世界やお前を救っている場合じゃあ、ない、んです

pspを買ってしまった。こんなタイミングで、と思わないこともなかったが、いつかは買ってしまうのだから、今でもいいと思った。周辺機器やソフトも含めて2万円也。

 ゲームにかける熱量が減少すると共に、携帯ゲーム機でのプレイが中心になっていった。繋がる際の、手順が少ないのは好ましい。ゲームに多くの期待をしないから、大抵のゲームは我慢できるし、バグやフリーズも、そこまで腹を立てたりしない。今している偽エクスなんてもう三回もフリーズしたが、楽しく、遊んでいる。腹を立てずに、集中とうすら寒さを共に、流れるように続けるプレイ。

 よく見るゲーム製作者の人のブログで、「圧倒される」というコメントと共にアマゾンのページへのリンクが張られていた。PC美少女ゲームエロゲーのレヴュー。

 投稿者は自分がエロゲーの「主人公」になりたいのに、ゲームがそれを許さないということについての悲しみと怒りについて、かなり長文で語っている。

 投稿者がゲームはプレイヤーが操作、介入できるものであるのにも関わらず、エロゲーの一番重要な「エロ」の部分ではそれを許していないことに憤慨している。それが「鑑賞シーン」であって、「彼女」を「自分の方法」で愛したいのだ、と投稿者は語っている。一方的なライターの文章を読ませるのであれば、漫画やアニメでもできる。しかしゲーム、クリック、ボタンを押すことが出来るのにもかかわらず、文章を表示するだけだとしたら、ゲームにしかできないことを追求する立場として怠慢ではないのか、と。

 また投稿者は、市場がそれ(良質のライターの文章か萌え画)を求めており、作る側としてもエロシーンの絡み合う複雑な選択肢を作ることは無駄にコストがかかるものであり、さらには「介入できない存在」だからこそ、生殺しのまま資金回収の対象とできるのだ、とも語っている。

 その表現形態でしかできないことを目指す、というのは俺もまったく同感で、例えば、「それ、文章(他何でも可)でいいじゃん」とか思われるようなものは、駄目だと、ハマれないと、思う。

 また、俺がこの文章に共感しつつも距離を置いているのは、つまり俺が「モニター(或いは平面)にしか映らない美少女」との「ヴァーチャルな接触」という欲求がないからだろう。しかし、投稿者の飢餓は真面目なものだ。本文中には自分が「危ない客」だという認識も持っている。そんなに欲しいんだったら、自分で作ればいいじゃん。そう思う俺は、何かを作れる、と思っている立場の発言だ。それが作れないのだと確信していたら、どうだろうか。

 投稿者はあるイラストレーターの作品に心酔しているようだった。そして、文中での言及もないのだが、自分では画を書かないように思えた。やってもできないことや、自分には適性がないことは無数に存在する。それらに折り合いをつけてやっていくのが生活、ということなのだと思うが、うまく割り切れる人が多いのならば、(俗化した)信仰的な機能が溢れているわけがない。

 にしても、「制作された美少女」への愛というものを考えると、自分がそれらの周縁に位置して、また周縁でしかないことに気づかされる。所有に関する無防備さに改めて呆然となる。

 彼らの欲求は芸術作品に登場するピグマリオンと同質の問いかけのはずだ。しかし、評価の定まった作品に関する声は一部からは甘くても、

「○○タンとマジでもう、めっちゃくちゃなことがしたいんだ!!!!!」

 と言われたら、「え?」と思う。けれど、それが切実なものであれば、やはり、胸に来るものがある。「良いお客様」として搾取されるだけでは嫌だ、と「アンケートはがき」に熱心に声を載せるの発言者を笑うことはできない。

 戦場に行ったなら死ぬことは出来るかもしれないけれど、もう俺はどこに行っても純然たる戦士にも魔法使いにもなれないし、「わるいやつをやっつける/わるいことをする」ことを心から信じることもできない。没入の無いゲームを、毎日プレイすることは幸福でも不幸でもなく、俺の惰性に極めて近い習慣で、それでもそういった習慣が薄れてしまったら、世界に介入できるような気分で「わるいやつをやっつける/わるいことをする」のだろうか。ゲームや面倒なゲームは至高の偽物の戦場である、けれど。どっちにしても問題が山積みになって問題の寝台の上で生活しているのだから、問題意識のある言葉に俺は活力を分けてもらえる。世界を救う気はないのだけれど、お前世界を救っている場合じゃないんだぜと頭の中で声が鳴る。