名前を呼んで

ユルスナールの『流れる水のように』を再読しながら、今の日本には彼女のように品のある文章を書く人がめっきりいなくなったことを思う。

 俺が高校生の時には、三島由紀夫堀辰雄芹沢光治良を無批判に、眩い文章として接していた。現代でも節制のある文章を書く人はいるだろう(といってすぐに思い浮かんだのは、金井美恵子古井由吉といった年長者ではあるが)。しかし今、品のある文章、美文と言ってもいいような文はかなり「はやら」ない。

 隠語や卑俗な言葉の投げつけ、肥大した自意識の放流、逃走の果ての機知、といったものが「進歩的」とか、そういうことになっているように思うし、実際こんな言葉が(一面において)似合う作家のうちには、評価が定まっていることは当然としても、俺が素直に「すごい」と思っている人はいる。

 ユルスナールの作品の多くは中世、戦時中を舞台にしている。他にも散文詩や怪奇譚などもある。俺はユルスナールの文章を気品があるものだと感じる。それは、現代では生き残れない、生き残りにくい代物なのだろうか?彼女の文章は美しいがゆえに滑稽さも秘めている。それはヴェルレーヌの詩が俺を苛立たせる類のものに似ている。『姉アンナ…』の一節、病気の母の為にアンナの弟が馬を駆る場面を引こう。
 
 「外気と速度が不眠の夜の痕跡を拭い去った。風にさからって走っていた。退却しながら依然として抵抗をやめない敵との格闘がもたらす陶酔のようだった。突風が、長いマントのひだのように、彼の危惧を後ろに吹き飛ばした。若さと力の跳躍に持ち去られて、前夜の錯乱と戦慄はもはやかき消えていた。ドンナ・ヴァンレンーナの胸の発作も一時的な症状に過ぎないのかもしれなかった。今晩帰る頃には、母も静朗な美しい顔を取り戻しているのかもしれなかった」

 後少しで何か、感傷やら感情移入やらに堕する所で、ユルスナールは踏みとどまる。神が死んだ後で、町田康は滑稽さを愛する。そして、ユルスナールは高踏派の詩人のように、仕事を全うする事務員のように、滑稽さを恐れない。

 結局この母親は死ぬ。弟も死ぬ。物語の末尾には姉アンナも死ぬ。弟と姉とは近親相姦の間柄にある。しかしそれには気品を感じるのだ。気品の為に(といっても差し支えはないと思う)近親相姦を扱う(そして成功している)作家は稀有ではないのか。

 同時収録されている『無名の男』の末尾も美しいので引用する。文章が美しいのだ。話の筋などは些細な問題だ(というよりも最初に主人公の男の死が伝えられる)。

「空が薔薇色に染まる刻は過ぎていた。仰向けになり、空の高いところで大きな雲が生まれ、かつ消えるのを眺めていた。そして急にまたしても咳が彼を捉えた。詰まった胸を軽くした所で、何の益もないと思い、咳をしないよう努力した。肋骨のなかが痛かった。少しはその痛みを減らそうとして、上半身を僅かに持ち上げた。よく知っている熱い液体が口を満たした。力なく吐いた。そして泡立つ細い糸を引きながら、砂を隠している草の葉の間に消えるのを見た。少し息が詰まった。しかしいつもより酷い訳では無かった。草の枕に頭をのせ、まるで眠ろうとするかのように楽な姿勢をとった」

 最初にあげた日本の作家には品があるだろう。しかし俺は彼らの中に、対峙する強さを見つけることは出来ない。それはウジェーヌ・アジェの写真のような、世界との対話、「私」ではなく、「私」の中の要素としての対話を可能としている。

 訴求対象に向けて一定の効果を上げるであろう、類型化された漫画やゲームの登場人物のように、彼女達は潔癖で、賢い。(都合よくといってもいい)キャラクターではなく人間が(卑俗なものであっても)神話に参加をするのだ。神が死んでも神のような人は存在する。品のある人間も存在する。時代が気品を苦しめようとも、彼との接触の機会が困難になるだけで、彼らが死んだわけではない、と俺は信じる。だから、本を読もうという気分になる。