ピコガガガ

 八枚もレンタルするつもりではなかったから、アマゾネス先生から注文した、the orbの二枚組ベストとポップンの二枚組のインストベストとYMCKの「ファミリークッキング」の初回DVDつきが届きまして、とっても嬉しい半面、こんな量どうすんだ、という状態で、どうすんだってねえ、聞くしかないでしょ。

 ポップンインストルメンタル曲のベストは主にピコピコキラキラテクノを作っているnakatek目当てで買ったんだけど、ゲームのとか普通のサントラに収録されているのとは違って3,4分のロングバージョンが入っていてくれてとてもうれしい。一応ゲームの稼働率を考慮されて、普通の収録曲は初期は一分半、今なら二分弱程度に収まるように大体作られていて、その短い時間で「音ゲー」として楽しめる用に作られているんだけど、好きな曲はやっぱり長い、作曲者が好きに作った形式で聞きたい。

 収録曲の中で、そのnakatekが作った「penguin」というのがめちゃ良くて、ライナーによるとMSX(ゲーム機です)の「けっきょく南極大冒険」の様子をピコピコシンセで作ったらしい。おれは友達の家でファミコン版の「南極大冒険」をしたことがある。ペンギンが穴ぼこを避けながら南極の基地を目指す、みたいな内容だったと思う。ちなみに教育ソフトらしく、ゴールすると世界の国旗が上がる。国旗を覚えろって。何だそれ。

 この「おとぼけ」なゲームもキュートだけど、この「Penguin」はもう、超キュートな曲で、リズミカルでメロディアスなチップチューンにメロメロになるし、わくわくもする。でもこういう音楽ってゲーム音楽以外にはほとんど作られてないんだなあ、(nakatekさんはポップンに曲提供しているだけで自分のCDは出してないらしい)。ガチでピコピコだけの音って。

 なんてことはないんだよだってYMCKがいるんだもの! ファーストアルバムのファミコンへのオマージュ(だと思う)8BITミュージック、「ファミリーミュージック」からしてすごいクオリティが高くて、それは音はチープなピコピコ音でも、音の重ね方がこなれていて、選択した貧弱な音源とは逆に曲としてしっかりとしたものになっているのだ。今回の「ファミリー・クッキング」も期待を裏切らないでき、というか、さらにこなれているようなクオリティが上がっているような気がしていて、頼もしくも、ほんの少しだけ寂しい。naktekの曲は良質のゲーム音楽に相応しく、ひたすら「楽しい」のだ。それが音楽としては弱いものだとしても。

 そんなことを考えつつYMCKのDVDを見る。映像もちゃんとファミコンの画面みたいなドット画になっていて、とても嬉しい。俺は「金掛けました!」って感じの映像も好きだが、ドット画もすごい好きだ。今となってはわざわざドット打ちの人を使う方が変にコストが高くなってしまうから、そういった層をピンポイントで狙う以外でドット画のゲームは出ないだろうけれど。


 ドット画は、どこかモザイク画というか、ステンドグラスを想起させる。俺にとっては、聖なる、そして少し胡散臭いというか頼りない、素晴らしい神様、天使、聖女たち。ステンドグラスに光が差し込むように、ビカビカと、ドットは下品な光を放ち、俺を魅惑する形を作り出すのだ。


 売れ売れ企業の任天堂黒歴史になっている「バーチャルボーイ」というゲーム機が、俺が小学生の頃発売された。赤いゴーグルの中を除き込むと、中で赤と黒の線で立体的なゲームが楽しめる、という意欲的なものだったのだが、一人で姿勢を固定しなきゃしかプレイできないし、プレイすると身体だけじゃなくて目も超疲れるし、大コケした。全部で二十本位しかソフトが発売しなかったらしい。マンマミーア!(64マリオの声で)

 ゾルゲ市蔵がニッチなゲームばかりを話題にする自著で、このバチャルボーイも「有名な物」の一つとして紹介していた。この『謎のゲーム魔境』シリーズの内容は嘘やハッタリばかりや投げやり満載でとても楽しい本なのだけれど、ゾルゲがバーチャルボーイの生みの親というか任天堂横井軍平への死を悼むコラムを書いていて、その内容に、俺は共感した。一部引用すると、



「ロボット」や「光線銃」。そして「バーチャルボーイ」に代表される、楽天的で、ちょっと胡散臭くて滑稽で、でもどこか切ない「未来への幻想」。
 何ができるというわけでもないのに、何かができそうだという可能性自体がTVゲームを商品として成立させていた幸せな時代がたしかに存在したような気がします。


 PSとSSと64が三つ巴で戦っていた時代に、ハイパーでメディアなクリエーターみたいな詐欺師が「ゲーム」が何でもできてナウなヤングにバカウケ、みたいに地位だけはあるアホおっさんをだましてウハウハだった時があったけれど、そうではなく、本当に、何かを、信じていた時期があったはずだ。ゲームと輝かしい未来、なんて能天気が共存できていた時が。子供のように、子供の瞳で、何かが出来るんだって。

 何かができるような、輝かしい未来のイメージ。モザイク・ウェブにパソコンが作られた黎明期からパソコンに触れ、今はプログラマーになった男の子についての『電気の恋人』という曲があって、その歌詞も、すごく好きだ。




今じゃネットの世の中で オマケに僕はプログラマー
地球の距離が縮まって なぜか窮屈に感じてる
携帯・ネット・デスクトップ・ノートブック 無い生活はもう信じられない
けれども昔の人は立派さ 8bitで月まで飛んだよ

膨大な知識の電波は すべてを知ってるわけじゃないから
新しいことまだ見つけられる 宇宙の果てに広がってゆける
2003年4月7日に 未来のロボが生まれなくても
2112年9月3日は まだまだ分からないのさ
たった60年の昔から 幾度となく夢積み重ねたね
夢と科学で未来を変える 僕らはみんな電気の恋人





 俺がチープな電子音や、バンドでもガラージっぽさやノイズっぽさがあるのが好きなのは、きっと、何かが起きるような、そんな気がしてしまうからかもしれない。実際には何も起こらなくても、でも、例えばそれが音楽ならば、か細い、頼りない、荒々しいそのノイズだけで十分すぎるのだ。音がなっていることを意識する。音を、自分が聞いていることを音が重なっていくことを。それは、心地よくも、どこかさびしい。そういうのが俺が好きで、きっと、その感情を電子音やガラージロックに投影しているのだろう。

 わくわくして、何だか寂しい。いま、ここにいるのだと音を感じられるのだと知ることは、そんなことだと思う。ピコピコガーガー音がして、そのおかげで、何だか元気になれる時もある。ロックでも音響でもエレポップでもテクノでも、何でもいい、ジャンルなんてどうでもいい、頼りない音を、俺は頼りにしてる。