滑稽遊戯と作法

大澤真幸が編著の、アキハバラ殺傷事件について記した『アキハバラ発<00年代>への問い』を読んだ。二十人以上の人間が短いコラムやら対談やらを寄稿していて、その中には結構有名な名前、斉藤環森達也永井均雨宮処凛平野啓一郎、らがあるのだが、個人的にはその中で読んで面白いと思ったのは東浩紀湯浅誠だけだった。

 湯浅誠NPO法人「自立生活サポートセンター・もやい」に所属している(事務局長)のだが、彼のところに秋葉原の事件があった六月に、こんなメールが届いたらしい。内容を完結に並べてみると、

「派遣会社が給与を支払わない」
「生活ができない」
「仕事を探そうにも日々の生活のために日雇いを選ばざるをえない」
「日雇いは仕事が不定期だし賃金も低い」
「働きたいが思うように働けなくて鬱状態
「金がなくてライフラインがとまる」
「どうしたらいいのでしょうか?」

 湯浅氏によればこういったメールは珍しいものではなく、多くの人達に共通しているのは「ホームレスか自殺か」といった選択肢しか思い浮かばないことだという。俺もそうだ。この先に折れてしまったならば、ホームレスか自殺か、貧困な発想だ。

 湯浅氏は自分の短い文章をこう締めくくっている。

「このような事件を二度と起こしてはならない、と人々は言う。その通りだ。しかし、本当に第二、第三の被害者が出ないような施策が真剣に検討されているかと言えば、そのとき人々はただちに別の理屈を持ち出して、それを回避する。いわく、「企業のグローバル化は止めようがなく、低賃金・不安定雇用が触れるのは仕方ない」「財政が逼迫している以上、社会保障費抑制は仕方ない」。でも「夢を捨てちゃいけない」…。
 結局現実はほとんど改変されることなく、あるべき姿と現実の狭間に放り出された者たちは、今回の事件以前も以後も同じ条件付き選択を迫られる。「自分から一方的に屈服するか、あるいは溜め込んだフラストレーションを爆発させるか。ただし、どんなことがあっても他人に向けるんじゃないぞ。命は大切な物だから」と。第二、第三の事件、第二、第三の罪なき被害者を準備しているのは誰なのか。いつまでもそんな都合のいいごまかしは通用しないし、させてはいけない」

 東の発言はインタヴュー形式だが、それがとても良心的な発言で、どこを引用しようか、と迷った。以下発言の一部分を引用するが、できたら一部ではなく全文に当たって欲しいと思う。

「僕は若い学生に合うことが多いのですが、彼らにとっては、もはや批評イコール社会学になっています。そうすると、対象を意味づけることに慎重にならざるをえない。社会学は分析するけれど意味づけしない学問だ、と友人の社会学者が強調するのを聞いたことがあります。これは倫理であると同時に、やはり決定的な限界でもある。そのような限界を抱えた社会学的方法が評論のスタンダードになってしまった時代では、何か事件が起きたとしても、事件そのものの解釈を棚上げし、事件についての言説をめぐつメタ言説分析がもっとも優位に見えるになります」

 印刷媒体や論壇の麻痺、溢れる一見おさまりの良いメタ言説への警告、東が「この時代」の「知識人」達の態度に関して考え、実践しているのを俺はとても良心的だと感じたのだ。自身で「大きな物語がなくなったという僕の主張と矛盾するかもしれないが」と断った後で「小文字の知識人でよい」「アキバということもあり、僕がやるべきだろう」「プライベートにパブリックな使命感を感じたという感じ(原文ママ)」「ポストモダンの時代には公的な知識人なるものは存在できないと思っている。もし僕が今回、公的な知識人として振舞ったとすると、逆に、いまの社会で発言すべきことは他にも沢山あるのに、なぜ秋葉原事件についてばかり熱心に語るのだと言われて反論できない。だから僕は、プライベートにパブリックに振舞うことにしたのだ、という入り組んだ答えを返します」

 引用してもごちゃごちゃしてしまってうまくまとめられないので、時間がある人は是非「立ち読み」して欲しい。だが、東と湯浅氏の真摯な態度の幾らかはこの断片でも伝わるのではないかと思う。

 そして、ふと感じた、湯浅氏に心配されるような若者の一人である「俺」が、現代の論壇やらに(なるべく無視しているつもりでも)危機感やらを抱いているという、この滑稽さ。
 
 とか書くことが出来るのは、俺は労働問題や社会学に関与が薄く、あくまで趣味の読書の一つとしての付き合い、という自己認識があるからなのだ。

 二年位前まで、俺は社会学者等に強い不信感を抱いていた。無理矢理名前をつけるなんて野暮の極みだと、一面の真実がどの程度の物だと軽蔑していた。それでも良識ある社会学者の本を読むと、彼らの真摯さに打たれることができるのだ。

 繰り返すが社会学は野暮だ。馬鹿なことを言っているだろうか?まあ、見当違いにしても、俺は楽しい本、詩的な読み物が好きなのだから、仕方がない、けれど、彼らは知的遊戯としてのゲーム以上の意志を伝えてくれたのはまぎれもない事実だ(言い方に御幣があるだろうが、頭の良い《と俺が思い込んでいる》人の本を読むのはなんだって楽しい)、何よりも、彼らは俺達が加害者の一人でもある事実を忘れていない、俺にもそれを思い起こさせてくれる。

 でも、加害者にもできることがある。彼らはそれを提案する。知性か真摯さがあれば、規模はどうであれ力になれると俺は信じる。そして何より、折れない為の(それは俺にとって社会学ではないので)詩的なものや楽しみを手に出来ますようにと幼児的な祈りを、次の日達に。