ノイズを合わせて

 久しぶりに「俺って個性的」「趣味が偏っている」という人のお話を聞きまして、当然のごとくそれはそれはちっとも個性的とか偏っているわけではなくて、まあ、俺も切れ気味高校生とかじゃないので余計なことは言わなかったんですけれど、ふと、個性的な趣味ってなんだろう、とか思って、例えば漫画読みだったら、

「普段は漫画なんて読まないけど、新條まゆ氏賀Y太と、あー田亀源五郎とかハチクロの人とかのも好きだよ」みたいな!みたいな!みたいな人は確実にいないと思います。いたら友達になりたくな、いや、なりたいです、いないけど。

 てか、ハチクロってね、俺みたいな!みたいな!みたいな、とかいう文章を書く若者にとってはちょっときついんすよね、とか思いつつ、以前、一応、全部読んだんすね。俺、日に日に体力が落ちてるというか根気がないというか、つまんないと思ったらすぐに投げ出すようになってしまったんだけれど、それでも全部読んだってのは結構楽しんでたんじゃーん!みたいな。

 少年少女漫画を読んで気分が悪くなる時に、登場人物が「主人公」と「悪者」しか登場しない時がある。その中でも本当に小学生向け、とかいったものだったら文句をつけるのがお門違いなのだけれど、一応いい年の人間が主人公で、現代の日本を舞台にしているにもかかわらず、「私可哀相」主人公とオサレ仲間、引き立て役の無能無理解な人々、なんてものはゲロっす。

 ハチクロもそれと似たようなものかな、と思ったら、違った。どっかに解決策がある、暖かい他者がいる点、強引でご都合主義的な展開にはちょっと引きつつも、そういうのにゲロゲロな俺が最後まで読み進められた。

 それは羽海野チカが、多くの登場人物に向けて溢れる愛を注いでいるからだと思う。その愛は過剰ではあるが、登場人物に血肉を与えているものだ。彼女の漫画の登場人物は自己陶酔の為に「馬鹿な他人」を利用しようとはしない。空回り気味のギャグや逡巡で世界と手を繋ごうとするのだ。俺は彼女の新連載の『三月のライオン』を一巻だけ読んだ。二巻も既に出ているが、未だ俺は読まなくてもいいと思った。

 「話し合えば分かる」、なんて楽観主義を通過した後で、「無理な人には話しても無理だ」と思う人と、「でも話さないと分からない」と思う人がいるだろう。羽海野チカの世界の登場人物は、何だかんだで「話したらどうにかなる」世界にいると思うんだけれど、彼らの懸命さや打算のなさ(のように見える)は俺のやさぐれた心をも打つのだ。俺は直ぐに無理とか、駄目だとか感じるような所があるが、羽海野の漫画には「チューニング」を合わせてみよう、と人に思わせるものがある。安野モヨコの旦那が、彼女の漫画には僕のと違って、読んだものを現実の世界で元気にする素晴らしい力がある、といったような文意を語っていたが、羽海野チカにもその力がある。肋骨の浮いた俺には彼女の力はまぶしいものではあるが、細々と付き合っていけたら、と思う。