君らが好きな殺し屋

 クソ嘔吐的な出来事しばしば。そういった際に相手に慮る視点があるほうが損をする、大きな声出した方が勝ち、みたいなのはうんざりする。なんかどっかの国の政治みたいな。

 ぐずぐずとくすぶっていると体調まで崩して、身体がだるくってしかたないので、今季初めての暖房(ハロゲンヒーター)を出す。うすうす感づいてはいるのだけれど、俺、もしかしたらBAKAなのかもしれないので、寒い熱いとか分かるけど、温度調節とか良くわかんない。

 小さなヒーターなのに、つければ部屋の平均温度が2度位上昇したような、明らかな、ぬくもりがそこにはあって、

「コ、コレガ ニンゲン ノ ヤサシサ ト イウモノ ナノカ?」

 俺モ人間ノ優シサ ヲ 学ぶ為に 機械の身体を手に入れなければ!     
 でも、銀河鉄道みたいに、機械の身体とかいって、「お前ネジ」とか言われるんでしょうか?

 洋ゲー不法集会 というイベントがあって(動画でみて)、色々な洋ゲーの紹介をしていて、次世代機とかに疎い俺には知らないことが多くて面白かった。アメリカでは簡単に銃が手に入るから「ガンコン」の類が全然流行らないとか、アメリカ陸軍が金を出して「君も兵隊になろう! ゲーム」America's Armyの存在とか。このAmerica's Armyはかなり「遊べる」ゲームのようなのだが、多分最初にメールアドレスとかを入力するようで、優秀者には勧誘がくるなんて日本の感覚からすると、かなり斬新だ。


 また、洋ゲーはどこまでもリアル重視で、現実の延長線上にあるのに対して、日本のゲームは別の世界での遊びとして世界を作るのが対照的だ。何か対立があった際に、欧米人が「自分が正しい」として猛烈に主張を行うのに対して、日本人が「責任回避」としての言説をこねくり回すのは、見ていて歯がゆい気持ちになることがある。それは俺もきちんとした会話が出来ていなかったり、発言の後でぐちぐちああ言えば良かったとか考えてしまう方だからだ。

 俺はどちらかといえば日本人的というか、あまり余計な主張をするのは嫌だと思う方だが、それだけでは都合のいいカモとして扱われるのだと気付いた時から、なるべく主張をするようにしている。摩耗していって、自分の発言の仕方を忘れてしまうことは、悲しいことだと思う。


 この参加者の一人、須田剛一は「ドバッと切ってバシャッと出る」刺激的でお馬鹿でクールな作品を多数作っているのだが、自身の作品が国によって残酷描写の表現が変えられることについて、クリエーターとして前向きな発言をしていた。そう。噴水みたいに血が出たって、悪いことじゃない。悪くないと言うか、それはアメリカのアニメ、カトゥーン的な表現だと俺は感じている。こういった残虐さについてただ規制をするべいいという立場は馬鹿げている。レーティング、仕分けは必要だろうが、それを無理に禁止することで、新たな犯罪を誘発する可能性を、そして表現を潰すことについてはもっと考えられるべきだ。

 パブロ・ピカソヘミングウェイ、ミシェル・レリス、ジョルジュ・バタイユ、ら、彼らが愛した闘牛は今はもう動物愛護の観点から、そして何より古臭いものとしてすたれてしまっているらしいのだが、一度くらい本物の闘牛を見てみたいな、と思う。

 えすとえむの『愚か者は赤を嫌う』は肉の解体屋マウロと新進気鋭の闘牛士ラフィタによる恋物語だ。えすとえむ美大出なのかな、と思うような人物デッサンの巧さや細やかで気の利いたストーリーが魅力の漫画家で、主にBLの作品を描いている。

 この作品もそのひとつなのだが、俺にも読めるBL作家(便宜上こう呼称する)は男同士の恋愛だけではなく、男女間の恋愛物語も描いている描けている人が多い。他にも中村明日美子bassoオノナツメ)やヤマシタトモコ、等他に色々いるだろうが、興味深いのは、女性で細やかな描写を得意とする人はBLで活躍していてもNL(異性間の恋愛漫画という意味らしい)も描ける人がそこそこ存在するのに対し、男性の百合系漫画家はそうではない、ということだ。もっとも俺はあまり詳しくないし、比べるにしても数が違うとも思うのだが、やはり女性の方が恋愛ものは得意のような気がする。

 『愚か者』が面白いのは画の美しさもさることながら、(行為のシーンはかなり多いのだが、デッサンが優れているし、結合部は描いていないので割と男性でも普通に読めると思う)攻めの解体屋と受けの闘牛士との力関係が単なる一方的な物ではなく、様々な力関係が反転するイメージを孕ませているからで、解体屋は背中に「牛のとどめに刺す時」のような傷を持ち、色盲で、赤と緑の区別がつきにくい、「お前ら」とは違う色に見える、と言う。

 闘牛士は「あんなに美しい動物はいない」と言う。解体屋がじゃあ何で殺すんだという質問をすると、彼は「闘牛士だから」と答える。

 また、二人の関係がいかにもな悲劇的なヒロイン二人、といった感じが全然しない所もいい。そこにあるのはあくまで大人同士の、緩やかで激しい関係だ。

 俺が性別問わず恋愛物語にあまり食指が動かないのは、わざわざお膳立てした悲劇がてんこもりなのばかりだからだ。センスのないメロドラマほど退屈な物はない。

 闘牛士は自分を征服してくれる解体屋を殺す夢を見る。そしてスランプに陥る。闘牛士は12で初めて牛を殺し、あの舞台に立つことは怖くないというが、上手く殺せなくなって、恋人に泣き言を言う。解体屋が「俺のせい?」と質問すると「うぬぼれるな」と返すが、彼はワインによって楽しそうに、張り詰めている。そして解体屋が夢の中ではなく現実で自分が牛なら殺すか、という質問をすると彼は「ああ 殺すよ 闘牛士だから」と答え、二人は身体を重ね、そして闘牛士は舞台に立つ。その後のラストへの流れも美しく、爽やかだ。

 俺は動物をむやみに殺す、と言う言葉には抵抗を感じるが、それが文化としてねづいてしまっているならば、言葉がさして役には立たないように思う。シャーマンがまじないの為に小動物をいけにえに捧げることを、馬を育てて速さを競わせることを、おかしいことではないと感じる、何より彼らにはプライドがある。プライド、これはとても大事だ。単なる自分に被害の及ばない場面での虐殺からは生まれえないものだ。

 そして闘牛士は舞台で死ぬことさえも許されている。

 俺も勿論、どこかの国で生活している、社会化された人間は、同様に虐殺の文化史をも体内に請け負っている。ベジタリアンも植物を「殺す」植物の命を貰う。そして、勝手に自衛として免疫機能により様々な菌類を身体は殺し続けている。そのことを忘れてしまわないことが、虐殺と付き合っていくことだと思う。殺しには美学を。俺には機械の身体を、って。