浮草

保坂和志のデビュー作、若者達のふらふら生活を書いた『プレーンソング』を選考する際に、当時の選考委員の一人である江藤淳が怒ったらしい。曰く「こいつらはなにもしないで、ただちゃらんぽらんな生活をおくっているじゃないか」

 夏目漱石の研究をしてる人間が何を言ってるんだ、と言う感じだが、江藤淳は「高等遊民」は良くても「ニート」は認めないのだろう(もう亡くなってますが)。

 昔は遊学という言葉が私語ではなかっただろうし、外国(西欧)や学問に対しても漠然とした信頼が世間にあったはずなのだ。それがあったうちは、まだ世間の目今よりも緩かったように思うが、今はとりあえずニートやフリーターのバッシングや、擁護が声高に叫ばれる。図らずも当事者の一人になってしまった俺にとっては、なんともメンドクサイ時代だな、と感じることもしばしば。

 保坂和志が『「三十歳までなんか生きるな」と思っていた』という題のエッセイ集を出したのだが、その中で保坂はプー太郎が大好きだ、と発言している。就職するよりも浮草生活を選んでいる彼らに敬意さえ表している保坂は、あくまで「プー太郎」ではなく、個人の人間に愛着を抱いているのだが、その彼らには「プー太郎」として共通するものを持っているというのだ。それは保坂の小説の登場人物の特徴でもある。

 そして、保坂はきちんと就職して、なんだかんだで安全な生活を送っている自分が「プー太郎」や自分の言葉でだけ喋ろうとして、難解な言葉でしか喋れない「理論生物学者」に対して「せこいなあ」と感じ、それを嬉しいと感じるのだという。

 これを読んで思い出したのは、高橋源一郎が無責任に、老後のご隠居が動物に餌付けをするように新人等を褒める、あの何ともいえない嫌な感じだった。それは福田和也に「早すぎる自己模倣に陥った恥知らず」言われた姿でもある、が、その福田だって、あの「薄い」本の乱発という「恥知らず」じゃないか、というような問題は俺には収拾できないので、おいて置く、というか、こんなのは「解決できない」類の問題なのだ。学校の先生にパンクになれよって言うのと同じだ。彼らは仕事をしている。

 ニート達を「ひきこもりの偉人」になぞらえ、無責任に持ち上げる学者に斉藤環が憤慨したことがある。斉藤は医師として、どうやって彼らの尊厳が損なわれないか、社会と連帯できるのかを真面目に模索する。

 それらに比べると、保坂の感覚は隔たっている。今フリーターやニートといった単語を出す面倒くささを彼は負おうとしない。保坂にとっては、あくまで「自由な人」としてのフリーター、プー太郎なのだ。だから安全圏にいるといってもいい保坂の言葉に俺が「はいはい餌やり楽しいね」と思ったりはしない。

 俺はそこまで深刻でも楽観的でもない、と思う。けれどこれからを考えていい気分になったりはしない。俺は社会的に問題になるモデルでも、保坂の小説の登場人物でもないのだ。数で言えば、俺みたいな層が一番多いと思うのだが、どうだろう、というよりも、俺、どうだろう。

 以前は「三十までいきるな」と本気ではなく漠然と思ったことがある。社会性のない多くの若者がそう思ったことがあるのではないだろうか。三十過ぎると直面することになる現実的な問題、無職の自分がもはや市場の外側にいるのだと思いしらされること。何より、「今までそれなりに頑張ってきたし、もーそろそろいーかな?」

 今の俺は三十までいきるな、とかは考えない。死にたい時に死ねばいいと思う。多分死なないでずるずる生きるだろう、とか思っているのだが、それでいいのだと思う。ゆるくてせこい「まあいいや/まあいいか」のダブルスタンダードで生きるしかないのだ。会社員でも無職でも、自由な人にはなれる。気の持ちようだ。自分自身にレッテルを貼らなければ、生きていけるし、恐ろしい自由を味わうことも出来るだろう。チャンスがありますよ、一番多い層のみなさん。