詩人のように?

 吐きそうに泣きそうになったけれど、吐かなかったし泣かなかった。
 久しぶりにお仕事をして、また、一日で折れそうになったが、なんとかこらえた。次の日がバイトでないので、救われた。もう俺のできる仕事なんてものはこの世にないのか、とまで思ったら、おかしかった。滑稽なおかしい人生。ただ、おかしくないのは、これが「俺」の人生でこれからも続いていくということだ。

 バイトの休憩時間に、ガードレールに座って、金子光晴のエッセイを読んだ。詩人の彼がヨーロッパや東南アジアを旅した『どくろ杯』や『眠れ巴里』といったシリーズはとても好きな本だ。詩人の放浪記、といったものにキナ臭さを感じる、おかしい位神経質な俺だけれど、彼の本は詩人の放浪記、という言葉に相応しい本だと思う。彼の詩はそれほど好きではないのだが、その瞳を通す物は、子供のずるさとひらめき、大人のずるさとひらめきに満ちている。美しい風景を覗いたような、そう、彼の旅行エッセイ、日常を眺める姿勢は、俺が一番好きな写真家ウジェーヌ・アジェを想起させる。パリの風景を(俺は彼の写真では人物が映っていない方がずっと出来がいいと思うのだが)、剥き出しのパリを見せ付けるかのような、言葉が追いつかない、風景、風景を写す写真。

 俺はアジェの安い写真集を持っている。例えば、アルバイトを頑張れば、アジェの少し高い写真集が買えるだろう、が、買っても、嬉しくなんかない、ように思う。欲しい物は山ほどある、けれど、その中の、小さな小山位は買い占めてしまったのだ。もっとも、このままいけば月の食いぶちさえ稼げないのだ。写真よりも、俺は写真のことを考える時間と栄養を与えてくれるパン、を買うだろう。「お前は思考が好きだろ?だったら働くんだ」と声がする。そう、俺は思考と思考停止が大好き。

 どうしようもなくなっている、様な気がして、実際かなりサッド、時折、外を歩いていて風が肌に触れるように、ハッピー、が訪れる名案のように、様々なこれからの「予定」が生まれるが、そのどれもが俺の手にあまり、現実感がなく、選択すらしないことも多々、あるのだが、それでもやはり芸術家、打ち捨てられた芥のように転がる人間の姿は、俺の心を打ち、未だ生きればいいような気分になる。どんなことをしたって、どんなことって?

 割りと真面目に、数年前の俺は「だったら死んだ方がまし」と考えていたけれど、そんな事態になったら、俺のお得意の、数少ない華々しい特技、闘争、ではなく逃走をしてしまえばいいのだ。逃げた後を考えるから怖くなる、実際、逃げ回ったつけを払い続けているのだけれど、それでも、もう俺には逃走が最上の道の一つであると認めなければならない。まあ、あと数日か、それ以上か、アルバイトは続けたい(店の人に迷惑を掛けるのはいやだ)と思ってはいるが、それよりも、俺にとっては逃走の方がはるかに大事なことだ。金子の本はあらかた読み漁ってしまい、たまたま購入した、今手にしている『世界見世物づくし』という文庫本を読み終えたくはない。世界が隣人が、よく行く99ショップの店員が、詩人だったら、俺だってうまくやってみせる、ように思う。「失われた俺のお前の中の詩人を求めて」という言葉がふと浮かんだ。誰かがこんな馬鹿な話を書いてくれないかな。俺は未だ、もう少し狂えずにいる