テレッテッテー

 ペルソナ4をクリアした、一週間で五十時間近くやった、楽しかった。終わってから色々な人のレヴューを見た、同感、だと感じた。俺の意見のようなもの、はネット上にある。ふと、ゲームは大変だなあと感じたことがある。

 ゲームは言ってみれば遊び場を提供するようなものだと思う。つまり、遊ばなければ、それ相応の、魅力を感じない感想が出てきて、遊びまくった人だって、遊べば何らかの「こうしたらもっと面白くなるはず」という改善点を思いついたりするのだ。しかし、市場に流通したゲームとは、会社が作るものなのだ。

 ペルソナ4がこんなに早いスパンで発売されたのは、ペルソナ3が当たったから、だしちゃえ、ってなことだと思う。前作からの、色違いの敵キャラやペルソナの使い回し、一年間プレイするはずなのに、三か月分の強制ジャンプ、等に目をつむるか、つむらないか。前作の、フェスの後出しじゃんけんのような発売はどうか。

 ストーリーに関しても、どうせ突っ込みどころがあるものならば、前作のように「無理矢理傷を持った」友人達を出すよりも、「イイヤツ」で固めた近作の方が望ましいように思われた。

 けれど思う、それを作ったのは勿論会社、製作者でもあるけれど、その中には消費者も含まれるのではないだろうか。

 会社は趣味でやっているのではない。企画を当てなければ、リメイク続編地獄のゲーム業界だって、次回作さえ作れなくなる。ゲームに限らず色々な場所で「新しい物」が求められていないのは、数字の上で出ているのだ。色んな物が売れているのならば、どんどん新しい企画が出てくるだろう。好きなものに対して、なんか、似たような物ばっかりで最近退屈、と感じる時、それは自分(消費する側)のことを棚に上げ、プチ評論家きどりで文句を連ねるだけの時かもしれない。

 かといって、その人々の言葉が無駄になるとは、俺には思えない。真摯な物も、書き捨ての感想も、溢れていていいじゃないかと思う。俺が望むのは、それを感じた後で、自分には何が出来るか、ということだ。出来ることならば、開発に携わる人達には、自分の好きなことをやってほしい、と思う。それぞれの事情を慮るならば、力ない台詞しか出てこないけれど、傲慢だと知りつつも思うのだ。

 消費者は自分にもその一因があるのだと自覚するべきだと思う。僕は悪くない、ではないのだ。「あの作品は、あの場所はひどいね」という言葉のどこかに(一部の例外を除いて)、自分もその一端を担っているのだ、という内省を持つべきではないだろうか。好きなものを好きだと言いたいのならば、沈黙の内にだって、相応の戒めを、自らに課すべきではないだろうか。口にするのが馬鹿な言葉、生み出すのが馬鹿な作品でも結構、でも、好きだと言うのならば、後で必ず傷ついて欲しい。