺はすぐに家で過眠の日々になり、残高と生死のことばかり考えてしまう。うわべだけの人付き合いしか得意ではないのに、それでも誰かに誰かの作品に会いたくなる。

 こういう雑記の一部が、俺にとっては無責任な愛を叫んでいることなのかもしれない。俺は面倒な身体と性格の自分の世話だけで日々精一杯だ。それでも、誰かの言葉が思想が生きざまが邪魔くさくてどうでもよくて必要なのだ。嫌いだって好きだって言って暮らしたいし、嫌いって言うよりかは好きだって言った方がいい。

 亡くなってしまった、俺とは縁がない大勢の人のことを時折思う。彼/彼女のおかげで、俺はどうにか生き延びているんだって思うし、今生きている人々の言葉で気持ちが乱されるがそれも、俺が生きている証なのだ。

 めんどうな話。すぐには受け入れられない様々なこと達。ただ、少しずつ俺は変わり、忘れ、時折何かを受け入れられるようになったらいいなって

https://www.youtube.com/watch?v=I1X6MrBfjrk
フジファブリック (Fujifabric) - TAIFU