幸福になるよりも、迷子になろうぜ君も

 仕事はいつまでたっても決まらないし、未来の展望もない。おまけに、気持ちがぐらぐらして夜眠りにつくのが3,4時になるのもしばしば、午後、ふと気が付くと、眠りについてしまうこともしばしば。

 こんな終わっている状況なのに、それなりに精神が安定しているのは、小説を書けているからだろうか。多分そうだ。巨大な岩に向かって、がむしゃらに鑿を振るっている気分だ。どんな形になるのか、きちんと作り上げられるのかは分からないけれど、とにかく、腕を振るうのだ。その位しか、俺にはできることがないのだから。

 とはいえ、自分の無計画っぷり、非生産っぷりには、我ながらやべえなあ、と思う。特に三十過ぎになると、二十代で出来ていた目隠し、空元気にも限界が出てきていて、ふとした時に、ああ、俺ももう駄目なのかな、とか、早く楽になりたいなあ、とかそういう希死念慮離人感に似た空疎な思いに囚われるのだが、岩に向かって、腕を振り上げている時は、まだ平気なのだ。当然、そんなことを続けられるわけでもないのだが、でも、蛮勇を遊ばせることができるのは、幸福なのだ。

 小説を書くときは、他の人の書いている小説を読む気にはならないことがしばしば。特に、新しい、見知らぬ人のや、面倒で好きな小説は難しい。かといって、詩的な言語や、美しかったり暴力的だったり我儘だったりする小説、文章を目にすると、良い刺激になるのも確かなのだ。

 数年ぶりに、笙野頼子『幽界森娘異聞』を再読する。笙野の小説は金井美恵子町田康の小説と似た長文の、ドライブ感のある語り口で読んでいてとても面白い反面、自分がある程度体力や気力がある時に読みたいなあ、という作家たちで、書くこと、考えることについて体力と時間を割かねばならない今は、読めないなあ、なんて思いながらも、読んだ、面白かった。

 この本は笙野頼子による森茉莉論でもあり、自身の、そして森茉莉の格闘の歴史でもあって、それを軽快で力強い語り口で一気にしゃべり倒す。

 

彼女、彼女、この故人のこの活字の世界での名をいきなり「森娘」と命名する。本名森茉莉をそのまま使わないのは、私の描いているこの故人が、どう考えても本物の森茉莉とはずれた人物だから。鴎外と志けの娘、では決してないから。私が知っている森娘は、……「贅沢貧乏」という1冊の本の中に住まった1体の妖怪だ。私という作家の雑念と思い違いがそこにこごった、活字の怪でしかない。「作家は死んだ時その本の中に転生する」

 

 という本書の説明があるが、妖怪、奇怪な森の中の「姫、娘」について、過剰に美化することもなく、所々つっこみをいれながらも、しかし最大級の賛美を与える、素晴らしい森茉莉論でもあり、ファンからの「よく分からない存在」へのラブレターだった。

 読んでいて元気が出るんだ。敬意と熱情によって創られた作品にふれるとさ。ネットができて、とても便利になって、とても読みやすい、有用な記事、スマホで、或いはパソコンで数分程度で消費できる、ファストフードのような文章が山ほどある(俺はファストフードもファミレスも好きだ)。

 でもさ、やっぱり活字で育った俺は、昔の人達(勿論今の書き手を否定しているのではなく)が書いた、面倒な、熱量が強い文章が読みたいんだ。俺も、森の中で迷子になりたいんだ。

 自分が、それを書けると、森の中でも出来が良いものに仕上げられると信じて、腐心して。それが無益であったとしても、迷宮を作らねばならないのだ。幸福になるよりも、迷子になろうぜ君も。

愛は不公平な物。でも、それが欲しいんだ

嫌なことがあったり、ちょっといいことがあったり。やっぱなー外に出なきゃなあって思う。俺は本とか映画とか音楽が好きで、つい家にこもりがちになるけれど、何かの新しい刺激を受けるというのは大事だ。知らない場所、知らない物、知らない人。俺の知らないこと、あり過ぎるんだ。

 ずっと見たかった『ファスビンダーケレル』を見る。大好きなジャン・ジュネ『ブレストの乱暴者』が原作で、監督のファスビンダーも好きだけど、なんかもったいなくて見られなかったし、レンタルでないし、とか思ったらアマプラで見られるんだね。よい時代っすね……(中年男性感)

 ゲイのジュネの映画をゲイ(バイセクシャル)のファスビンダーが映画化、ということで、いやがおうにも期待は膨らんだ。けどさ、ジュネの文章の魅力って、その奔放で我儘で出鱈目で美しい、そのポエジー、恋文にあって、それを映像化するってのは無理ではないかなって思いも強かった。

 最初はさ、違和感というか、期待値が高い分映画に入り込めない面もあったが、徐々に、ファスビンダーの作り上げた、ゲイの為の怪しい世界の魅力が身体に染みこんでくるのに気づいた。

 不自然な、セットだとすぐに分かるような港町で繰り広げられる、殺人、男色、犯罪。全体の色調はぼやけた明かりの中にあるようで、鮮明ではなく、薄いベールがかかったような印象を受ける。

 映画を見るにつれて、ジュネの描き上げる世界の大きな魅力である、愛と裏切り。自分の愛する対象への過剰な賛美がそこかしこに散見された。犯罪による愛の交換、或いは愛の中の虚妄による、執着。

 ファスビンダーは以前インタヴューで、愛の関係性について、惚れた方が負けで、いびつなものにしかならない、といった身もふたもない趣旨の、しかしながら「愛情の成立」の困難さについて語っていたことがあった。

 愛すること、愛されることは甘美で、大抵残酷だ。そういう感性を持っている人間、俺にとって、この映画はとても魅力的だった。

 この映画の中で愛されない、哀れな中年女性を演じているジャンヌ・モローはさすがの存在感だった。おぞましく、哀れで、どこか陰りのある美をたたえている。

 愛は不公平な物。でも、それが欲しいんだ。被害者でも加害者にもなれない迷い児になってしまうんだ。恐ろしいことに、でも、好きだろ? 恐ろしいこと。

 やっと、小説を書き始めることができた。俺の人生の展望は暗い。靄の中を一人歩いている有様、それも、ずっと。それでも、小説を書ける、何かを作ることができると言うのはとても幸福なことだ。素直になれる、編集できる、手に負えない世界の中を、苦心して編集できるんだから。

 自分について話すと、どうしても明るい話はできないけれど、好きな物について語るのは健康に良い。誰からも必要とされなくても、俺は俺の為に雑文を、小説を書き続けなければならないのだ。

悪魔が友達じゃなくても平気なの?

 酷く調子が悪かった。人が自死を選ぶ際には、単一の原因でそれを選ぶこともあるだろうが、恐らく多くの場合は、複雑な事情、「無数の苛み」が積み重なって、それを選ぶ、或いは穴に落っこちてしまうのだ。その穴が、深淵だと知らずに、或いは、深淵などでも、どうでもよくなって。

 調子が悪いのは、小説が書けないから。構想をまとめようとしても、中々形にならないから。まあ、何かを作る人なら、こんな経験しょっちゅうしながら暮らしているのだ。お金を生み出す/生み出さないとか、才を感じる/感じないとか、関係なく。

 ただ、俺は、小説を書く、ということ以外に、何か他の「溜め(友情愛情地位名誉貯金家族信仰……何でもいいから君の心が安定する物を当てはめてみよう)」、が恐ろしく乏しいのだ。リスクヘッジ、とかそういう言葉を目にするとげんなりするし、きちんと、計画的に生きている人を目にすると、異邦人のように感じられる。

 しかしながら、それは、大事な事なんだ、生きていなければ、何もできやしない。最低限の気持ちの余裕が無ければ、極端な話、衣食住だけで生きられる人なんて存在しないわけで、100円の古本も買えない、180円の片道の交通費さえ出せない、なんてことは、悲惨なことなのだ。

 小学生でも、分かるよね? でも、分かってないんだなこれが俺

 もっと大事なことがあるだろうって、何で皆、神様とか悪魔とか天使とか、詩人とか文学とか芸術とか、真善美とか、死とか、そういった「命題」について考え続けて、苦しまないんだろう、毎日、そのことで頭がいっぱいにならないんだろうと思うと、がらんどうみたいな心持になる。

 無慈悲な、手に入らない「外部」によって、苛まれるのが、何層ものレイヤーごとにあるドレスコードによって、裁かれ続けるのが、そのことについて罪悪感を抱くのが(これは原罪ではない。つまり、救いはないのだ)、人間として正しい生き方なんじゃないのか、とか、そんなことを考える俺は、こんなにも健康なのに、駄目になってしまいそうになる。

 薬を飲むとか、衝動的な行為に走るとか、寝るとか、もう、うんざりなんだ。十年以上こういうことと格闘をしていて、もう駄目だといい加減にしてくれと思う。でも、どうにもならない。俺の生まれつきのオブセッション

 薬を飲んでも辛くって、今日は耳栓をして何度も繰り返し寝ていた。その間も焦燥は熾火のごとく胸の内で燃え続け、何かしなければ、書かなければ考えなければ読まなければ、それも、無益なことについて!

 生活に役立つ言葉ばかり発信している人が、それを疑問に思わないらしいのが、不可解で、というかこういう問い自体が、恐ろしいおぞましい物なのだ誰かにとって、多分、俺にとっても。俺は、健康が、コミュニケーションが好きなのにな。俺のそれと、一般的なそれとには乖離があるんだ。

 有益なこと、お金を稼ぐこと。それ自体は悪いことではないけれど、それが生活の、思考のベースになっているなんて、ぞっとする。というか、こういう文章を書ける自分にもぞっとするのだ。幼いまま老いていき、三十代になっても治る気配はないし、むしろ悪化と諦念でそれらは繭を作るのだ。

 俺、自分が何かを喋っていたり、書いていたり、肉体の運動を知覚するのが、不思議で幸福で奇妙だって感じてしまうんだ。俺の身体、俺の物らしいんだ。幸福なことだ。自分のこと、感情のこと、忘れちゃいけなのにね。幸福について考えないと、身体感覚が莫迦になるんだ。よくないね。

 十年近く前に読んだ、ポール・ヴァレリーの『ムッシュー・テスト』を再読する。ヴァレリーは、その言葉に美しさを、ポエジーを感じるんだ。でもさ、俺、彼の著作をろくに読んでない。読みたい本、読みやすい本、沢山あるからさ。

 ヴァレリーの著作に触れる、ということはつまり、彼の思索、詩作の流れに身を任せるといったもので、俺はその波の中で溺れ、たまに、輝きを、なんとか発見できるのだ。

 俺は彼の言葉が好きなのに、ほんの少ししか、彼のことを理解できないのだ。

 でも、それは当たり前の話で、たまに理解した気になってしまうことがあるけれど、不可解で魅力的だなんて、最高の存在だと思う。俺は好きな作品は何度も読み返す。その度に新しいことを感じるし、考える。

 好き、という感情があるなら、多分どうにかなるはずだと思うのだ。

 なんて、空元気で甘い詐称で、摩耗した心に灯をともそうとするんだ俺。

 グレゴリオ聖歌を聞きながらこれを今書いている。バッハとグレゴリオ聖歌は、文章を書く際には最高のパートナーだ。

 一応、俺はこんな雑記でも、明るい内容を意識して書いているのだ。その方が、健康にいいと思うから。神様悪魔様、俺は貴方たち「外部」の存在が大好きです。貴方たちについて考えると、詩作の欠片が生まれるような、けだものになれるような、そんな心持になる。

 好きだって愛しているって、嘘でもいいから毎日言う方がいい。毎日、無益な、役に立たない嘘をつくといい。俺もそうやって眠るんだ、文章を、編集するんだ。おやすみ、また明日

まるで愛情のような

家で溜まった本を消化していく。面倒な小説とか批評とかを読んでいるわけではないからか、わりとさくさく読書が進む。自分が本が好き、かのような錯覚をしてしまう。本の山、読みたい本や読み返したい本や読まなきゃいけない本や買ってしまった本のことを考えるとげんなり。なのに、読書をするんだ。

 『ゴッホ 最後の三年間』という本を読んで、まあ、内容な見る前から多くの人が想像しているような物なのだが、ゴッホが耳を切り落とした後のテオに宛てた文

 

 ここ数週間については全くもって不可解だ。ほとんどの日の記憶がないし、思い出すこともできない。今はもう何日も閉鎖病棟に閉じ込められている。頭の中には言いようのない恐怖とそれに続く虚無感、疲労感がある。でも、まったく何ともないと感じる時も沢山ある。だから心配しないでくれ。自分で思っている限り、僕は本当におかしくなったわけじゃない。

 

 

 

 読んでいて涙が出てきた。彼はおかしくないんだって、大丈夫なんだって、そう思うと涙が出る。ただ、これはゴッホに感情移入した自己憐憫の涙であって、単に俺が「大丈夫だ」「おかしくないんだ」と自分に言い聞かせて生きているという話だ。涙って、すぐ出るものだ。

 まあ、でもさ、似たようなことで辛い思いを「遠い国の亡くなっている面識がない友人」がしているとかんがえたらさ、やっぱり胸が痛いんだ。

 

 ただ、ゴッホは失意にだけ溺れていたわけではなくて、彼が画を、自然を愛していたんだっていうことは、とてもすばらしいことだと思うんだ。本の中で糸杉の画と、それに添えられたテオへの言葉がある個所があって、とても胸にきた。

 

 

 お前にとって家族が、僕にとっての自然になるようになるといい。妻も子供もも持たない僕は、穀物の穂や松の枝、葉を見ると癒される。外に立って画を描いていると全ての人々を結び付けている絆を感じる。

画像1

 

 

 影が入って申し訳ないが、少し前に見たゴッホ展で少し大きなプリントの糸杉の画を買っていたんだ。この画を見ると、あの時見た本物の素晴らしさをありありと思い出すことができる。

 ゴッホの画を見ると、彼が不幸だなんて失礼なことを感じてしまう気が失せるんだ。何かを愛せていたなら、熱情があるとしたなら、それだけでも素敵なことじゃないだろうか。

 オードリー・ヘップバーンの展示を見て、彼女の発言集を読み返していると、そこにも胸に刺さる言葉があった。

 

「私たちには生まれた時から愛する力が備わっています。それは筋肉と同じで、鍛えなくては衰えていってしまうのです」

 

 この発言について、彼女の人生に関しての補足が必要かもしれない。

 オードリーは家族や愛情を非常に求めていて(幼き日の父との別離、家族を何より大切にしていたのに、二度の結婚と二度の離婚を経験)、自分に自信がない分すさまじい努力でそれを実現した(しようとした)人だ。

 愛は備わっているもの。愛もまた鍛えなければ衰える物。

 ゴッホの発言が頭に浮かんだまま、努力と才能と愛情と愛くるしさで、それを口にしたオードリーの言葉を思うと、あまりにも接点がないかのように見える二人だが、愛情でも熱情でも虚妄でも、何でもいいから(よくねーよ)持ち続けるのって本当に大切なんだって改めて思う、何度でも思う。

 大切にしているつもりでも、摩耗したり忘れてしまったり駄目になってしまったり、沢山あるんだ。自分の手でつかみ取らなきゃならないんだ。

 それが愛と呼べるものなら、作品と呼べるものなら、きっと、悪くないんだ。自分の生きざまが、現状がどうであれ、悪くないんだって、自分に言い聞かせるんだ。

 アマプラで『聖者たちの食卓』というドキュメンタリー映画を見る。

 インドのシク教総本山にあたるハリマンディル・サーヒブ<黄金寺院> では、巡礼者や旅行者のために毎日10万食が無料で提供されている。

 とのことで、この映画、すごいのは、ほぼノンテロップ、しかも現地での生活音以外の音がほぼ入ってない(インド人の会話やそれについてのテロップすらない)。それで何が映っているかと言うと、

 食材集め(本当にどうでもいいが、「贖罪集め」って最初に変換で出てきた俺のパソコン君……)、調理、食事、片づけ、と言った一連の行為を、すさまじい人数の人々らが行うという「日常」を映したものに仕上がっていて、これがとても良かった。

 インド人ってシンプルな白い服かすごいカラフルなTシャツとサリーとターバン巻いていて、その差が激しく、子供の塗り絵を見ているようで楽しい。かと思えば、正装?みたいな品の良いいでたちの人もいて、色んな人が<黄金寺院>で食事をするんだよね。

 色んな人らってのがさ、シク教徒の人らで、シク教ではカーストを否定してるんだ。未だにインドではカーストが根強く残っているって、様々な「本」でだけどさ、目にしたし、差別ってどうしたって無くすのはむずかしい。

 それを踏まえて見ると、全てが平等であるという教えの下で、ボランティアによって様々な境遇の人たちが、毎日10万食を作り、平らげ、後片付けもする、という行為はとても爽快なんだ。しかもさ、それが毎日行われてるんだって!

 余計な音なしで、食料作る、食べる、片づける ってのを見るだけでもとても楽しい仕上がりだ。

 俺は後片付けでアルミ製らしき容器を一斉に投げる時に鳴り響く「バラララララア」って音が耳に残ってる。時間は65分と、とても見やすい時間で、最近見たドキュメンタリー映画の中で一番位に良い映画だった。

 ああ、行ってみたいと思った。無理な話だ。金銭的な意味で。だから、俺は本を読み、音楽を聞き、映画を見たり。たまに、誰かと話したり。何かを書いたり。

 俺も何かを手にできるんだって、信じて

 

今日も君の為に僕の為に嘘を

『真珠のボタン』という映画を見たら、前に感想を書いた『光のノスタルジア』と同じ監督で、同じ内容だった! いや、中身は勿論違うのだが、語っていることが、構成が同じなのだ。チリの過酷な歴史と、広大な自然、神秘的な自然。チリの人間が見た真摯なひとひら

 ドキュメンタリー映画としての質はいいのだが(穏やかでしっかりとした語り口、美しい風景。余計な音楽は入れない。抒情に寄り過ぎない)何であまり感情移入できないのか、というと、俺が国への帰属意識が低いからだと感じてしまった。数十分ごとに気分が変わる人間が国とか同胞とか理解できないから! 哀しい事実。かなしい? ほんとは、かなしいとか、難しくて分からないけど。

 次に見た映画は『聖なる呼吸:ヨガのルーツに出会う旅』

 

クリシュナマチャリアの直弟子で現代ヨガの最大流派の一つであるアシュタンガヨガの祖・K.パタビジョイスから太陽礼拝を学び、アイアンガーヨガの祖・B.K.S.アイアンガーからアーサナ(ポーズ)の指導を受ける。そして旅の最後に、クリシュナマチャリアの三男から“命をつなぐヨガ”を施される。南インドの美しい風景と貴重な映像を交え綴られる、ヨガのルーツに出会うドキュメンタリー。

 

 何を書いている(コピペ)しているのか分からないのだが、まあ、そういうことらしい。

 間違っているかもしれないが雑な説明をすると、廃れたヨガをあるインド人が現代人に広めたよーってことらしい。雑過ぎ……

 この映画の中で印象的だったのが、ヨガの哲学は思索と実践の両方からなるもので、片方だけではいけない(だから身体を使いヨガをするのだ)、とかいう趣旨の言葉で、普段頭ばかり使って身体が疎かになっている俺には新鮮に映った。

 というか、身体の動きと連動するっていうのは、幸福なことなんだ。声楽をしている人やスポーツ選手を、たまに羨ましく感じる。俺が描く小説は、いや、俺が考える小説家というのは、格闘や高揚をどうにかして手なづける、虚妄の猛獣使いのようなものだから。

 昔、とても仲が良かった彫刻をしていた友人の言葉を今も鮮明に思い出すことができる。

モデリング(物を加えて形を作り上げる)よりも、僕はカービング(石や木を削って形を作り上げる)の方が好きなんだ。石をノミで削る時の、あの、手のひらに打った衝撃が返ってくる感覚が好きなんだ」

 それを聞いた時に、素直にいいなあって思ったんだ。文字を書くとか隊員ぐするのよりも、ダイレクトな快楽がそこにはあると思ったから。

 ヨガの映画を見ながらふと頭に浮かんだのは、数時間前に読んだ『ルルド 巡礼者へのしおり』という本で、俺は神を信じていないのに、宗教関連の本が好きでよく読む。でも、はなから何も信じていないので、読んでもそこから大したものを受け取ることはできない。

 本によると年間7万人もの人が、ルルドへ訪れるらしいのだが、宗教の先に「救い」があると考えるのは、救いを提示するのは、なんとも無粋で危険でつまらない、と思うのは俺だけだろうか? しかし宗教は、救済で成り立つものだと言っても過言ではないだろう。救いがあるからこそ、人々は集まる。

 だけど、俺は俺以外のほとんどの人が「救いを求める」とか「組織に属して固定収入を得る」ことができているという事実が恐ろしくて仕方がないのだ。俺だって、そういうことの真似事位で来ていたから、この年まで図々しくも生き延びることができた、のだけれども、そんなこと続けていて気が違ってしまいそうになるのか、少しずつ腐敗しているのか、分からない。

 恐ろしいおぞましいそれを先延ばしにして、愚かな夢想、

 の手助けになる、素敵な本『ミッドサマー・イヴ 夏の夜の妖精たち』を読む。アーサー・ラッカムやエドマンド・デュラックといった有名どころから、古典的西洋絵画のような妖精も、素朴なタッチの妖精も、様々な妖精の画が収められた楽しい本で、辺見葉子の解説文も丁寧で時代ごとの妖精画<子供だましに見られたり、時代遅れになってしまったり、人気を吹き返したりする>への理解を深めてくれる。

 この本でも触れられているのだが、人はとにかく神秘がないと生きられないということだ。それが妖精なのか、ヨガなのかキリストなのかは人によるけれども。スピリチュアル、という言葉は、というかそれに関係するような人種が本当に無理なのだが、物事の持つ神秘性には惹かれる。

 神秘を私利私欲、自己顕示欲や金儲けに利用して居直る人間が本当に無理なのだ。キリスト教で共感するとしたら、自己放棄という概念で、神秘に神に自分を捧げてもいいじゃんって思うんだ。神秘を信じているなら、何で自己実現の為にそれを利用するんだろう? こんなん思ってるいるから俺は信仰とも労働からも遠く離れているのだ。そしてゆっくりと、全身が、錆びて、駄目になっていくんだ。

 先日、上野を歩いていて、日比谷花壇の前を通り過ぎると、硝子越しに目に映ったのは美しい薔薇の花で、逆光でよく見えない上に硝子越しなのに、思わず携帯のカメラに収めてしまった。

 歩きながら頭の中でその花ばなのことを想像する。あまりよく見えなかったが、作り物のような脆い薔薇で、絹色をした肌の、花先だけが薄い菫色をした、こぶりの薔薇だったはずで、なんとも上品な印象を受け、少しだけ酔い、俺にまともな収入があればそれを買って帰るのに、等と記憶の中の薔薇のことを考えながら歩いていた。

 後日、写真を見返すと、その薔薇は可愛らしい薄桃色の、どこかの店先にある、よく目にする、しかし良い薔薇だった。俺の夢の中の薔薇とは異なっていたのだ。また、俺がいかに物を見ていないか、と改めて思い知らされた。

 だがしかし、そういう嘘を、作り事を、詐欺をできるのが小説家、芸術家、というもので、俺にできることは嘘ばかりつくこと位しかないのかもしれない。ただ、一応俺は美しい物が好きだし、できるだけ、上品にしなければならない。貧すれば鈍する、という言葉は俺にとって身に染みる重い言葉で、しかし、嘘の為に虚妄の為に、神様の天使の薔薇の欠片に触れる素振りや片思いのごとき振る舞いを。

開いて閉じて、咲かせて

ゴダールの新作『イメージの本』を見る。俺はもしかしたら、ゴダールの監督した映画を、本数という意味では一番見ている。というか、ゴダールがあまりにも多くの映画を撮っているということだ。そして、その多くが俺にとっても衝撃的であったり素晴らしかったりするのだ。

 でも、だからと言って俺はゴダールの全ての映画が好きなわけでも「分かっている」わけでもない。というか、他人の作り上げた作品が「分かる」だなんて、なんだかぞっとする。せいぜい、一部分しか理解できないのだろう、と思いながら俺は誰かの作品を求めずにはいられない。

 この映画は俺が嫌な映画についての映画、戦争についての映画、主張がある映画、なのにさ、全部見られちゃうんだ。素晴らしいんだ。コラージュだって、本当は好みではないんだ。なのにさ、ゴダールって抜群にセンスがいいから、音楽も構図も飽きさせないんだよね。プログレの途中で箴言が浮かび上がり、それが文章に、本になるかのような豊穣さがあるんだ。

 コクトーの『美女と野獣』が引用されている部分で、ゴダールの映画には美女も野獣も住んでいるんだ、素敵だなと思った。

 マジで、一番センスがある監督の一人(便利な言葉だ)なのに、見た本数だけで言うと、3,40作品以上見ているはずなのにさ、今だに彼は俺のことなんか、俺の好きなあれやこれやなんて眼中になくって(当たり前だ)でも、そんな人がいるということが、88歳でも情熱を持ち続けられる人に敬意を抱けると言うことが、とても幸福なんだ。

 ぼやけた頭で、なんとなく外に出たくて、新宿高島屋オードリー・ヘップバーンの写真展に行く。彼女の映画は有名なのは大体見たし、本だって持っている、どこにあるかは分からなけど! それに日本人はオードリー大好きで、頻繁に彼女の顔に出会うから、そんなに乗り気ではなかったんだ。

 でも、カメラの前の彼女はとても素敵で、ジバンシイの洋服、ドレスはとても上品で、お洒落をした女優としてのオードリーも勿論素敵だが、オフショットが多いのが嬉しかった。彼女は自分を美形とは思わなかったそうだが、造形以外という意味でも、とってもチャーミングだ。その表層であったとしても、感じられるのが嬉しい。可愛らしい人を見て、可愛いなと感じられる幸福。

 スタアの写真は幾らでも手に入るし、買ったらきりがないから、と思っていたのだが、一枚だけ買ってしまった。スイスの自宅で撮ったらしき一枚。本当の写真はもっと鮮明だが、雰囲気だけでも。

画像1

 

 素敵な人が花束を持つなんて、素敵に決まっているんだ。とても好きだ。モノクロの写真なのがとても良い。

 会場から出て、デパートから出て、この後の行く先が無くなって夢から覚めて、新宿の街、ビラ配り、ホームレス、アスファルトの上に点々とゴミ。寄る辺ない不安と高揚。いつもそうだ。落ち着きたいのにな、安心したいのにな。

 そう思いながら、電車の中でユリイカ森茉莉特集号を読む。家の中の森茉莉の本、また繰り返し読んでいるんだ。そうしたら、ぼんやりした頭でも、きらきらしたイメージを集めることができる気になるんだ。

 その中で、『贅沢貧乏』からの引用文があり、はっとさせられた。その一文が「金を使ってやる贅沢には空想と想像の歓びがない」

 俺は、ジバンシイの洋服が好きだが一着も持っていない。ジバンシイのメンズは、よく星のモチーフが使用されているし、モノトーンのが多くて素敵なんだ。でも、値段が数十万。買えるわけがない。オードリーや、労働や自分が好きな人の為の服。俺には縁がない、なんて、ふと、感じてしまっていた我が身を律するような一文だった。

 ずっと、手に入らないもののことを思い続けて焦がれ続けていて、ただ、そんなのばかりだと身体が駄目になってしまうんだ。俺さ、健康大好きなんだよね。

 ただ、空想の妄想の為に、元気でいた方がいい、前向きでいた方がいい。元気なふり、大丈夫だって、誰かに自分に言ってあげる方が良い。

 何か、素敵な物を買いたくなって、でも持ち合わせが寂しいというか仕事探せよ莫迦、といった状況で、でも買えるのが本、古本。

 ブックオフでセールをしていて、家に読んでない本読み返したい本がたまっているのに、また買ってしまった。数えたら9冊もあった……まあ、エッセイとか軽く読める系の本が多いが……

 夢を見る為に、誰かに会ったり、哀れみに溺れないようにしっかりしなくっちゃ。映画の物語の中だけじゃなくて、天使とか神様とか悪魔とか、ありもしないこと存在しないものについて考えなくっちゃ、感じなくっちゃ。

 少しの花々と、チョコレートと共に、さあ、ページをめくって。

感受性にあけましておめでとうって

片づけなきゃいけないこと、したいこと、しなければいけないこと、山ほどあり過ぎて手が届かないというか、いっぱいいっぱいになっていた。いつものこと。

 でも、年が明ける前に、小さなことを消化。

 再プレイしたいなーと思っていた、というか何度も再プレイしている、ゲームボーイで唯一暴力表現のアイコンが使われているソフト、「DT ローズ・オブ・ゲノム」とても好きなゲームなんだ。ゲームカタログ@wikiの説明文をコピぺすると、

 

ナノマシン「DT」により、ある物質を合成することで、人間でも戦車でもポメラニアンでも、あらゆるものを作り出すことのできる「DTマスター」同士の戦いを描く、というのがストーリー。この設定により、「死んでいる人間が合成し直されたら、その存在とは一体なんなのか」などのストーリーが展開され、世界観に深みを与えている。

 

 とのことで、ラノベ感覚の軽いノリとハードな世界観(ヒロインが速攻で死に、高校生の主人公が速攻人殺しになるよ! しかも、ヒロインが合成されて復活するんだ。「私は何人目の私なの? 私、誰?」みたいな感覚にぞくぞくするね)

 なのに、綺麗に話がまとまっていて、爽やかな終わり方なのもポイント高いかも。無限のリヴァイアス大好きだけど、ハードだけど最後はキャラが成長して前向きなのっていいよね。ハードな世界の悲惨な末路よりも、希望を感じさせる終わり方を見せてくれると、その世界で生きている人たちのこと、キャラクターの力を感じられるんだ。

 って、クーロンズゲートやシリアルエクスペリメンツレインとかシルバー事件みたいなゲームすんごく好きだけどね! ゲーム、としてというか、そういう「不便なゲーム」、俺の物になってくれないというか、世界観についてね。

 ゲームが創作者の好き勝手な産物ってのは、相性が良ければほんと、魅惑的に見える。ゲームって、多くの人がかかわっていて、「商業作品」で「売れなければ」ならないわけで、昔の景気がいい時代、丁度プレステ1の頃とか、変なゲーム多かった気がするんだ。今なら絶対発売されないだろうって感じのが。

 かといって、今のゲームが駄目とかいいたいんじゃなくて、インディーズゲームのクオリティとかそれらに出会う確率ははるかに上がっていると思うんだ。たださ、ゲーム業界全体が元気があったというか、バブルだったというか、「カセット」さす、とか、「CD」読み込ませる、みたいなのが、好きなんだ。本だって、手に取ってページめくりたいんだ。こればっかりは、そういう人間というか、染みついてるんだ、仕方がない。

 奇妙なの、手に負えないの、大好きなんだ。一生懸命、狂気を作っているんだ、それが流通しているんだって、だとしたらとてもハッピーだろ?

 

 製作者の狂気と狂熱に当てられるというか、誰かが作った世界で迷子になりたいんだよ、俺。ていうか人生迷子なくせに、迷子好きなのかな、俺。やだな

 それと、買っていて読めなくて放置していた、多田由美の連載漫画! 『レッド・ベルベット』をようやく読む。彼女のいつものテーマ。家族のすれちがい、行き違い。そして男同士の友情のような、暖かさ。彼女の漫画には愛情と友情と、残酷だったり身もふたもない現実が描かれていてすごく好きなんだ。勿論漫画としての魅力もばっちり、というか色んな構図で、良くできた映画みたいに場面を切り取るセンスは本当にすごい。マジうまいんだ漫画もね。

 なのに、彼女の漫画が読めなかったのは、単にすごいファンで単行本はほとんど持っていて、なんとなく、新久しぶりの新作はもったいなくて読めなかったというのもあるが、多分、彼女の世界で描かれる不条理は体験していたのに、愛情とか友情とかが不足しているという後ろめたさがあるからかもしれない。

 不良が、不幸が、友情があって、でもさ、俺には不幸しかないよね、なんて思っちゃうの最高にダサイよね。でもさ、そんな考えがよぎる位、俺は、特に今年は色々あったんだ。

 それが事実であっても、自分のことを悪く言うのは良くない。健康が好きな俺はそれをよく分かっている、はずなんだ。だからさ、我が身の不幸や不運に溺れるより、今、できることをしたいことを感じなければ。

 今、したいこと。していかないと、忘れてしまうから。

 一日の昼、折り紙折った。楽しい。集中力がない、注意力散漫すぎる俺は、黙々とした作業が好きだし、心が落ち着く。散歩も大好きだし、無駄なことを考えすぎるからな、俺。

 

画像1

 

 

 折紙のあやめ、薔薇のはなびら、柚子。わりと気に入っている。でも、全部ゴミみたいな、ゴミになっちゃうものだけど。でもさ、そういう簡単な輝きも好きなんだ。チープな輝き、まやかし、魔法。酔いますように、酔えますように。そう、自分に魔法をかけるんだ。

 そして、誰かとの出会いを誰かを、受け入れますように。愛が無くても、何かを愛せますように。そんな風に思うと、割と俺、色々好きだな、感じてるなって思う。過剰で過敏で、よく覚えよく忘れ、愛情深くて冷淡。こんなの面倒で嫌だな、でも俺、そういうところ、多分あるんだ沢山。

 泥ばかり見てないで、そこから咲く水連のことを思う。咲いていなくても、目に見えない物、信じて。感受性にあけましておめでとうって、みなさん、よい一年になりますように俺も。