楽しみは?

 数日前まで蓮實重彦中原昌也金井美恵子ル・クレジオの読んだ本や読んでない本ばかりを読んでいて、いつもの通り、惰性で知っている名前の本ばかりを図書館で借りたりアマゾンで注文していただけなんだけれど、それにしてもこのラインナップは疲れる、というか蒸し暑い時期に読むようなものではないような気がしてきて、古井由吉の短編集を読めば、これもまた疲れる、というか俺は彼のことを「すごい」とも「かなり好きだ」とも感じているのにも関わらずページをめくっても文章が頭に入ってこないというか、単に酷く疲れてきていていや、単に力のある本を読むのに疲れてきて、で、本を読む。

 評論とか社会学とか、そういった分野で目立っているように思えるのって、宮台か東、とその愉快な仲間たち、みたいな気がしていて、それは俺が評論とかに関しての情熱が薄いこともあるだろうけれど、見つけた名前を調べたり本を取り寄せると、必ずと言っていいほど、「宮台」か「東」の影響下にあるというか「ともだち」関係にある人ばかりで、社会学とかの世界がそれだけ狭いのかも、ネットでの声が大きいのかもしれないけれど、またなんだ、という気にはなるし、それらのチルドレン達の本を読んでもちっとも面白くないというか、ネットで文章が書ける人のを「活字(しかるべき表現媒体が準備されているならばWeb上でもいいけど)」レベルに推敲しました! みたいなので、読み終われば「ああ、そういう考えの人もいるんだね」という感想しか湧かないのは、俺がそういったことに関心がないから?

 とか思っているくせにぽちぽちと読む俺、『批評のジェノサイズ』宇野常寛更科修一郎。「仲良しグループ」のなれあいを見せられるよりは、彼ら(というか宇野だけど)の言葉の方が刺激的だった。この本では廃業宣言をした(この本の最後で)更科を半ば無理やり参加させ、宇野が今の批評状況について暴言を問題提起をする、という内容だ。あとがきで宇野はこう言っている。

「批評の世界は腐っている。
  かつてカウンターカルチャーを謳っていた評論家たちはノスタルジーの豚となって既得権益の死守に血道を上げるようになり、実力以上にプライドばかりが肥大したワナビーたちは卑しい業界人の取り巻きになってその政敵に意志を投げることに夢中になる。目障りな書き手やフリーの編集者を目にした時仕事で勝負するのではなく、何より先に「あいつを使うな」と周囲に吹聴する同業者が掃いて捨てるほどいる」

 というこの状況に対して問題意識を共有する同士を増やすこと、を目的にしてこの本は書かれているのだと。

 俺は批評家評論家らが「馬鹿」という言葉を、使いたいならば使うべきだと思っているし、どこか、「馬鹿」という言葉をきちんと使えてこその職業だ、とさえも思っている。だって、そうじゃないなら、自分で作ればいいじゃん。人の「作品」なんて、そんなに大切? 批評家としての強度を感じないと、自分語りじゃん、それなら職業じゃなくてもいいじゃん、と思ってしまう。

 で、本文中から宇野の言葉を引くんだけれど、

「要するに僕と更科さんは現状分析では一致するけれど、ゴキブリ駆除の方法論が対照的なんですよ。片や隔離政策、片やじゅうたん爆撃。更科さんはゴキブリホイホイを仕掛けてポイポイ捨てるタイプで、僕はバルサンをたくタイプで、僕はバルサンをたくタイプ」

 この宇野の台詞に、更科はこう返す。

「ゴキブリにだって人権はあるよ。だぅて、彼らから見ればオレも論壇というタコツボに潜むゴキブリだからね。居心地はマジ最悪だけど」


 タコツボ、と島宇宙という言葉がこの本ではほぼ同義として扱われている。要は大きな物語の失墜から、無数に出来上がった小さなコミュニティ、その無数のコミュニティが多様な可能性を意味せずに、なれあいと異物排除の構造を成している。そのことを宇野はかなり批判的に語っている。「馬鹿」にとても宇野は厳しく、「結局御用ライター」「レイプ・ファンタジーエロゲーとかにある弱者としての病弱や白痴美少女を弱さを装うねじれた男根主義の男が征服する)」やら「才能のないカルチャー中年の自意識の問題としては非常に幸せな状況を生んでいる」けれど「文化的には非常につまらない」、大切なのは「棲み分けた島宇宙で全能感を確保している幼児的な状態」=「セカイ系」からの脱却こそ成長、等々。納得できる点もあるにせよ、俺が不思議に思ったのは、「何で宇野はそんなに馬鹿とかゴキブリにこだわるのだろうか」ということだった。

 馬鹿、といった言葉を使う批評家で俺が信頼している人は、それが「語る必要がない」からこそ(しかし話の流れで使わなければならない)使っているのだ。また、宇野に欠けているのは更科が指摘した「自分だってゴキブリみたいなものじゃんか」という視点で、全能感からの脱却って言ってる当人の中に、「才能のないカルチャー中年」が「ソフィスティケイトされた」後に獲得した全能感、に似たものを感じてしまうのだ。宮台の資質にも似た、「優等生(なのはもう十分分かってるからもうちょっとスマートに語ればいいんじゃにすか)」だなあ、という感想が湧く。あと、部数がどうだ、とかそういった話ばかりなのも、白ける。俺のない、社会とかへの信頼(てかそれがないと評論とかかかないか)。権威主義(とか構造)を批判する人って、ねじれた権威主義っぽいような気がする。

 また、彼らはコンテンツについては語っても、画面の、今起こっている美しさについてはほとんど語らないか、乏しい言葉しかかけない。今、そこで起こっていることこそが肝要だと思う俺にとっては、彼ら、社会学者や(多くの)評論家とかの言葉が、魅力的に感じられない。映画ならば、フィルムに刻印されているそのシーンを、音を、語るべきなのに、そういった物への美的な関心は極めて薄いのだ、と思う。

 また、東の語る、評価する作家やらに関しても彼の「小説」も何がいいのか分からず、気になるし、大体目を通しているし「好き」で「すごい」と思う阿部和重中原昌也を「大好き」ではないし、「ジョイス」やらSFとかも良さが分からないし、その中の多くって要するに「秀才のおれが作ったゲームを攻略してみろよ」ってこと、だと感じてしまう。俺の好きな物って、ていうか好きな物って「感じてしまう」んでしょ。いや、「お前に興味ねーし」

 俺はきっと「クソ外人マンセーハラキリフジヤマはいはい権威的あいまいなにっぽんオリエンタリズム」の「ようなもの」を大事にしているのだと思う。詩的な、というよりも批評で解読できない「かのような」ものが好きだ。だって、分解できているかのようなものがあるとしたら興が覚めないか? そしたら作品なんていらねーじゃん。というか、俺は「かのような」とかいう言葉も好きで、きっと「かのように(な)」なんて、彼らは気に入らないのだと思う。彼らは自信満々に用語で世界を定義する。それ(らの内の幾つかは)は有用である、妥当性がある、けれどそれは乱暴な行為で、とても「詩的」とは思えない。詩的である必要なんてないんだけれど(むしろ中途半端に詩的な方がたちが悪い)、それならば詩的な言葉とか、あそびの方がいい。

 批評なんて、批評って難しい(単に俺との付き合い)と思っているくせに続けて読んだのは可能涼介の『圧縮批評宣言』。これが、良かった。俺は文芸誌というものを(怠惰から)読まないので、力のある批評とかって知られた名前の人ばかりが頭に浮かぶのだけれど、この人の批評はすっきりとしていてとても読みやすく、というか、俺が宇野にいや多くの人に足りないと思う「つつましさ」と「読解力(便利な言葉!)」とがあった。特にあくたがわしょーの選評、をしていた古井由吉の言葉を引きながらコメントをする記事が、古井のような「俯瞰出来る人の親切さ」(これはとても難しいことだ!)に似て、読んでいて楽しかった(でもこの本には十年以上前の評論とか短文とかも載っていて、それらは別にいらないかなと思ったけど)。

 あと、後半の座談会で「手際のよい」書評とかの仕事を、やはり、というべきか他の論者のように肯定的には語っていなかったことは印象的だった。でも、彼はそれらの作品を「石ころがいっぱい転がっている中で、こんな石ころがありますよと、つぶやいてみたという感じです」として、微小ではあるが、「悪いゴミ」ではなく大きな景色の中の添景として見ているのは、個人的に好ましく感じられた。そして彼自身も「石ころ」(彼の批評、小説、演劇)を積みかさねて現れるものへの期待を語っていた。

 最初に触れた対談本で、更科は「批評に疲れた」と、評論業を廃業することを語っていた。彼もまたあとがきで、


「編集者の立ち場では販促ツールとしての評論、批評」ということになるが、読者にしてみれば自己肯定のための理論武装ツールでしかない
 言いかえると、成長しないための適応ツールでしかないので、どんなに大層な言葉で装っても、評価される評論、批評とは現実逃避性能の高さが評価されているだけだ。
 よって、評論家、批評家として生きていくということは、文化的タコツボの住人に理論武装ツールを提供して、小さなカルト宗教の教祖になるということでしかない。



 批評家とかになる気がまるでない(というか務まらない)俺には更科の意見がすごく分かりやすい、

 けれど、やはり、言葉がある人の方が、気になる。(更科・)宇野と
可能は活躍しているフィールドも語り口も異なるけれど、共通しているのは「わくわくするものないか」「わくわくするものができるにはどうすればいいか」について向き合っていることで、こういった職業に関している人の多くはそういった気持ちを持っている「つもり」のように思うが、圧倒的にそれが足りてないじゃねえのか、という認識が「普通」だと、俺も、感じている。まだまだいろいろあるっしょ。あるってことにしようぜ、って。

 彼らの意見に賛同しているとは言いがたくても、やはり意志があってやっていっている人を目にするのは楽しい。いさぎよく撤退するのが悪いわけないけど、やっぱ「武器持ってんの俺」みたいな方が、見ていて楽しい。それが「悪いゴミ」、だったらそりゃあ嫌だけど(「悪いゴミ」ばかりで宇野は怒っているんだけど)、自分の事をゴミだと思うことはほぼ不可能だから(生きているんでしょ、肯定しているじゃないか、本気で何年何十年もゴミだと思っているなら死ぬべきだと思う)、まあ、俺もいしでもごみでもどうでもいいし、楽しみたいっすね。