ちょっとまってて

バイト先で来月のシフト表を見て驚いた。俺の所にもリストラの波が?ってなスカスカシフト。バイトの掛け持ちをしようか(というかしないとマイナスだ)、とか一瞬考えてしまう。

 ピチカート・ファイヴの歌詞で「お金がないなら なきゃないでいいけど 不景気そうな顔はしないで」ってのがあるが、俺はそれにすごく共感する。金が無いのには慣れている。それに心が引きずられてしまうのが問題なのだ。まあ、俺の場合「限度」ってのを越えているけど。

 それを考えると、「文学」っていうのはまことにコストパフォーマンスの良いものだとつくづく思う。人のを読むにしろ自分で書くにしろ、ほとんど金がかからない。日本で義務教育を受けた人ならば、誰にだって文学への扉は開かれているといってもいいのではないだろうか。仕事を干されたならば、面倒くさい長編、それも陰気な奴を読めばいいのだ。

 でも金がないので、せっかくDSでエルミナージュが出たけれど、買うのはだいぶ先になりそうだ。そういえば結局PSPも買ってないし。携帯機でWIZ(ととモノでもいい)やりたいのに。

 ふと思うのは、俺はキャラクターメイキングをしている時間がとても好きで、どういうキャラで冒険に出よう、と考えていられるならば、当のゲームをプレイしなくてもそこそこ楽しめるという点だ。実際の俺は画面の中にあるような「冒険」に出ることは一生ない。もし、そういった環境に自分がいたとして、俺は「冒険」に憧れるだろうか?手が届かないからこそ、「準備」という空想で充足しているのでは。

 もしも金があったならば、彫刻や映画を作りたい、暇な時にふと、思うことがある。別にそれを不純でも不真面目でもないと思っているが、自分から切り離されているものだと考えているのは事実だ。幾つもの選択は出来ないのを俺は知っている。怠け者の俺にはコストパフォーマンスの良い「文学」が一番の友人だと知って(信じて)いる。

 文章を書くことは思考を手繰り寄せ、一定の秩序を与えることだ。俺にとってそれは興味深い事柄ではあるが、冒険ではない。わくわくだけに身を任せていたらまともな文章なんて書けない(こんな「日記」ですらそうなのだ)。ほぼ確実に、どの作品にも「改善点」や「夾雑物」があるものだ(無いと感じる時には作品に興味が無いか、同一化してしまっているだろう)。それを感じるということがその人の「美意識」ではないか。傲岸な美意識に従わなければ秩序は堕する。

 MMOやTRPGをやっている人をネット上などで目にすると、それ自体はとても面白いものだと思うのだが、自分がその中にいることがどうしても考えられない。そこに参加している自分が「冒険者」ではないという当たり前の現実を突きつけられてしまうのが怖い。わくわくの中では無防備でいたい。でも俺はそんな風にはなれない。

 自分の人生が難易度の高いRPGだと、馬鹿みたいな空想をすることがたまにある。しかしその妄想は長く続かない。俺はゲームと断絶されていると感じる(文学とかとはそんな馬鹿なことを考えない)。俺はゲームを愛するなんてことは出来ない(というか、誰がそんなことを出来る?)。けれど、もう少し信じてみるべきなのかもしれない。わくわくが裏切られたとしても、余っている時間をどうにかしなければいけないのだ。