連載日記

少し、調子がよく、たまっていた、しなければならないことをこなす気になった。

 待ち時間の間に、あるニュースについて考えていた。


 浅野忠信とCHARAの二人は、高校時代の俺にとって理想の夫婦だった。今となっては理想の夫婦なんて言葉が何だか現実めいていない、空の上の話のような気もする、のだけれど、二人が離婚したと言うニュースは、少しショックだった。ただ、ニュースを見て、彼らが憎しみあっているのではない、ということは(そう信じているというのもあるが)、ほっとした。


 結婚なんて自分には大分遠い話ではある。そもそも今回の転職でそこそこ時給(月給じゃねーのかよ)のいい所に勤めるはずが、高校時代に初めてしたコンビニのバイトと同額なのだ。ちょっと自分でもびっくりした。どうすんの、君?色んな予定が、また予定になった。


 そんな俺が高校時代に一番はまっていたのはピチカート・ファイヴだった。丁度彼らが解散した辺りから一気にのめり込み、アルバムだけで三十枚以上所有していた(海外でも発売していたので)。ピチカートの何がいいって(略)要は音楽もそうだけれど、詞が素晴らしいことだ。小西康陽のあの少し覚めたハッピーな歌詞、曲。彼が古い洋画、黄金の七人シリーズとかゴダールとかトリュフォーとかアントニオーニとかフェリーニとかを好んだのも確実に反映されている、というか、小西が名前を出した映画はかたっぱしから見た。幸福な時間だった。


 ピチカートが解散した時に、当時(今もだけど)大好きだったsmartで小さな特集をしていた。モノクロページの対談形式の中で、誰かが「ピチカートのよさってハッピー・サッド(という曲がある)だよね」と発言をしていて、俺も強く共感した。田島が歌う名曲、夜をぶっとばせの歌詞も最初から「君を愛しているのに 訳もなく 気分はどこかブルー」と始まるのだ。ハウス(という幸福の為のミュージック)にアプローチしたアルバムの題名は「Happy end of the world」だし、ボーナストラックで小西は「ピチカートで二番目に人気の小西です!(その頃のピチカートのメンバーは二人)」とか言ってるし。


 今も文春で連載している(はずの)考えるヒットがかなり前に文庫になった時に、近田春夫がお金大好きあきもとさんと対談をしていて、近田がモーニング娘。のサマーナイトタウンのサビが「大嫌い 大嫌い 大嫌い 大好き」ではなく「大嫌い 大嫌い 大嫌い 大嫌い」の方がいい、というと、金儲けの天才あきもとさんが「でも最後に大好きがくるから皆安心するんですよ」と口にしていた。どちらの言うことも分かる、けれど、俺は近田の発言の方が好きだ。気になる存在に(キャバクラディスコサウンドにのせて)「大嫌い 大嫌い 大嫌い 大嫌い」って言う女の子の方が好きだ(近田はこの連載でピチカートというか小西にやや辛らつに当たっているけど)。


 ハッピー・サッドのサビで、野宮真貴は美しい低体温な声で「いつだって ハッピ・サッド!」と元気よく応える。俺も、いつだってハッピー・サッド。だから、これからの計画、というものが何だか、未だに奇妙なこととして降りかかっているのだ。こうやって生きて呼吸をして物を概念を認識してタイプをしているだけで不思議で奇妙なのに、何で「おしごと」するの?といった具合だ。そんな頭でSadばかりの時も多いが、割とそれがHappyに転化する時もある。俺が最初に買ったアルバムにも収録されていた、いつだって、ハッピー・サッド。


 この年になると周りに結婚した人がちらほら、出てくる。あまりよろしくない状態で「いつだってハッピー・サッド」とか口にする人間に結婚なんて程遠い、けれど、ある友人が「若いうちに子供できたら、運動会の親子リレーで活躍できる」と話していた。俺はそれを、浅野チャラ夫妻のように、素敵だな、と思った。そう感じられる俺にも、まあ、チャンスくらいあるのかな、とも。先のことは分からない。ハッピー・サッド。


 彼らの離婚のニュースを聞いて、連載小説という題の曲も思い出して、聴いていた。

 

 いつか歳を取ってそれでも互いに愛して

 いつも静かな気持ちで毎日を過ごすなら 

 私はそれで構わない それでも何だか少し戸惑うの


 俺はハッピー・サッドというよりも、それでも何だか少し戸惑う、ことをいつもしているような気がした。いつまでもハッピー・サッドならいいけれど、まあ、戸惑っていられるうちは、未だ平気なのかな?