君をおいてく

用事を済ませたならば、新しい用事を探そう、隙間を見つけると肋が泣いてしまう、用事で無くたって、労働でないのなら構わない、新しい、新しい何か、何か、何か。

 ペルソナ4を買った、やった、オモロー、の最中、前作のペルソナ3フェスにはまったから期待していたんだけれど、前作よりもさらにオモロー、だと思う。金子画は好きだけど、「ギャルソン」副島画も好き、それに「仲魔」は従来通り金子画だしね、使いまわしにしても(敵キャラも色違いの使いまわし適当画なのはどうかと思うけど)。ハウス風J‐POPとスタイリッシュなインターフェースもいい。そして何より、俺はちまちま大冒険が大好きなんだ。クリアまで五十時間以上かかるらしい、当分はPS2とお友達だ。

 物語が終わらなければいい、そう、多くの人は感じたことがあるはずだ。でも、勝手に物語りは終わる、物語は消費者のものではない、作者の物ですらない。

 俺はゲームを毎日している、いわゆる「ゲーム脳」だけど(げーむのうがいかに馬鹿げているかは週刊文春とか朝日とかSPA!とか、オッサン雑誌系の媒体でこそやるべきでしたよね?)、ゲームをクリアして、エンディングの画面、スタッフロールが流れたりすると、部屋の掃除とかを始める。彼らは俺をブラウン管の前においていくのだ。

 軽薄だと思われても一向に構わないが、俺が製作者だったとして、こういった態度は好ましい物だと感じる。楽しんでもらえたら嬉しい(もし、本当に気になったら、名前をチェックすればいい、それでも直ぐに忘れてしまう、スタッフロールを見ることは礼儀ではなく、観客が自分の物語の延長を望んでいるだけではないか)

 けれど、のめりこんでいくと、そのゲームだか物語は、もはや自分の為の物語になる。様々な熱心な要望は、遊園地で保護者にごねる幼児に似ている。

 小さい頃の俺は、いつも置いていかれる立場だった。置いていかれることは、とても恐ろしいことだ、僕はそんな、酷いことはしない、と思っていた。しかし、俺も中学の終り頃になると、誰かを置いていく立場になるのだった。その時に、俺は初めて、置いていくことは悪いことでもないのだと知った。いつまでもそのままでいたいことは無い、と思った。「置いていく」ことは優しさではないけれど、礼儀作法の一つではないか。

 そんな俺は、しがみ付く人、置いてかない世界の人々に、複雑な感情を持って接する。俺だって、置いていくのが趣味って訳では無いのだ。でも、それが、その人が、俺を置いていってくれないと思うと、恐ろしい。ここにいていいよなんて言われたら、ぞっとする(こんな俺はネットゲームが出来ない、したことがない。やったならば、ぞっと出来るだろうか?)。

 俺はペルソナ4をクリアしたら売るだろう、やりたくなったら買うだろう(実際買って、また売って、と繰り返したソフトがある、幻水のⅡとかバウンティーソードとかブレスとか)。置いていくこと、置いてかれることは、刺激的な、感傷的な、大切なことなのだ。