プレイボーイ・プレイガール

部屋が汚い。極限!!! (ささがわ)に汚い。一応自分の中で最低限のルールとして、腐る物はさっさとゴミの日に出す、という決まりはあるものの、本とかCDとかって腐らないもんねー、なんて適当に床に置いて積み重なっていき、ふと気がつけば、ゴミに囲まれて暮らす生活を送っていた。図書館で本を借りまくって、手元におけないのは寂しいなあ、とは思うけれど、読んだのが全部手元にあったら、ヤバいよ。本でバリケード作る気かよ。てか、現状でも十分、自分でさすがにヤバいと思い、本を「きちんと」積むようにした。お金持ちになったら大きな本棚が欲しい。大きな本棚を買えるような金の心の余裕があるならば、本の方が欲しい。

 俺にとって、今も現役の作家で一番ヤバイ、と言ってもいいような存在、古井由吉の本を、未だ、6、7冊しか読んでいない。読めないのだ。読めないというか、彼の本に向き合うには心構えというか、気持ちの余裕と、静かな、ひんやりとした環境が必要となるだろう。

 自分の家ではない場所で、短編集『白暗淵』を読む。話の筋と言うものが意味を為さない、しかしそこには「話」もある、幸福で濃密な、詩のごとき短編について俺は何を語れるだろうか? こういう書き手が、高齢といえども現代の日本にいるということを思うと、何だか小さな火が灯るような気分になる。

 しかし、俺が書きたいと思っている物とはかなり違う。違うけれど、古井の小説にもしっかりと、俺が求める恐ろしさというようなものがある。何かが起こりそうな予感や予兆が、仄かに香ってくる。様々な物がなく、しかし様々なものがあるのだ。大抵の小説には、様々などうでもいいものしかない(と多くの人は俺と同じように感じているだろう)。俺は古井の小説に触れられることと、それを手にできる位の自分の精神的余裕の両方に感謝する。

 俺はにおいのしない、ゴミに囲まれることで生活を維持しているのだ、という着想は間違いではないだろうが、合ってもいないだろうし、こんなことが正解等と言うのはあまりにも馬鹿げている。馬鹿げている。俺はまだ広義での、蛮勇を信じていて、それは生活の幼い肯定にも通じている。ゴミばかりで、ゴミが、俺のゴミが、蛮勇のように獣のように闖入するのを耐えられるように。耐えられますように。

 古井の小説に向き合うような体力を持たないとしても、でも、読みたい小説全てを消化出来る人なんて、ぞっとする。存在しない。それを言い訳に、敬意を抱ける人々から自らを遠ざける。これは、情けないことなのか、分からない。金に媚びることを考えながら、何かせねばならないとは。

 近くのGE○でCDのレンタルが開始され、何でも100円でレンタル出来たから、適当に八枚程借りた。適当に、見知った名前ばかり、でも、本当にその時買いたいものは、レンタルショップにあるわけがない。

 でも、その中で相対性理論の『シンクロニシティーン』と『シフォン主義』がえらく、よかった。最近ちょこちょこその名前を目にしていて、「くいっくじゃぱんとかすきそうなひとがほめてそうな」と勝手に思っていながらもスルーしていたのだけれど、動画を検索することもなくしかし、借りて良かった。

 乱暴に言えば少年ナイフSpank happy、それにほのかにPenguin cafe orchestraの雰囲気、みたいな感じで(この表現が適切かも誰に伝わるかもはなはだ疑問だが)、いやあ、一部で大人気(大抵そうですけど)なのが良く分かった。こういう、どこか拙いふりというか危うさを持ちながらも、バックボーンとなる豊かな技術と言うかセンスがいい音楽は文句なしに大好きだ。特に好きなのが「気になるあの娘」という曲で、





 これは歌なのだから曲がいいのが一番なのだけれど、詩も好きだ。でも、一つ不満があるとしたら、このバンドもまた「巧い男が女の子に危うさを任せている」からだ(ボーカルの女の子も歌詞書いているけど)。Spnak happyもPizzicato fiveも、いやもっと「ポップ」な、ポップスを、アイドルをプロデュースするのはいつも男性達で歌うのは、危うさのようなものを担当するのは決まって、女の子達なのだ。別にきっちり分けられるようなものではないにしても、そういう印象を強く感じてしまう。危うさを、誰かに任せてもいいものだろうか? 成功しているならばきちんと形になっているならば文句をつけようがない、のだけれど。

 そんな時に初期にプレイグスの、荒くて耳に残るギターと歌詞、「僕にルールを教えてよミスター こんな時はなんて言うんだっけ?」や「水に入った瞬間が 一番きれいな車だったって 当たり前のことのように 笑って帰るのさ」とか、

 もう好きとしか言いようのない、日本のバンドで一番好きですごいと思うGREAT3のことを考えると、危うさを我が身に生き、また、軽やかに生きる、というバンドマンがいることの頼もしさに、古井の存在とはまた別の、火が胸に灯ることを知る。危うさを生きることは、困難であっても不可能ではない。そしてそれは、恒常性から、生活からは引きはがされるべきだ。それは、俺にとっては無理なのかもしれないが。

 灯るか細い火、当然だ。音楽だけで、何かだけで生きられるようには出来ていない。特に俺はゴミの集積が身体の一部になっていて、普段から古井の小説に向き合えるような生活を送ることは困難だろう。危うさに生活は必要ないけれど、残念なことに俺には心臓が、肋骨に抱かれた心臓がある。絶え間なく血を吐き続けてくれている心臓に俺は感謝しなければならないだろうけれど、気分を新たに再度、やはり、まだ甘えたまま、危うさには血を吐くことは必要ではないのですと思う。