インナーチャイルドよりも、オブセッションに愛を。

今すぐ、自由になりたい、仕事場なんかに行って、病院なんかに行って、自分から進んできちがいに何てなりたくない、とはいえ、鳥かごに逃げた鳥が戻る、或いは脱走した犬が首輪を、餌を求めて帰宅するかのように、いや、もっと、卑近な、つまり、金の問題だ。お金の為に小銭の為にきちがい俺ら。

 雪と松、という好きな漫画の中で自分に惚れている人物に対して「お前の好き(やりたいこと)を我慢するんじゃねえ」といったような趣旨の台詞を言うシーンがあって、印象に残っている。とてもいい台詞と言うか、言葉じゃないだろうか? 日々、我慢していると、好きを、口にしていないと、それが分からなくなる。でも、そしたら生きている意義なんて意味なんて見いだせなくなる。

 三十数年生きて、そろそろ摩耗しきってしまったのだと、たまにそう思う。微かな希望やら薬やら性愛やらを繋いで綱渡り、だなんて真っ平御免だ御免だ御免だなのに、俺の貧しい処世術はそれ以外のものを持ち合わせていないのだ。

 家で一人でいると、寝てしまう。買った本借りた本が山積みになっているのに、注文して届いていないものもあるのに。

 毎日、買い物をして、毎日、誰かに、他人に会いたい。等とぼんやりと思っても、俺の財力や身体的魅力でそれは難しい、けれどもそれが叶ったとして、本当にそれがしたいのか、といったらまた別問題で、ああ、そう、単に俺は見た映画や読んだ本のことを言いたいだけ。それだけ。それだけで、真白な錠剤よりもずっと人間的な営み。

 

森達也の『fake』を見る。耳が聞こえない、とかそういう「嘘」がばれて、ゴーストライター騒動で有名になったさむらなんとかさんについてのドキュメンタリー。数年前のことなのに、ああ、あったなあ、こんなこと。みたいな気分で鑑賞。

 これが、思っていたよりずっと面白かった。以前読んだ対談の中で、森達也がドキュメンタリーはただ映すだけではなく、働きかけをする。試験官の中で化学反応が起こるように、ゆさぶりをかける。作家は演出をする。アクションを起こす。仲良しこよしというよりは緊張感がある方が面白い、というようなことを語っていたと思うが、さむらさんの「被害者ぶる」態度(俺は広義での加害者、が被害者ぶるのが本当に大嫌いで殺意が湧くんだ!!!!!!!!!!)とか、言い訳じみた態度とかを映しながらも、さむらさんのまぬけっぷりや愚かさや騙されてしまった傷ついた生活、

 つまり、彼の普段の生活、性格を見せることで、ドキュメンタリーとして興味深いというか、泥船航海記を(さむらさんを傷つけ追い詰めながらも味方然として)穏やかに映す、というある意味非情でもある映画を成立させた森達也は中々悪い人だと思って、少し好感を抱いた。それに、面白かった。(やばいレベルで読みにくい文章。直さないが)

 

 岩井俊二監督『市川崑物語』を見る。市川崑関係の映画だと思って見たら、岩井俊二による市川崑ドキュメンタリーだと知って、また、岩井俊二市川崑の熱烈なファンだと知って少し驚く。

 市川崑は文芸作品実験作品から娯楽作品まで幅広く撮っている、撮ることができる多彩な人だと思うのだが、俺は主に文芸系のしか見ていなかった。それでも、このドキュメンタリー映画は面白かったし、岩井俊二による市川崑への愛情が伝わる良い映画だった。

 岩井俊二の映画は何本か見て、手放しで好きだとは言えない、何だかセンチメンタルすぎたり(でも、それが彼の映画の魅力でもあると思うのだが)、飛びぬけたセンス、とか恐ろしさ、とかを感じない、でも、嫌いではない、という自分の中での位置づけに困る監督ではあるのだが、この映画は丁寧に市川崑の生涯、映画と伴侶について語っていて、ストレートで、ややベタな愛情が良かった。かけひきなんてしない、告白。素敵だ。

 泥のような思考で、逃避のことばかり考える頭で、ジュネの『泥棒日記』をどうにかして読み終える。こんな頭でも、読み通すことができるジュネの小説はやはり偉大で、大好きだ。大好きなんだ、本当に。以下、また引用。

 

 


聖性がわたしの目標ではあるが、わたしにはそれがいかなるものであるかを
言い表すことができない。私の出発点は、
この、倫理的完全に最も近い状態を指す。聖性と言う言葉それ自身なのである。
それについては、私は、ただそれが得られなければ
私の生涯が虚しいだろうということ以外、何も知らないのである。
聖性を―美と同様―定義することができない状態のまま、
私は各瞬間ごとにそれを創造したいと思う、つまり、
わたしのあらゆる行為が私の知らないこの聖性なるもの
に向かって私を導くようにしたい、と。

 

聖性への憧れと、到着しないという不条理。大好きなユルスナールもエッセイで似たようなことを語っていたのが、二人の境遇の大きな違いを思うと興味深い。また、それなしでは生きるのが、酷く辛いのだ。

 また、サルトルが語るように「悪について、泥棒について語る」ではなく「悪が、泥棒が語る」というのは肝要な問題で、しかし、もう、今となっては作品の出来が良ければなんでもいいように思えてくる、のだけれど、やはり、その精神性を獲得するためには、相応の境遇や才能や努力や覚悟が、つまり「悪」が、生き延びる為の悪が、詩が、詩への希求が必要なのだろう。

 しばらく小説が書けないで、仕事で気持ちが悪くなる以外は、現実逃避のスマホか寝ているだけで、本当に屑なサイクルを送っていたのだが、でも、新しい小説の骨子というか、肉片を拾い集めていて、どうせいつもの俺好みの、つまり、悪とか聖なるものというのは成し得ないのだ、という、酷い目に合う、一生懸命自滅する(ように見えてしまう)少年の青年の中年の話になってきてしまって、一生こういうのしか書けないのだから、腹をくくるしかないというか、それしか興味がないのだ多分。

 愛とか裏切りとか肉欲とかわくわくするよ。もっと、高尚な事柄(おもしろい、興味深い単語だな!!!)も、まあ、好きだけれども。

 とにかく、生き延びる為に、愚かな道程。見返すと、恥ずかしくなるようなそれを書き散らし、でも、あれもこれも忘れるのだからと嘯く。

 忘れたいのに、忘れられない様々なオブセッションが、俺の一番の恋人や友人のような気がして、ぞっとする。でも、長い付き合いなんだ。インナーチャイルドよりも、オブセッションに愛を。

あんたとなら、何もかも!

 疲れてへとへとになって、家に帰るとすぐに寝てしまって、変な時間に起きたり、ぼんやりとした頭のままだらだら過ごしてしまったり。それと、食欲がやばい。一応の救いが、かなり暴飲暴食をしているのに、体重はあまり増えていない、らしいことだろうか。

 それでも、穏やかに生きたいなって思う。その為には、穏やかに生きる努力が必要だ。いつだって、努力が必要なんだ。泥水のような不幸に浸ってばかりじゃあいけないんだ。

 三菱一号館美術館 マリアノ・フォルチュニ 織りなすデザイン展

 を見に行く。全然知らない人なのだが、服飾、絵画、写真、デザイン等ができた多彩な人だったそうだ。それに三菱一号館美術館って建物がとても素敵なんだ。あの空間に行くだけでも、十分行く価値がある。

 チラシの中の写真で見ると、綺麗なドレスだなー、みたいな印象しかなかったが、マネキンが着た実際のドレスを見ると、とてもエレガントだった。

 絹のサテン地にプリーツのシンプルなデザインのドレスは、着る側にも優しいそうだが、今の時代には無い、エレガンスを感じた(100年前の作品だから能えり前なんだけれど!)。シンプルで着やすくて気品がある、というのはどこかシャネルの洋服、ドレスに通じるものがあるのかも。

 ミニマルな美しさが作り出す、気品と言う物が、そこにはあった。実際に見られて良かった。美しいドレスを生で見られる機会なんてそうそうあるもんじゃないもんね。

 

画像1

画像2

 一部写真オッケーだったので。実物はこの何倍も素晴らしい。近くで見たら、生地のなまめかしさとシンプルなラインにくらくらするよ。

画像3

 美術館内も素敵。住みたい。

 

 頭が働かなくって、読書がサボり気味。夢中になっていたポケモンマスターズというアプリ、数日であきてしまった。ソシャゲ、同じことの繰り返しなんだもんな。あーあーグラブルはよかったなー。繰り返しだって、飽きさせない要素沢山!(でもはまるから再開はしない)

 ジュネの『泥棒日記』を再読している。久しぶりにまともに小説を読んでいる気がする。ただ、ジュネの場合は小説を読むというよりかは、彼の愛情に詩に触れるという方が正しい気もするが。

 

 

 ジュネが、惚れた男、スティリターノに告白するシーン。

「あんたも知っているだろうけど、おれはいまでもあんたに惚れているんだ。そして、あんたと一緒に寝られたら、と思ってるんだよ」

 すると、彼はわたしの方へ眼を向けずに、わらいながら答えた。

「まあ、そのことは、そのうちよく考えておくことにしようや、な」

 そして、ちょっとのあいだ沈黙した後、彼は言った。

「お前さん、いつたい、何がやりたいんだい?」

「あんたとなら、何もかも!」

「まあ考えておくよ」

 彼は眉一つ動かさなかった。ほんのわずかの運動もわたしの方へ向かわせはしなかった、わたしの全存在が彼の中に没入したいと願っていたのに。

 

 

 想起する、ファスビンダーのインタビュアーに対する言葉。

 

 

 


彼がインタビュアーの「貴方の映画には繰り返し出てくるモチーフ、愛は力関係なしにはありえないのですか」という質問への回答が面白い、曰く。


「ぼくは……また……つまり、あの忌々しい話題にまた戻ってしまうんですけどね。つまり、僕らはそれがありえないような形で教育されているってことなんですよ。どうしても愛する者、より強く愛する者、その愛により執着する者、関係に執着する者は、弱い立場になってしまう。それは、愛の弱い者の方が力を行使できるということと関係している。当然ですが。感情や愛や欲求を受け入れるには度量の大きさが必要になってくるんですが、ほとんどの人間はそれを持っていない。というわけで、大抵の場合は醜い。僕は、どんな人であろうとその関係が美しいと言えるようなものを知りません」

 

 俺はファスビンダーのこの言葉に共感する。そして、ジュネの態度にも。

 

 毎日のように、大丈夫なんじゃないかとか、駄目なんじゃないかとか考える。でも、そういうことを考えなくてもいい瞬間、誰かの作品に触れている時、誰かに触れている時。でも、それらは長くは続かない。俺はいつも放り出される/放り出してしまう。

 願わくば、それが長く続きますように。誰かをたいせつに。その時は大切にできますように。

 最近タイプの人に、「熱しやすく冷めやすそうだね」と言われた。同じようなことを、何度か言われたことがある。当たっているのかもしれないが、分からない。

 俺が大好きな作家は、愛情深くて冷静で冷酷だ。読んでると、本当にわくわくくらくらするんだ。でも、俺は、好きな人には何でもあげてしまう、何でもできてしまうタイプだと勝手におもっていたのだが、まあ、そうでもないかもしれない。分からない。

 まあ、どちらにせよ、愛情深くて冷酷だなんて、対人関係においては一番辛いことになってしまうだろう。そんなの、やだよ。仲良しが良いな。でも、俺自身がそれだったとしたならば。分からない。治しようもない。

 

すききらいで生きていたい

人に会いたいなって思って、コンタクトをとったり、会ったり、だめになったり、裏切られたり。ネット、アプリでやりとりをすると、たまに(よく?)こんなやべーやついるのか! って引くことがあるんだよね。詳細は書かないが、マジかよ……案件多くないっすか?

 小さなことを一々気にしてたら生活できないよね。そう、俺、生活できてないよ! 毎日綱渡り芸人。止めたいな。ゴールに、向こう側につきたいな、足を踏み外したいな。

でも、それを選んだのは俺なんだ。中年になってまで、観客のいない芸人稼業を続けるなんてぞっとする。 でも、それが俺なんだ。俺に残されたもの、脆い体の奥の、熾火の熱情

 今日会った人とは、さっとあって、さっと楽しんで、さっと別れた。もう、会うことはないかもしれない。けど、その人との楽しい時間が、俺を正常にしてくれる気がしたんだ。正常というか、フラットに近づけてくれるというか。楽しい思い出、思い出すことできるだってこと。

 誰かとの、たまゆらの触れ合い、ふざけあい。そんなことで、まだまだなにかしらできそうな気がするよ

 たまっていた映画の消化。寺山修司の、初恋・地獄変。はるか昔に見たような見てないような……

 とはいえ、思っていたよりずっと楽しめた。すれっからしの30過ぎとしては、ちょい小っ恥ずかしい場面や演出がないこともないのだが、日本映画特有(は?)の湿っぽくて明るいエロスや不幸が青春映画って感じで楽しかった。

 鈴木清順の、ツィゴイネルワイゼン 多分、10年ぶり位に見る。 当時の感想。色々すきだが、後半飽きませんかね? というのと、全く同じ感想を抱く。冗長さもまた、清順映画の良さを構成しているような気がするのだけれど、俺みたいな集中力がない人間だと、ちょっと飽きちゃうんだよなー。もう少しコンパクトにする(バッサリかっとしちゃう)と俺好みになるのにな、俺好みにしなくてもいいですね、そうですね。

 吉田喜重『告白的女優論』を見る。見る前から退屈そうだなあ、どうせ芝居がかった台詞を聞かされるんだろうなあ、と思いながら見る。その予感は的中する(じゃあ見るなよ)

 

 三人の美人女優のオンとオフ、そして不可思議なミステリーやアクシデント。そのどれもが、悪い意味で、手垢のついた「文学的表現」とか「抒情的」とか「高級風味通俗的」(通俗的であっても恐ろしい小津やダグラス・サークとは対極にある!!!!)とか、そういう言葉がよく似合う、そんな映画。

 なのに、俺は彼の映画をそこそこ文句を言いながらも見ていて、そう、彼は「映画」或いは、いや、多分「映像」や「静止画」を撮る才能があるってことだと思うのだ。だから、「映画」を見ると、登場人物の言動にいらいらしてしまうのだが、でも、映像がいいのだ。彼には才能があるのだ。見てしまうのだ。

 同じような印象を受けるのがヴィム・ベンダースで、見ていると必ず、ひょっこり顔を出す、彼のエゴイスティックってご都合主義なナルシスズムに辟易しながらも、俺は彼の映画をそこそこ見ている。才能があるから。

 アプリとかsnsとかを利用していて、分かり切っていたことだけれど、俺ってマジで面倒な部類の人間と言うかとっつきにくいというか(というか、そういう人はそういうのを活用しないのだろうが)、文句をいいつつも「才能があるから」とか言って映画を見る人間に友達が出来るだろうか???(一応、そういうのはオブラートに包みまくってるんだけど!) うわべなら、まあ、平気かもだが、それはとても困難なことだ。

 でも、誰かの前で、俺も素直でいたいんだ。素直に、思ったことを交換したいんだ。

 二十代の頃、俺は多分孤独にひたりきっていた。人よりも本が大好きだった。だって、本って素晴らしすぎるから!!!! 三十過ぎて、誰か、に会うのって、話すのって、中々いいことだなって、やっと気づいてきたのかもしれない。

 俺の好きじゃない物や、全く興味がないことに夢中になるあの人この人。彼らに意志があるなら、大切にしていることがあるなら、やっぱりそれを知りたいと思う。

 人と会ったり、コンタクトをとったり。子供メンタルな俺はすぐに一喜一憂してしまうけれど、明日か明後日かしあさってかその先に、知らない誰かに会えたらいいな。誰かに会って、楽しいなって、好きだよっていいたいな。

硝子の身体で

メンタル上がったり下がったり。気持ちがグラグラすると、出費もかさむ。色々買ったり使ったり。でも、じっとしてはいられないんだ。じっとしてるの、怖いんだ。自分が空疎だからか、色々な物と折り合いがつかないからか。

 自分を悪く言うのって、それが事実でも、とても身体によくない行為だ。ただ、内省とか気分が落ちているとか、作品を作る、文章を、物語を、登場人物と向き合おうとすると、どうしても、ポジティブばかりではいられない。

 だけど、俺、頑張れる時間がそんなにないかもしれないし(あるかもしれないけど)、悔いの残らないようにしなきゃって。毎度毎度思う。死んだら終わり、気が違ったら、立て直すのに物凄いリカバリーが必要。そういうのに怯えつつも、そうじゃないんだって、まだなんだって、自分に言い聞かせるんだ。

 円山応挙から近代京都画壇へ 

 藝大美術館

 で行われていた展示を見に行く。円山応挙に対して大した知識がない、日本画に疎い俺。でも、展示行ってないなーってことで(本当は一つ、見に行ったけど……)見に行くことにした。

 俺に日本画の知識がないせいか、展示されているものは知らない人の名前がずらりと並ぶ。でも、とても良かった。屏風絵や襖絵のスケール感というのは、やっぱり実物を見ないと分からない、感じられないものだから。

 ただ、見たかった虎の画が昨日で入れ替えになってるんだけど……というのを見終わってから気づいたんだけど!!! マジテンション下がったよね……

 でも、勿論会場で好きな作品が幾つかあった。特によかった二つは後期展示しか見られない物だったのを後で知ったから、虎は見られなかったけど、まあ、よかったのかもしれない。

 孔雀図 岸駒

 これは、もう構図がめっちゃ良い。力強い筆致で描かれた孔雀と小さな鳥。背景の植物も強弱をつけて配されており、すごくデザインセンスに優れた人なんだなあって思った。ロートレックみたいな、大胆さがありながらも、あくまでも動植物は繊細な描写でうまいなあと思わず一人うなってしまった。

 

 猪図 森狙仙 

 不思議な画だ、と、一目見て感じた。普通猪って、力強いイメージがあるというか、そういう先入観を良い意味で壊してくれた作品。力強さや重量感はあるけれど、ふわふわな毛の表現のどこか穏やかでユーモラスな、小動物の愛くるしさにも通じる、身体を丸めた猪。面白いなーかわいいなー。この人の動物の作品をもっと見てみたいな。

 会場には他にも迫力がある作品が多数あって、とても良い展示だった。おすすめです。

 それにさ、美術館の中にいる間は、作品と向き合っている間は、きっと素直な気分になれるんだ。この人はなんでこういう表現を好んだんだろうかとか、単純にその画に魅了されたりとか、圧倒されたりとか。誰かが生きた証。頑張った証が、そこにはあるから。

 図書館でも借りているのに、無駄に本もたくさん買ってしまって、しかもメルカリもりようしてしまって、駿河屋でもアマゾンでも注文していまっていて、マジ、俺、買い物大好きだな! きちんと消化するのが大切なのにね……

 でも、そういうものらの断片が、俺の濁った感性に何かを教えてくれたりするんだ、たまに。

 あ、そういえば、100円だったからフランダースの犬の原作小説を買って電車の中で読んだ。俺は動物とかちびっこが努力しても報われず死ぬ系の話にほんと弱い。マジで涙が出まくる。

 で、そのフランダースの犬の原作小説を読んだら、もう、数ページで涙が止まらない! 電車の中で! アフロのリゾートTシャツみたいな派手な服を着た身長190近い男が! 必死で声を殺して鼻水をすすりながらフランダースの犬読む。苦行!!(周りの客が)

 大好きなロミオの青い空もそうだけど、アニメの世界名作劇場系の原作って、かなりハードな感じのが多いと思う。特に昔は子供、動物=かわいがる存在ではなく、労働力やお金 というのが露骨に表れていたりするからなー。

 原作小説、数十ページを読み終えるまで、マジで涙で前が見えなくなぅたり、我慢しても涙がぼろぼろ零れたり。ほんと、もう、こういうのに弱いんだ俺。展開なんてわかってるし、ある意味ベタな内容なのにさ、惜しみない愛情。ピュアな気持ち。素直な感情。とても大切なこと。そして、人生ではその多くが報われないこと。

 読み終えて、少しだけ冷静になると、自分がこういうのに弱いのは、つまり自己憐憫から発する孤独や報われなさに呼応しているのだと、自己嫌悪がわいてくる。主人公たちかわいそう、と言うのに加えて、「あの時の俺」も可哀相、だなんて思っているからこそ、ここまで感情移入しているんだと思う。

 報われる報われないではなく、好きな人の好きな物の為、何でもしたい何でもできる、もし、欲しいなら全部あげるよ俺の持ってるもの。

 でも、相手はそれがいらないんだ。求められていないんだ。

 そして俺は名作劇場の物語の中の、あまりにも輝かしい主人公ではなく、大好きなファスビンダーの映画『自由の代償』に近い存在だ。エゴイスティックで惨めな愛に振り回され、自らそれに飛び込み、捨てられ、ごみのように死ぬ。気持ち悪いゲイ(ファスビンダー本人が熱演!!!)。不純な大人が抱く、純粋さの欠片はいつだって粉々に踏みにじられる。よくあるはなし。つまらないはなし。

 でも、生き方を変えるなんて、もう、難しい話だ。

 生き方は変えられないけれど、なるべく多くの展示を見たり、人に会ったりはしようかなと思っている。お金がないし引きこもり体質だったんだ。でも、誰かのことを感じる、それできっと、俺は作品を書いたり、精神安定が図れたりするのかもしれない。

 作品を作る人に会いたいな、作らない人に会いたいなって。

 友愛の友情の愛情の好奇心の欠片、それなしで生きるのは、やっぱ辛いかなって。

チェット・ベイカーと愚かで哀れな

頭の中がぐじゅぐじゅしていて、たまに涙が出たり、目が潤んだり。少し、愚かなことをしたり哀れなことをしたり、その代償を支払ったり。いつもの日々。

 こんな俺も、一瞬は、数時間は、数日は数ヶ月は或いはそれよりもっと、友達や恋人がいた時間があったと思うと、なんだかほんわかふわふわした気分になってくる。不思議だ。好きな人がいる時間。

 好きな人がいる時間。好きな時間。

 俺のitunesチェット・ベイカーの曲の並びがとてもいかしていて、一曲目のmy funny valentine もいいのだが、二曲目から四曲目の並びがやばくって、

Let's get lost

I fall in love to easily

but not for me

 って並びなんだよね。だからさ、この三曲の並びがやばすぎて、最初の方の三曲ばかり聞いちゃうよ。

「二人で消えちまおうぜ」「俺は簡単に恋に落ちる愚か者」「輝かしいことがあっても、それは俺にじゃない」ってチェットが口にするんだ。甘い声で甘いマスクで。最高だ。最高にロマンチックで、さ。それは俺がチェットベイカーではないからかもしれない。物語の、作り物の世界の住人が酔うにはどうしているのだろう? いや、俺は俺の心配をしなくっちゃな。

 少し、気を許した人に遊び人だと思われるようなことがたまにあって、遊び人、遊んでる、その定義なんて人それぞれし、俺はすぐに「おれよりすごい(良くも悪くも)人がいるから、まあ自分は「ふつう」じゃないのかな」、なんて考えてしまうのだけれど、ふと、じぶんが色々な初めての体験なのに、「慣れてる」と相手に言われたり思われたりしたことを思い出す。

 うわべだけの適応なら得意なんだ多分。うわべだけの適応しかできないから、毎日涙が出るんだ。チェットベイカーの曲を聞いて、本当に心が安らぐんだ。

 芸術が何よりの救い。だなんて、本当だとしてもぞっとする話ではないだろうか? 俺、自分がそんな人間だったらぞっとするな。つまりさ、人間関係を作れてない、或いは世界に帰属できていないってことだもん。ぞっとする。でも、ひとりぼっちでも、本とか音楽とかは優しい。千円で買った中古のチェット、いつまでもいつまででも、甘い声で歌ってくれる。ひどいはなし。

 スーザン・ソンタグの『写真論』を再読して、全部が全部ではないけれど、彼女の描くダイアン・アーバス像は彼女のことをうまくとらえていると思うし、好きだ。誰かについて批評家として評論家として、或いは雄弁に語る時の、あの語り口がどうもむず痒いものがあって、つまり他人を他人が語ることに関する困難さについてどう思うのか? という問いと共に、そういう傲岸さをもってしか小世界に君臨できないのではないか、言い切ることによって、社会参加できてしまえるのではないか、というもやもやが生まれるんだ。

 困難さ、傲慢さから逃げようとする、我がままで臆病な俺。でも、誰かに会うためにはそういうのを気にしない覚悟が必要なのかな。

 

好きな、引用部分

 

スーザン・ソンタグ『写真論』

41「通りでだれかを見かけるとします。その際眼につくのは本質的には欠点なのです」とアーバスは書いている。
42 アーバスの写真の説得力はその引き裂くような被写体と、落ち着いた、ありのままを注視する態度との間の対比からきている。
47 アーバスは自己の内面を探求して彼女自身の苦痛を語る詩人ではなく、大胆に世界に乗り出して痛ましい映像を「収集する」写真家であった。そしてただ感じたというより調査した苦痛については、およそはきっりとした説明などないものだ。

 

 

 好きな人の、好きな言葉。恋人や友達がいなくても、短い時間しかそれらを得られなくっても、好きなことを考えていないと、毎日泣くだけの日々。チェットベイカーと、愚かな哀れな行為。そういう人生も悪くはないかもしれないけれど、俺は友達とか恋人とか、そういうの大事だと思うんだ。だから今日も愚かで哀れ。

美術引用のメモ

プロビデンスプロヴィデンス(英: Providence)

キリスト教における「すべては神の配慮によって起こっている」という概念。日本語では「摂理」(せつり)、
「神の意思」と訳され、用法等によっては「天帝」とも訳される。摂理 (神学)の項で詳述。

モチーフで読む美術史 宮下規久朗 持物(じもつ

マルコは福音書記者 マルコの福音書を書く ライオン 
マタイは天使 ルカは牛 ヨハネは鷲 
マルコを守護聖人にしたヴェネツィアはライオンの像 羽の生えたライオンはヴェネツィアの象徴に
ライオンは中国に伝わると唐獅子となる 

蛇はキリスト教が広まる前は良い意味 男性器や雨の象徴 ギリシャのアテナやローマの知恵の神ミネルヴァの持物
蛇は賢い動物 医術の神アスクレピオスや伝令神メルクリウスの持つカドゥケウスという杖にからみついている。

ギリシア神話 向日葵はアポロに恋い焦がれて死んでしまった水の精クリュティエが変身したもの

薔薇 愛と美の神ヴィーナスの聖花にして聖母マリアの花
棘はヴィーナスの場合は愛の試練を表し、聖母の場合は受難を表す。
白薔薇は聖母の純潔、赤薔薇は殉教の血を表す

西洋では虹は平和の象徴 大洪水の時に助けられたノアに対し、神が人類との契約のあかしとして虹をかけると言ったから
最後の審判の時のキリストの玉座にもなる。
フランドルの画家ロヒール・ファン・デル・ウェイデン の作品キリストの下に天秤を持つ天使ミカエル左右に聖母と洗礼者ヨハネ
キリストからみて右に百合左に剣のタトゥー 1446-1452 

グイド・レーニ 聖セバスティアヌス 1615-16 三島の好きな画

スペインの宮廷画家 ベラスケス ラニメニーナス 1656 贋作師の 鏡と少女

砂時計を持った骸骨 死を表す 大きな鎌を持って眠る老人 時の翁 時間の擬人像 

ヴァニタスは虚栄と訳されることもあるが、この世のものは全て空しく朽ちていくという教訓
中世以来のメメントモリ(死を思え という主題と同類
砂時計 書物 骸骨 宝飾類 コイン ひっくり返った杯 消えた蝋燭 花 楽器 シャボン
世界の珍しい物輸入していた オランダ絵画に日本の着物や陶磁器出てくる  
日本刀 高価な工芸品であり殺傷道具だからオランダ絵画でヴァニタスの仲間として絵画に出てくる

窓は絵画のメタファー さらに窓はイコン(聖像)のこと そもそもキリスト教美術の始まりはキリストの顔を描いたイコンだった
8世紀の聖像論争や16世紀の宗教改革で製造は偶像だと攻撃するイコノクラスム(聖像破壊運動)がおこる
カトリック教会は聖像は神そのものではなく、神を見る窓であるという理論を確立した
つまり、神の像を拝しても、対象はその像に対してではなく、像を通して見る神に対してであるという理屈

梯子、ヤコブのはしご 天国へのはしご

英語でありのままの裸はネイキッド 理想化された裸体や裸体芸術をヌード

西洋では神への愛(アガペー)や弱者への慈愛(カリタス)は称賛されたが男女の性愛(エロス アモール)は否定的

慈善行為の主題はとくにカトリック改革後の16世紀後半から17世紀にかけて流行
その背景には、自由意志論争と呼ばれる神学上の問題があった。人間の救済は、自由意志に基づく善行が作用するというカトリック
に対し、プロテスタントは救済は神の恩寵にのみによって成就しており、功徳や善行などは関係ないとする予定説を主張
そのためカトリック側は積極的に善行を推奨して美術でも残る→よきサマリア人 聖書のたとえ話
トゥールの聖マルティヌス 冬に裸でこごえる乞食にじぶんのマントを半分切り裂いて渡すと 
夢の中でキリストがマントをきてやってくる
聖人が施しをした貧者が実はキリストであったというのは最後の審判の時のキリストの言葉
「はっきり言っておく。わたしの兄弟であるこの最も小さい者の一人にしたのは、私にしてくれたことなのである」(マタイ二十五章)
に基づく

2巻

白鳥は死ぬ間際に美しい歌を歌うと言われている。白鳥の歌(スワン・ソング)とは辞世の歌、絶筆や遺作のような意味であり、
白鳥は詩人や作曲家の象徴になった

オウム キリスト教では聖母マリアに受胎を伝えた祝福の言葉の象徴となり、聖母の純潔や無原罪の象徴。さらに忍耐や雄弁
の擬人像の持物 非常に高価だったから富の象徴 19世紀フランスオウムと戯れる女性が主題、ドラクロワ クールベ マネらが描く

サクランボ 実が甘美だったから天国の果実 実が赤いから血を暗示し キリストの受難や死を表すように

日本では元来中国の影響によって梅花の愛玩が普及しており、『万葉集』では桜よりも梅を詠んだ歌の方がはるかに多い。
平安時代に国風文化の発展と共に桜を主題とすることが増え、花と言えば桜を指すようになった

天使たちが音楽によって神を賛美する「奏楽の天使」という主題があって中世からルネサンスにかけて流行する

カラヴァッジョが描いたのは、エジプトの逃避途上に休む聖家族のもとに来てヴァイオリンを弾く天使
ヨセフは天使に楽譜を掲げ、聖母マリアと幼児キリストは演奏を聞きながら眠っているようだ
カラヴァッジオ 逃避途上の休息 1596

西洋の代表的な美徳 信仰 希望 慈愛 という三つの対神徳と 剛毅 賢明 節制 正義という四つの枢要徳がある
剛毅は甲冑を身に着けた人物として表現された
カラヴァッジオの勝ち誇るアムールは「愛は全てに打ち勝つ」というテーマ 微笑む愛の神の足元には武力を示す甲冑
戦争は死と直結するためヴァニタスのモチーフのひとつ

国之楯 亡くなった兵士の顔に国旗がかぶせられており、その上に同じ部隊の兵士たちによる寄せ書きが見える
展覧に供するために陸軍省から依頼されて描かれたもの 国の為に命を落とした無名の兵士への追悼と鎮魂がこめられた作
小早川秋聲 国之楯 1944

大鎌サイズ 小鎌シッケル 農耕神ケレスないし夏の擬人像はシッケル
鎌は命を刈り取るということから死や時間の擬人像の持物 ギリシア神話のクロノスそれと同一視されたローマの農耕神の
サトゥルヌスの持物 サトゥルヌスは時の翁とも呼ばれる時間の擬人像

賽子 西洋ではキリストが磔刑にされたとき兵士がその衣をかけて賽子をふったことから、賽子はキリストの受難の象徴をひとつとなる

  

アグルーカの行方 北極の生活について

荻田 レゾリュート湾から北極軸まで約600キロの凍った海の上を一人で37日かけて踏破する
寒い所の高カロリー食事ペミカン 
三月氷点下22度まで上がる 暖かいと汗をかく 極地では汗は深いなだけでなく身体の冷えや凍傷の原因になる
テントの中での乾かし物が面倒になるしゴアテックス上着やズボンの内側が結露で真白になる 
顔を覆うフェースガード
三月に異常な高温 橇のバックルにつけていた寒暖計が九度を指す。普段よりも二十度近く気温が高くなる 氷が割れないか心配
乱氷帯にて
日中の気温が氷点下30度くらいまで下がると足先は完全に冷えてしまい、歩いていても身体が温まっても感覚はほとんど戻らなかった
足の凍傷をふせぐためテントの中では血行をよくする軟膏を塗りこんで末端の神経を拡張するための錠剤も飲む。
極地の旅では7.80キロの重さの橇を引きながら一日平均20キロの距離を歩くのが普通 訓練は重い荷物を背負って歩くボッカ
週末に四十キロくらいの荷物を担いで奥多摩南アルプスの山を登ったり 皇居周辺でビニール袋で防水した50リットルのザック
に水を満タンに入れて十五キロから二十キロほど歩いたりした。荒川河川敷でタイヤ引き 橇引きの練習  

お金儲け出来たら 暴力なくなってもいいのかよ 

 

さらに取材を進めると、ミナミでアビスグループと対立していた半グレ集団
「O7(アウトセブン)」の元幹部に話を聞くことができた。このグループも準暴力団の指定を受けたため
、12月になって解散届を提出している。

Q.なぜ、半グレは暴力団に属さずに活動する?
「ヤクザをやっぱりやりたくはないですよね。
今のご時世しんどいからちゃいます?暴対法厳しいし。逆に暴対法なかったらみんなヤクザやってると思うしね。
お金儲けできないからでしょ、すぐ懲役いくし。
そういうご時世でヤクザやりたくないって思う人間が多いんじゃないですか、今の不良でも」(半グレ集団「O7」元幹部)

では、暴力団との接点についてはどうなのだろうか?

「(暴力団との)付き合いはみんなあると思う。
盛り代(みかじめ料)とか払ってませんって言っているけど、大半払っていると思う。
切っても切れないっていうのが今の現状なので、暴力団も生き残っているわけだし、付き合いはあるのはあります」
(半グレ集団「O7」元幹部)

アビスとO7(アウトセブン)という2つの大きなグループが解散届を出したことでミナミの街は変わるか?と聞いてみると…

「“いたちごっこ”ちゃいます?古いのが消えていって新しいのが出てくる。
ヤクザやりたくなくて、でも不良したいってミナミ出てきて、それがたまたま半グレになって。
僕らがフィールドアウト(退場)したところで、
『あ、消えた!次は俺らの時代や』っていってまた新しい子が出てくると思うので、当分なくならないと思う、そういう人たちって」
(半グレ集団「O7」元幹部)

摘発を受けてもなお、場所や名前を変えて密かに活動を続ける「半グレ」。警察との“いたちごっこ”がしばらく続きそうだ。

 

サルトル 水入らず 333p 一指導者の幼年時代についてのあとがきの解説。

サルトルはこの作品の中で、無限の可能性を持って生まれた人間が、ある宿命を自ら仮構することで
(したがって、大部分の可能性を流産させることで)、いわゆる大人になる、その過程を描いている。主人公は、「自己にとっての自己」
(対自)ではなく「他人に見られるままの自己」(即自)を選ぶことで、支配階級の人間となる。ある意味では、これはファシズム
心理の分析だといえる。彼はそうした指導者の傲然たる姿勢の中に自己欺瞞を発見している。


アウトサイダーアート入門 椹木のい


251 伝統的な手仕事による造形を放棄して、単一の規格からなる形態をシステマチックに反復することで、絵画の表面性
とも彫刻の集塊性とも異なる、物体をめぐる第三の可能性―ミニマルアートの巨匠、ドナルド・ジャッドが呼ぶところの
「特殊な物体(スペシフィック・オブジェクト)」を探求するものであった。

 芸術家との対話 矢内原伊作 187P


「哲学とは愛知です。物事の根本的な真理を知ろうと努めることです。ところが今日では哲学は一つの狭い分野になっていて、
そこでは自分で哲学するよりも過去の哲学について議論することが重んぜられています。人は私にそういう狭い意味での哲学を
求めていますが、それは私にはまったく興味がありません。私にとって必要なのは、デカルトパスカルについて知ることではなく、
デカルトパスカルのように生き考えることなのです。哲学について学ぶことではなく、人生そのものを学ぶことなのです。この時、
哲学論文を書くことも芸術論を書くことも私にとっては全く同じことです。そしてそのいずれも、究極においては詩になるように
思われます。なぜなら深い心理は詩としてしかいいあらわせないからです。それはちょうど、あなたが粘土をこねて一つの
彫像をつくる、それと全く同じ仕事ではないでしょうか。哲学者も詩人も、粘土の代わりに言葉を用いて真理を刻むのです」

 

215p

「おお、君は美しい」と彼は嘆声を発する。「とらえるには美しすぎる、それは私の力を超えている」と。美しいのは私の顔ではない、
彼が見ているものである。モデルは誰でもよかった。すべてのものが彼には、「とらえるには美しすぎる」ものとして
見えていたのである。


千葉成夫 ミニマル・アート

119P

ミニマル・アートという運動は存在しなかった。存在したのは、まず、ミニマル・アートという言葉であり、それをめぐって
書かれたいくつかの批評文である。しかしそれとても、ミニマル・アートという名で呼ぶことのできる作品なり潮流をとらえようと
して後から追いかけて書かれたものであることもあり、運動を組織するためのものでもなかったし、適切な時点で潮流をすくいあげた
というものとも少しちがっていた。むしろ、はじめから、様式というよりはひとつの造形精神のありかたを指して使われていた、
といったほうがよい。

184P ソル・ルウィット モジュール床構造体 1966 彩色された木で作られた
ソル・ルウィットの場合は、物体なり平面から遠心的にひろがりが展開するのではなくて、ある空間にグリッドの構造体が置かれる
ことによってそこに求心的なひろがりが生まれる。内側に向かって凝縮しようとするふつうの彫刻をおもいうかべてみればわかる
ように、求心性は普通は空間を凝縮させる。つまりある量塊の物体に彫刻としての強度を与えうるものである。しかしここではそう
はなっていない。その理由の中空という構造にあることはいうまでもない(中略)
ルウィットの関心が空間を彫刻のように凝縮させることにはないところに、もとめられる。ルウィットのグリッドは、空間を
いったん求心方向によびこみ、ついでにまた遠心方向にひろげる、そういう作用をもたらす。この両方向の同時的な動きが
生んでいるひろがりは、平面的ということはもちろんできないが、さりとて彫刻的でもない。このグリッドは、たとえていうと
2.5次元くらいのところにある。

原田隆之 サイコパスの真実
114 115

目的の為には手段を選ばない傾向 マキャベリズム
ルネサンス期のイタリア人思想家 ニッコロ・マキャベリの名前に由来 
君主論』どんな非道な行為であっても国家の利益を増進させるならばそれは許容されると説いた

犯罪学ではレッテル貼りを戒めている アメリカの犯罪学者ベッカーは「ラベリング理論」を提唱した。彼は、
子供の非行を必要以上に厳しく罰し、周囲が「非行少年」「逸脱者」というラベルを貼ってしまうと
さらにその逸脱を助長してしまうことの弊害を強調している

189

治療効果のエビデンスとして、一番信頼がおける情報源は、メタアナリシスという統計的手法を用いて書かれた論文である。
その手法としては、ある治療法の効果についてこれまで書かれている論文を、データベースなどから徹底的に検索する。
次に、見つかった論文の質を吟味してふるいにかけたうえで、質の良い論文だけを残す。
そして、それらのデータを統計的に統合して、あたかも一つの大きな研究のようにまとめる。

196

焦点を当てるべきは、行動のコントロール力の向上、暴力や犯罪の合理化(言い訳)の修正、犯罪のスイッチを押すような
引き金を避けるなど再犯防止スキルの獲得である。
別の言い方をすれば、治療において「あなたが悪いのだから変わらなければならない」というメッセージではなく、
「これまでの行動を続けていれば、あなたの損になるから、別の行動を取ったほうがよい」
というメッセージを伝えることで、治療のモチベーションを高めるということである。

フェイクの時代に隠されていること 斎藤環 福山哲郎

30
精神医学でいう「ハームリダクション」 猛毒をさけるために弱い毒を使う
依存症で言うと、ヘロイン中毒の患者に中毒性の弱いメサドンという合成鎮痛薬を与える。
ヘロインほどじゃないけどそこそこ聞くので我慢しやすくなって、それを機に依存から脱することが出来る
弱い毒で強い毒を置き換える

103 福田赳夫 が言ったといわれている「正しいことを言うときは気をつけなさい。正しさは常に人を傷つけるから」
という言葉があります。これは、古き良き保守の発言だと思っています

サンテグジュペリ 人と思想 稲垣直樹

63

1993文芸フィガロのインタビュー
「飛行機に乗ることと文芸作品を書くこととでは、あなたにとって、どちらがより重要なのですか?」
「わたしにとって、飛ぶことと書くことはまったくひとつなのです。肝心なのは行動すること、そして自分のいる位置を
自分の中で明らかにすることです。飛行機乗りと作家はわたしの意識の中で同じ比重をもって混然一体になっています」

76

 自分が身をもって体験したこと、直接人から聞いたこと以外はサン=テグジュペリは書かない。
自己の体験とそれを元にした省察がテキストを構成する。これがサンテグジュペリ文学の本質的姿勢である。

船木りょう メルロポンティ入門

57 歴史ってその時代その時代の支配的な階級のひとたちが、自分の正当性を主張するために改竄していくような、
過去について記述したもののことでしょう
 
 と私にこたえた学生がいた。
 歴史は、統治者が代わるたびに書きなおされてきた。支配的な国の歴史が、そうでない国の歴史をその部分として
位置づけてきた。現代における重要度や、外交関係と内政問題の比重が、歴史の全体を変形したりもしている。

ゾルゲのツイ
(予言・雷峰の再来)中国の文化大革命期に雷峰という人物が登場する。
一応実在しているのだが、限りなく理想化された偶像に等しい。
おそらくこれからポリティカル・コレクトネスの文脈で雷峰のような存在が登場する。
若くして死んだ、理想的で規範的な、そして都合の良いロールモデルである。

51 人の為に祈ること 超健康体になる オキシトシン

ギリシャ神話に登場するオルフェウスは竪琴を演奏し、それによって病気を治療したといわれています。
古代ギリシャの哲学者のアリストテレスは、音楽のカタルシス効果を論じていますが、
これは現代の音楽療法にも生かされている理論です。

誰も教えてくれない聖書の読み方 訳山形浩生

神様に忠実であることは厳しい規則に従うことだった。 食べちゃいけない 生け贄に捧げなきゃいけない
エスは刃向かう 神様の戒律は機械的に儀式的に従っていれば尊守できるような魂のない契約じゃない と説いた
あれは倫理的な行動を義務づけるものなんだと

神様は寄付や従うことではなく よい行いやよい態度 ポイント 天国で永遠の命というごほうびもらえるよ

循環論法
全ての議論や論理は「AだからB」であるに言い換えることが出来る。例えば、以下の様な事例は循環論法となる。

「AだからBである」→「なぜAなのか」→「それはCだからである」→「なぜCなのか」→「それはBだからである」

すなわち、証明すべき結論をそのまま前提として用いてはいけないということである。
これでは命題自体の絶対的な説明が行われておらず、何も証明できていないのと同じである。

シリーズ哲学のエッセンス メルロ=ポンティ 哲学者は詩人でありうるか 熊野純彦

8 小林秀雄「誤解を恐れずに言うなら、それは、哲学者は詩人たり得るか、という問題であった」

 小林のレトリックを引いておくならば、日々のふるまいにあって私たちは、
「物は見ない、物の名前を呼ぶ」だけなのです

 すぐれた詩人や哲学者は、知とことばの帳を引き裂いて、世界との接触を回復し、その経験を、
ふたたび言葉によって語りだそうとします。

19
 答えのない問いの繰り返しを詩人も哲学者もする。詩人はたまに、それに言葉を与えて、哲学者は問いの前で立ち止まる(俺の感想

 世界と、世界をめぐる経験のすべてが、そこに結晶しているような一語を語り出すために、いくえにも錯綜したことばのすじみちを、
あらためて辿りなおさなければならない。そのとき哲学的思考が抱え込むことになる困難は、日常の風景を反転させて、
世界の相貌を一変させる一行の詩句を探しあぐねる詩人の困惑と、その質において、ほとんどひとしいものとなる。

25 メルロポンティの『知覚の現象学』の序文

「 バルザックの、プルーストの作品、ヴァレリーの、あるいはセザンヌの作品がそうであるように、現象学とは不断の辛苦である
―おなじ種類の注意と驚異、意識に対する、おなじ要求、世界あるいは歴史の意味を、それが生まれでる状態において
とらえようとする、そのおなじ意志によって。現象学はこの点で、現代の思考の努力と一致するのである。」

 世界に意味が生まれる、その状態をとらえようとすることで、哲学者は、詩人たちの努力と合流することになるだろう。
すでにできあがった意味に、ではなく、意味が分泌される現場に立ち会うことはすぐれて詩人の仕事である。
哲学的思考は、世界をみつめなおそうとするその不断の努力において、詩人の辛苦をも引き受けることになる。

54 

 私の身体、私がそれを生き、それを経験している身体をメルロ=ポンティは、「現象的な身体」と呼ぶ。
とりあえずは、私にとってあらわれるがままの身体ということである。そうした現象的身体には、ただのもの、
たんなる物体とは際立ったちがいがある。「もの」と身体との差異を見定め、物体と身体とのことなりを際立たせるさいに、
メルロ=ポンティがとりわけ注目する論点が、いわゆる「幻影肢」をめぐる問題

 戦場での負傷や、交通事故、存在しないはずの手足の末端に痛みやかゆみを感じることがあると言われている。

 身体は単なるものではなく、また純粋な意識でもない。

光琳アート 蓮池 小泉淳 2010 16面の襖絵 東大寺にある 金の泥と鮮やかな白と桃色の蓮がとても美しい

反知性主義ファシズム 佐藤優 斎藤環

27 ギルバート・ケイス・チェスタートン 英国作家 聖公会からカトリックに改宗する
「人を正気たらしめてきたのは、何あろう神秘主義である」

186 佐藤優 私はドストエフスキーの世界観を買ってないない キリスト教とはほとんど関係ないと思っている
    というのは、あれだけキリスト教について過剰に語るということは、信じていないからです
    私は、ドストエフスキーっていうのは、基本的に革命家だと思うんです。
 
 神話なき世界の芸術家 バーネット・ニューマンの探究 多木浩二

47 彼が言語による思考の役割に、科学とは異なる(つまり詩的な)機能を認めていた例としては、詩人としては
もちろん、美術批評家としてもボードレールを高く評価していたニューマンが、1968年1月にパリで開かれた
ボードレールのシンポジウムに招かれ、美術批評について語った『情熱的な批評』という講演をあげておくのがよかろう。
その時彼は「私が美術批評家に求めているのは科学的な論文または芸術作品をつくることではなく、彼がそれ<批評>
を書く度に、自分自身を創造することである」と述べている。「自分自身を創造すること」つまり詩的な言語の働きである。

89 あえて形式主義的にいうと、モンドリアンの自己言及性はヴォリュームに基盤をおく建築空間の経験と整合する
空間としての絵画の純粋化であったが、ニューマンのフィールド絵画はこの整合性を拒否していた。ここでいう
ヴォリュームとの整合性の意味は、モンドリアンの一時的な仲間であったデ・ステイルの芸術家たちの空間化された仕事
を思い浮かべれば理解できるであろう。モンドリアンがニューマンを苛立たせたのは、次元の差異には意識的であっても、
結局はこの異次元間になりたつ整合的関係を求めていた以上、抽象絵画といえども伝統的な建築空間に属する
表層的な空間であることを免れないからであった。

 ニューマンのあたらしさは、絵画であり、かつ表層空間ではないことにある。あとになってもう一度、われわれはこのパラドックス
に正面から取り組まねばならないだろう。簡単に予告しておくと、彼の研究の独自性と困難さは、従来の絵画のありかたでは人間の
自然な知覚と想定されてきた慣習とは異質な、あたらしい知覚的経験の次元を発明しおうとしたことにある。

 109 ニューマンの言葉
「空間の自由、人間的スケールの感情、場所の神聖さは、うごいているものである―サイズではない(私はサイズを克服したい)、
色でもない(私は色を創造したい)、領域でもない(私は空間を宣言したい)、絶対でもない(私はすべてのリスクを感じ、
知りたいのだ)。眼が見えず言葉もないフェティッシュや装飾は、<自己>の恐怖を見つめることのできない人々に
しか印象を与えない。テリーブルでコンスタント(常に一定していること)な自己こそ、
私にとっては絵画と彫刻の主題である」

124
 第一回の展覧会で書いた文章
「これらの絵画は<抽象ではないし、<純粋な>理念を描いたものでもない。それぞれの絵画がそれ自体として感情の
、固有な分離された実体」であった。彼はしばしば「感情」という言葉を使うが、それはスピノザに由来しているのかもしれない。
彼は(すでに引用したように)「絵画は感情と同様に、生きた声である」と述べているのだから、感情とは絵画がそれ自身として
獲得した「強度」をさしているのである。それはストライプに見えるZIPのあるなしにかかわらず、画面をより明確な
絵画的な強度を持つフィールドとして組織することが目的であった

 

宗教と生命 佐藤優 池上彰


30 新井紀子
『AIvs教科書が読めない子供たち』

 


シンギュラリティのもともとの意味は非凡、奇妙、特異性などですが、AI用語では正確には
technological singularity という用語が使われ、『技術特異点』と訳されます。
それは、『真の意味でのAI』が、自律的に、つまり人間の力をまったく借りずに、
自分自身よりも能力の高い『真の意味でのAI』を作り出すことができるようになった地点のことを言います。
1未満の数字はいくら掛け算しても1より大きくなることはありません。
それどころか、無限に繰り返すと限りなくゼロに近づいていきます。けれども、
1・1でも1・01でも、1・001でも、
1を少しでも超える数は、掛け算を続けていくと無限に大きくなっていきます。
『真の意味でのAI』が自分よりも少しでも能力の高い『真の意味でのAI』を作り出せるようになれば、
それをものすごいスピードで繰り返し続けることで、無限の能力を持った『真の意味でのAI』が生まれるのではないか」

 


池上 「シンギュラリティが来る」と言って政府からお金を集めたことで、
今、齋藤さんは小菅の拘置所にいます。シンギュラリティが来る、
だからそこにお金を注ぎ込むべきだという話に、私はなんとなく胡散臭いものを感じてしまいます。
そのような夢を語るとお金が集まる、
国からお金を引き出すためのキーワードとして「シンギュラリティ」が使われているのではないか、
という構造に見えてしまうのです。
その点、新井さんは「シンギュラリティは来ない」などと発言したらお金は集まらないのに
それでもきちんと言っています。

 

計算が速くなったり多くなったりしているけど、今までできなかった全てのことが計算できるというのは見当違い

『ロボットは東大に入れるか』というプロジェクトをしているが、優秀過ぎるAIが、
東大生が解けるのに解けない数学の問題がいくつもある。その理由は、分かっていない。

結局、コンピュータには意味がわからない、というのが決定的な弱点だといえるだろう。

言葉に関して、つまり言語に関してのシンボルグラウンディングは全く理論上も突破できる
見込みがまだ立っていない。

シンギュラリティが来るかもしれない、というのは現状では『土星に生命がいるかもしれない』
とあまり変わらない。できるできないの証明は難しい。一方で、土星土星人がいるかもしれない、
ということを前提に国家の政策について検討するのはいかがなものか。


「おおよそ合理的には論破されている言説がなぜまかり通っているのか、考えて欲しいのです。
おそらくここに、AIと宗教の接点があります」佐藤


佐藤「人間の限られた知性によって表象される神は人間の偶像で、
神ではないからです。その意味で、われわれは神を証明できないのです」

池上「仏教的にいうと、えにし、あるいは縁起ですね」

佐藤「ええ、哲学者のレヴィナスの言葉で言うと「外部」になります」


佐藤「悔い改めよ。神の国は近づいた」の代わりに、「悔い改めよ、シンギュラリティは近づいた」と言う。
それで今までの律法はすべて廃され、今までの仕事はすべて廃される。
そうして新しい時代がやってくるのだということで、基本的には洗礼者ヨハネやイエスと同じフレームで人を煽っています。

 と佐藤は語り、宗教の構造を分析すると、それによって新しいビジネスが生まれる、ということですね、
と池上が冷静に発言の意図をくみ、佐藤はそれに同意をする。

安藤泰至の話も面白かった。

 

 

 

 生命操作をめぐってキリスト教でよく使われる「神を演じる」(playing God)という言葉があります。
普通は「神を演じてはいけない」という意味合いで使われます。
世界初の体外受精児が生まれた時、それに反対する人たちは
「人間は神を演じてしまっている。恐ろしいことだ」といった言い方をしました。

 ところが、アメリカのプロテスタントの中には、この言葉を逆の意味で、

すなわち「人間は神を演じるべきだ」という意味で使う人もいます。
人間は遺伝子操作をしてもいいから、もっと優れた存在になり、神に近づくべきだと言っているのです。
(中略)また、神学者のテッド・ピーターズは、人間は神によって創られた被造物であるとともに、
神と一緒に創造している共同創造主なのだと言いました。(略)

 これはルター的なプロテスタントの、有限なものをどんどん高めていったら

無限に近づいていくという発想で、「人間は神の似姿(イマーゴ)に作られた
」という聖書の言葉をこういう方向に解釈する人もいるのです。

 

 

 

 

 また、前の対談の内容に戻るが、佐藤はプロテスタントについてこう言っている。

 

 

「神の領域に手をつけてはいけない」というのはカトリックの論理です。なぜなら、創造は神の秩序だからです。
だから堕胎も、遺伝子組み換えもいけないことになります。一方プロテスタントは創造の秩序を認めません。
従わなくてはならないのは神の言葉だけですから、何をやってもいいのです。原爆や遺伝子兵器についても、
聖書にこれらの兵器を作ってはいけないとは書いてありません。その意味で、プロテスタンティズムにおいては、
条件は一般の日本社会と同じです。

 そのためプロテスタンティズムは、ストレートに神さまを持ち出すことを嫌がります。
ぎりぎりまで人間の知恵で考え、最後の地点で階の元へ飛び越えるのだ、と言います。

 そして、佐藤はヒトラーがルターを尊敬していたのだ、という話題に触れ、
キリスト教の持つ性悪説というプログラム、自分が良いことをしようと思っても、
それは悪事を行っているかもしれないという意識が、極端なひどい考えを廃するのではないかと述べている。

大竹昭子 彼らが写真を手にした切実さを <日本写真の五十年>

66 それに撮られた写真は特別なテクニックを必要としない、シャッターを押せばだれでも撮れるスナップ写真
であり、その意味で「作品」としての価値は高いとは言えない。
 しかし考えてみればこれこそが中平が繰り返し唱えてきた写真のありようである。『決闘写真論』の中で
彼は、写真とは自己を表現する手段ではなく、世界を丸ごと受け入れる受動的な行為であるとし、写真家が自意識を
超えてアノニマスな存在になったとき、写真は写真たる力を発揮すると語った。つまり観客を求めずに撮影行為を
持続し続けることに、写真の唯一の意味を認めたのである。

 288 複雑な技術を必要とする撮影ではないものの、写真装置そのものになりきっていることが見る者を打ちのめす。
写真集を一冊出すくらいはこの撮り方でできるかもしれないが、次の本も、そのつぎもこれでいくのは非常に困難である。
それはなぜか。「写真装置」になるうちに、「私」が「私」であることの意味が失われて、不安が忍び寄るからである。
 「撮影行為によって自らの自意識を超えて行くのが写真である」と中平は説いたが、それを実現するのに必要な自意識
が、写真装置になりきることを邪魔するのだ。自意識と表現意識は同じ穴のむじなであるから、表現意識を持たないことを
意識する、というのは容易なことではない。この二律背反を乗りこえたところに、私は中平の凄みを感じるのである。
 構図のとり方も鋭くなっており、技術的にも躍進が感じられる。『プロヴォーク』の最終号のタイトルは
『まずたしからしさの世界をすてろ』だったが、「たしからしさ」を放棄した果てに、彼は新たな「たしかさ」を
つかみとった。いまの中平の写真は、一目見れば彼の写真だとわかる特質をそなえている。
表現意識を超えているゆえに、その写真は強いのである

沢渡朔 ナディア

「最初軽井沢で貴方は私しにこう言いました『ナディアは私のニンフェット、私しのヴィーナス私しのナルシス、
私しのダフネ私しの女……』今貴方のビヂネスとなった?」

「貴方のハートの中に入りたかったけれども貴方の悲しいフィーリングの写真に入っただけかも知れない。
貴方は人形およくとった。私しはその写真はとてもすばらしいと思う

 人形は気持ちがないでしょ貴方は自分の気持ちで人形をとる。多分私しはもただ貴方の人形だった。
『森の人形館』ベルメルの人形よりも少しダイナミックな人形でしょ!!」

「貴方はかびんからまだフレッシュな時に捨てたでしょ枯れてから捨てればよかったとおもわない?」


A アルトー『神の裁きと訣別するため』

121 彼は線や形ではなく、大変動のまっただなかにあるような不活性の自然の諸事情を描いていた。

ホンマタカシ たのしい写真 

スーザン・ソンタグ『写真論』

41「通りでだれかを見かけるとします。その際眼につくのは本質的には欠点なのです」とアーバスは書いている。
42 アーバスの写真の説得力はその引き裂くような被写体と、落ち着いた、ありのままを注視する態度との間の対比からきている。
47 アーバスは自己の内面を探求して彼女自身の苦痛を語る詩人ではなく、大胆に世界に乗り出して痛ましい映像を
「収集する」写真家であった。そしてただ感じたというより調査した苦痛については、およそはきっりとした説明などないものだ。

さけびとささやき、また見たいな

 体調を良くしたい。良くするためには毎日が楽しくすればいいというか、日々が穏やか安らか、とかそういう思考に至らない自分にげんなり。

 でも、それでも少しずつ浮上してる。沈みまくってたんだから浮上するだけ、失敗したらサヨウナラだ。サヨナラはまだ、したくないんだ。

 それなりに本は読んでいた。軽いのだけだけど。山口小夜子のエッセイがとても良かった。俺の好きな人は大抵どの人も、自分にとても厳しく、そしてチャーミングだ。

 自分に批判的すぎたり自罰的過ぎるのは、健康に良くない。でも、自らを見つめるということは、内省の時間を持つということは、そういうことなんだと思う。自分を自分でしっかり見ていなくっちゃ。そのうえで、何かを好きでいなくっちゃ。何かを好きでいられる人は、きっとチャーミング。

 長沢節のエッセイもたくさん読んだ。この人の偏見混じりと自分の偏愛している俳優にはべたべたに甘く、そうでないものにはあまりにも辛辣な映画エッセイがとても面白かった。こういうおしゃべり、楽しいものだ。好きな人が動いているなんて最高! みたいな映画エッセイは楽しい。森茉莉と通じる部分があるかもしれない。傲慢そうに見えるけれども(実際そうかもしれないが)、大人のそれと言うよりも稚気からのそれで憎めない人。

 少しだけ、小説も書けている。小説を書いているということは、頭の中を整理しているということだ。何かを好きでいられているということだ。好きの対象に向けて思考できているということだ。

 俺の綱渡り人生。ふと、足を踏み外して終わりにしたくなるけれど、悪くないんだって、そう思えますように。

 ロマサガに続き、ソシャゲをインストールしてはアンインストールを何度も繰り返している。はまっちゃうから!! マジスマホ依存ダメ人間。でもさ、何かしら好きでないと、依存してないと、つまんない。

 パズルゲームが好きなのだが、よくあるスライドしてみっつ以上絵柄をそろえて……系のをインストールしてそこそこ楽しんで、でも難しくなったりはまりすぎて消す、というのを繰り返していた。

 キキララのパズル

 猫のニャッホ(ゴッホの猫バージョン)

スヌーピー

ツムツムランド(これはスライドパズルではないが)

すみっこぐらし

そういう系のかわいいパズルはどれもこれも、システムが内容ほとんど同じだから笑える! って、スマホパズルが似てるのは当たり前なのですが、アンインストールしては新しいのをインストールしてプレイしては既視感! という現象ばかりなのが我ながら間抜けで面白い。

 ちなみに今はカラーピース? とかいうかわいい女の子とヤサグレ探偵のスライドパズルやってる。面白いよ! やってる内容一緒だけど!!!!

 頭を使いたくなかったから、薬を飲んで寝るかスマホの色々なアプリに依存しようとしていた。俺はとても惚れっぽいから、何かを好きになるのはわりと簡単だが、それを持続させたり、誰かと共有したりするのは難しい。

 でも、無駄なからうちを続けてないと、動くことすら駄目になってしまうから

 ツイッターやインスタとかでやることを、日々の通常閲覧数一桁のブログで。

 でも、そんなのを何年も続けてきたんだ。多分俺は喋るのが(書くのが)好きだし、何でもいいから、続けていることはいいことだと思うんだ。

 好きなこと沢山口にしてないと忘れてしまうから。

 他にも読んだ本、見たもの沢山あるんだ。ひとりごとでもいいけれど、誰かと話したくなる。残念なことに、俺と共通の趣味を持つ人を見つけるのはとても困難で、色々と諦めながらも、でも、好きな人のこと、喋りたくなるんだ。俺が好きな表現者の人達の作品は、冷淡(冷静)で愛情深い。とっても罪深いことだ。辛いよね、冷淡で愛情深いなんて。

 俺も、そういうとこあるんだ多分。最悪だね。

 でも、まあ、冷淡な所は自分では本当は見つめることができないとして、だったらせめて、愛情深く、まきちらす。