グッドグッドバイ

 中原昌也の『KKKベストセラー』を読んでいたら、ふと、数週間前に友人の個展に行ったことを思い出した。

 友人の個展は銀座で行われた。銀座の画廊は数日で数十万を要求する、おまけに作品が売れたら値段の半額を要求する(ギャラリーによって差はあるだろうが)。銀座でやる意義とは、有力な人の目に留まるにはそこがいいから、だそうだ。でも、オシャレカフェで作品展示をしている人よりも、銀座でやっている人達の気合と作品は、やはり違うと思う。

 俺が憎むのはこういうシステムの方だ、が、あまりにもそれについて考えがないのでは?と、部外者ながら感じることがあるのだ。

 俺はギャラリストとかいう連中、とか、美術業界に寄生して好きでもないのに自己保身の為に好きだと言い合う連中に吐き気がしている。そういった場所に少ししか顔を出したことがない俺でも、何度も遭遇した。

 賞の審査もしている教授と一緒にギャラリーを回った時の、彼らの卑屈っぷり、俺にまでぺこぺこしてカタログやお茶出しても意味ねーよバーカ。俺が市民ギャラリーでバイトをした時に、出品者がスーツを着た俺のことを勘違いしてオドオドペコペコ、その後バイトだと分かるとガン無視、そいつは初対面の女に「作品を作るのは辛い」とか言ってた、じゃあ作んな。何か喋る度に賞をとった○○さんが、これは△△さんが褒めた作家の、とか、本当に、本当にそれしか言えない、白痴っぷりもいいかげんにしろ。学校の教授に、学祭の展示の仕事をきちんとして下さいと言っても「僕知らないもん」って金貰ってんだろ、サボンなよ、幾らてめえらが首にならないからって、仕事をしていないことを自慢するなんて、恥かしくないのか?大学はセンチメンタルインポテンツエロジジイといしはらしんたろう系自信だけの馬鹿によって出来ています、他人に寄生することに必死になって、意見の無い、でも自分は特別だと信じ込もうとしているキモイ同級生、が、あいつらを支える、愛されたい人間、は沢山、この流れはこれからも続くんだ、はははは吐き気がする。

 といったようなことを、文学界に置き換えると、だいたい『KKKベストセラー』の内容になる。この本は百一ページしかなく、おまけにページあたりの文字数も少ない。島田雅彦朝日新聞による中傷(文中に引用されている以外の本文は未読だが、要約はネット上で読んだ)が原因で、こんな短い話になったようだが(この本の出版は朝日)、元々中原の小説に思いいれが無い人間としては、短くても十分だった。中原も文中で、というか色々な所で書きたくないと言っている。じゃあ書くなよ、とも思うが、中原の方が、前述のモロ媚び、初対面の女に苦悩を打ち明け「あーてぃすと」よりもずっと心に響く。

 芸術が金儲けでも権威付けでも虚栄でもいい、でも、最低限のモラルってものを持て、自己愛に「芸術」とかいう名前を乗せて無理矢理正当化するな。あの中にいると酷く酷くそんなことを感じる。中原も似たようなことを言っていたのだ、彼のこと、そんなに嫌いでも好きでもないけど。でも、自分の仕事は(「芸術」に関わる、或いは金銭が発生する仕事のほとんどは)酷く下品「でも」あることを自覚していない人は、なんなのだろう、と思う。俺や中原、みたいな人がおかしいのか?ちっともおかしくないのに、ふと気が緩むと、そう感じてしまう。俺が嫌いじゃない人だって、そういった認識をしている人はとても少ない。俺はそんな嫌いじゃない人にも、吐き気がする、ということになる。

 この小説中で、中原らしき「僕」が、三十代半ばで二十万になるのは辛い、とか書いてあったが、このままいくと、俺は確実にそれを下回る。あと十年あるけど、どうするんだろう俺?砂漠のダンス。