セ ラ

本ばかり読んでいた。既読や未読の本に触れつつ、ふと、我ながら、幾ら暇人にしても、よくこんなに読むなあ、と思った。そして、ふとした瞬間に、本が読めなくなった。といっても数日のことだけど、数日間(ほぼ)全く(小説とか評論とかの類の)本を読まなかった。これでいいような気がした。こんな時もあるでしょ、とか思いながらも、習慣が俺の恒常性の助けをしていたことは理解していて、活字中毒では決してないのだが、居心地はさらに悪くなる。

 でも、毎日のようにリボーンを買って読んでいた。これでひと月ふた月持つはず、とか思いながら、気付けば全巻揃えてしまっていた。だって、面白いんだもん。

 正直に言って、「あれ?」とか「こうすれば……(して欲しいではなく)」とか思う所はけっこうあるのだが、読んでいて面白い。それは作者が登場人物を、脇役までにも愛情を持っているからだと思う。作品の巻末にちっちゃい子からの葉書が沢山載っているのも、好きだ。俺にとっては、今、一番好きな少年漫画だ。

 ジャガーさんはギャグ漫画だから除くと、その前に買っていた少年漫画は、五年以上前に買った『フルアヘッド・ココ』。画は上手いし(美大出でデッサンがしっかりしてる)キャラは立っているし、ダレることなくよくまとまっている漫画で、完成度も高く、今でも、マジで面白いお勧めの少年漫画と思っている。でも、売った。全29巻。偶然だが、今持っているリボーンの巻数と同じだ。リボーンも売る日が来るかもしれない、けれど、売っても、すぐにまた会える。それが幸福なんだと、そう思うべきなんだと、そんな気がするのだけれど、よくわからない。

 職場には俺と違う会社から派遣(?)されている人達が大勢いる。その中の一人、同じ仕事をしている五十代の人とちょこちょこ話す機会があり、突然、その人が仕事を辞めることを話し出した。「えーまじっすか、なんでっすか」とか、いつもの調子で会話をしていると、その(仮に)Aさんが会社から来月のシフトはないから、と勝手に決められたそうで、しかもそのことをシフトの紙を渡すだけで一切伝えないそうで、俺は「おかしくないっすか」とかなり嫌な気分になってきたのだけれど、Aさんの話を聞くうちにそのAさんの会社がおかしいだけではなく、Aさんにも多少は問題があるようで、当然だが、たまに顔を合わせるだけの俺が口出しするような問題ではない、そう気付かされた。いや、最初からそんなことは分かっているけれど、できたら、少しくらい力になりたいと思うんだ。

 もう別れるからか、Aさんはかなり込み入った状況を口にする。借金があって色々滞納していて、しかも、50代なのだと働き口がないのだと、そう告げた。そして、NPO法人のもやいに相談に行ったことも話していた。「ただ、話を聞いてくれるだけでも救われる」とAさんは口にした。せっぱつまったAさんが役所等に相談しても、全然相手にはされなかったらしい。

 俺は電車内での自分の振舞いについて思い出していた。Ipodを耳にしながら、必ず本を読む。目に入りませんように。見えないように、見えないように、してしのぐ日々。でも、少しくらい気分がマシな時なら、寝転がる若者に注意をして席に座らせたり、年配の方に席をゆずることも、ある。毎回ではないけど。一か月ほど前、子供をハンモックのような布で抱きかかえるようにしている、おかあさんを目にして、俺は座席を立ち、無言でそのおかあさんの顔を見た。そのおかあさんは軽く頭を下げ「子供が立っていないとぐずるので」みたいなことを、笑顔で言った。俺は片方の耳で音楽を聴いていた。だからか、いや、元々耳が悪く、大体のニュアンスしか分からなかったけれど、でも、俺が座った方がいいことは理解できて、涙が出そうになった。でも、そのお母さんがいる前で泣くことは出来なかった。

 俺はAさんに「しかるべき場所で働く職員だから、困っている区民に手を差し伸べるべきだと思う。でも、彼らも日々の仕事で疲れていて、職務をこなすことで生活をのりきっている。彼らを責めることはできない。でも、少しの、例えば、親身に(ふりだけでもいい)なるとか、ポケットマネーでコーヒー一本渡すとか、少しの気遣いで、楽になる人はいるし、みんな、困っている人がいたら、少しは力になりたいはずなんだって、そう思う。色々な状況に置かれている「だれか」にそれが出来ないことを責めるべきではないけれど、自分でそれが出来ていないことは、やはり、心の貧しさを感じる」と告げた。

 Aさんはそれなりに俺の意見に賛同していた。「○○公園で会おうね」と言っていたことが洒落になっていないAさんだが、その日の食事はファーストフードのセットメニューだった。Aさんが席を立つ。食後にはコーヒーと煙草。俺は百円の特売せんべい、水筒に自分の家から持ってきた水を入れて。

 借金があって、なお、金を切り詰めていないのは、正直理解できなかった。けれど、食事が喫煙がAさんの「大きな楽しみ」だとしたら? 俺は何も言えないし、言うべきではない(当然そんなことは口にしない)。俺は一人になれて、少し、涙を流すことができた。

 こういった状況に陥る場合、本人にも責任はある場合が多いだろう。でも、それを本人のせいにして、それで終わりでいいのだろうか。斉藤環がひきこもりに関する自著で、「ひきこもりはに対する世間の声で贅沢病だとか甘えだとかそういった意見は多く、一部分で当たっているにせよ、それが「彼ら」を助けたりはしない。彼らを助けたいと思っているなら、彼らを助ける為の言葉を探すべきだ」といった趣旨の発言をしていて、とても共感できた。路頭に迷うようになってしまった人にも責任はあるだろうけれど、その人たちを責めて嘲笑って下に見て何が変わるのだろうか。多少の優越感や暇つぶしだとしても、俺はそんなの欲しくないし、そんなんじゃないだろ、と思う。できるなら、したくなったら、助けてやれよ。でも、都合良い出会いも、気分も、中々あるもんじゃない。

 その役割を国が果たすべき、だと、そう思っているが、そう上手くはいかないことも知っているし、期待はしていない。もやいはすごい、と思っているけれど、自分がそこで働くとかは全く考えられない。だって、俺は、「自分に限って」借金をする位なら死ぬべきだと思っている。

 学費やローンや仕事や急病、とかいったものが「正当」な借金の理由だとして、たとえギャンブルや浪費が理由でも、俺は別に構わないように思える。理解はできないけれど。でも、俺が借金をする場合を思い浮かべると、生活を引き延ばす為に労働から思考からしばらく遠ざかる為にする、その理由しか思いつかない。ただ、引き延ばす為に「借」りるなんて貰うなんて、いっそ死ぬべきだと思っている。あくまで俺の話だ。俺はそう思っているから、借金はしていないで、小銭に媚びて暮らしていることが出来ているのだと、そう思う。

 初めて社会に触れるのが幼稚園だとして、小学生になってから幼い思考を獲得するとするならば、俺は小学生になってから明確に「もう少し我慢したら、大きくなったら、よくなるのかな、変わるのかな、買われるのか」と、ずっと思っていた。それだけを考えていたわけでも、その思いが強くなったり弱くなったりもしていたけれど、今でもずっと、二十年近くずっと、そんな思いを抱いている。少年漫画の、「ツナくん」みたいに、意志でどうにかなることも、どうにかならないこともあることをとっくに知っていて、それは、中々洒落がきいているように思っている。涙が出ても、悲しくはないのだと、わくわくすることもあるのだと、俺は知っている。