夏の日記

 正直言ってあんまり好きじゃないんだけどなあ、と思いながら本を読む、なんてことは別に珍しい事なんかじゃなくて、好きなものばっかり読めるなんてことはありえない。

 椹木野衣の『反アート入門』を読む。この人についてあまり知らないと言うか知りたくないというか、この人が評価するアーティストは俺が感銘を受けない人ばかりで、また、アートワールドでどう生きるか、みたいなことを主軸に話をしているような印象を受けていて、この本(でも入門って題名なんだから別にいいんだけど)を読んでその印象を強くした。

 でも、現代において「美術」の分野で、画廊や美術館に所蔵されるような作品を作るアーティスト、作家になりたいと思っている人にとっては、彼の著作や彼のような思想に触れるべきだと思う。多分。でも、そのアートワールドに不信感ばかり抱いている人間としては、正直読むのきはあまり起きないけど。

 それは椹木がアートワールドを肯定した上で、話を進めているからだろう。彼は評論と作品は対等というようなことを口にするが、はたしてそうだろうか? 「誰にも見られないで作品が成立するか」と彼は問うが、俺は成立する、と自信を持って言える。ただ、それはとても困難であったりするけれど。他者性、批評性のない作品になる恐れが高いからだし、何より彼は流通を、アートワールドを意識して発言しているから、ただ求職中の俺と立場が違くて、当然だ。

 しかし、作品を見て受けた感銘と同質のものを批評や評論で受けたことがあるだろうか? 俺にはない。素晴らしい、世界の広がりを感じるような批評や評論もあるけれど、素晴らしい作品の強度とは、程遠い。

 それを少年漫画的に表現するならば、その作る物に対する熱量の違い、であって(でも当然のことだけど、どんなに「死ぬ気で」やっても、つまらないものはつまらない)青年漫画的に(は?)言うと、評論は構築的、意味へと回収する行為であって、それは理解を助け、どこか、世界を限定的にする行為なのだ。そしてその志向性を制御するという性質こそが批評の根幹であるのだ(作品はそれが根幹とはいえないだろう)。作品よりも優れた批評なんて、存在しないはずだ。存在するならば、その人にとってその作品はとるに足らないものなのだろう。

 多分、椹木に与する人は俺のこういった発言が「アーティスト側の(俺、美術じゃないけど)センチメンタルな自己特権化」とかそういう文面で読み取られるような気がしないでもないけれど、俺が不満なのは、椹木が、「今、そこで起こっていること」に関してあまりにも目を向けていないように思えるからだ。正直彼の著作にあまり目を通していないので、偏見めいているが、それでも、そう感じてしまったのだ。彼は現象について、今そこにある作品について、とても言葉が少ないように思える。作品は、そこにある物が、全てなのに。そこで起きている出来ごとに関して大いに語るべきなのに。

 しかし、全てではない、と彼は語る、のだけれど、「アートワールドで」生きたい人以外にとっては、色々とどうでもいい。

 のだけれど話はそんなに簡単でもなく、椹木は何度か俺が「日記」に書いた評論や批評の私的領域への「地すべり」について批判的であるだろう、しかるべき距離をとっているだろうし、前に触れた批評性他者性を内包すると言うことは、歴史を踏まえる、今、自分に何が出来るか何が「本当に」したいのかを考えることなしに生まれるとは思えない。俺は天才を信じない。何も知らない恐ろしい怪物が或る日やってくるなんて、ロマンチックすぎる。

 文学は漫画はアニメは映画は音楽はゲームはコピーができて、とても素晴らしいと思う。一部を除いて、割と簡単に手にすることが可能なのだ。アートワールドで「ちょっとかしこいおっさん」や「けっこうかねもちのおっさん」をビックリさせるゲームに参加しないでもすむのだ。でも、これらのジャンルだって、別のゲームに参加しなくてはいけない。

 アートは、そのゲームに参加することを余儀なくされている、と言っても、もしかしたら、過言ではないのかも、しれない。だったら、やはり、十分、椹木の、むらかみたかすぃせんせいの著作に目を通す意義はあるはずだ。企業家、の何が悪いのか? 悪くなんてない。彼らは既に、もう数百年の昔から「権力者の俺スゲー」「教会の教化運動」の中に投げ込まれているのだ、今が、わるいわけではないし、今の生き方(のようなもの)を学ぶことが悪いわけがない。それに、なんだかんだいっても、結構刺激的だと思う。今、誰かは、何を考えているのだろうって。俺はアーティストじゃないから、あんまり目を通そうとは思わないけれど。企業家のプレゼンは、多分作品展示にもまして、結構退屈だから。

 つーか、最近日記にもその名前を挙げて書いているけれど、あまりにも「優等生」的な作者や批評家達の話ばかりを目にしていると、なんていうか、息が詰まる。おせちもいいけど中華もね! だよ糞野郎! これが「優等生」にたいする苦情の正当性を持っていないこと位知っている。でも、彼らが決まってする現状を踏まえて前向きで建設的で文句を言うのが難しい言葉達に悲しくなる。

 だってさ、世界が豊かさを許さなくってもいいだろ? スゲー、そう思うのでもう一度言うが世界が豊かさを許さなくってもいい。俺はそう思う。ただ、「優等生」に敬意をはらえない人の、彼らの「優等生」ぶりに恐れに近い感情を抱けない人の能天気と言ってもいいような作品への姿勢を俺は疑問視するし(勿論例外はあるにせよ)、優等生の後についていきながら「てんめえ所詮優等生じゃあねえか」という恥知らずを続けることが俺の生き方なのか、と思うと求職中の真夏でげんなりするのだが、まあ、それが俺にお似合いだと、そんな気がする。

 幼稚つながり、げーむ脳繋がりで言うと、批評家とか大学のせんせーとかこそ、若いアーティスト(広義での)達に向かって「てめーらさっさと死ぬくらいしか価値ねえの分かってんのか」って、彼らの文句がつけにくい本、教化的側面のある素晴らしい本のように教育してあげてもいいのではないでしょうか。当然さっさと死んだって何かが生まれるわけでもないし、こんな発言なんて俺がマジでキモイと思っている「ハンガリ−に半刈りで行く」とかいうクソ寒い承認欲求だけのオヤジギャグが美術系の本に載る、レベルのくだらなさかもしれないけれど、半刈りが許されてさっさと死ねよが許されないのはおかしい絶対におかしい。若者の為に、少し、一肌脱いだっていいじゃないっすか。それに見合うようなことは絶対にないと言い切れるし、その発言者が言う「死ぬしか価値のないクズ」に付きまとわれてしまう危険性もあるけれど、もっと色々と乱暴だっていいと思う。つーか、こんな馬鹿なことを考えるだけで俺は体感温度が二度は下がった(気がする)よ!! 「てめえらなんでしなねえんだくず」って、行ってあげるのって、先生の、人を導く人のおしごと「でもある」と思うんだけれど、どうか。そうですか。俺だって本気じゃないよ。本気じゃあ、ないよ。やすだよじゅうろう読む気にもなれないよ。やっぱ漫画の世界、ってことか。でも、漫画の世界も「楽じゃない」んだって。こりゃ、大変だ。夏は吐き気がして、大変だよ夏は。