モダンエイジは僕のパパ

 騒音問題で引越しをしてからというか、ここ二年位、家の中でも常にイヤホンかヘッドフォンをして音楽や動画を聴きっぱなしみたいな状態で、緊張しっぱなしというか、リラックスできないことこの上なし、と分かっているのだが、どうしてもイヤホンが手放せない。雑踏も人ごみもうるさいファストフード店も平気だけれど、家で一人で誰かの声が耳に入ると、気持ちがぐちゃぐちゃになる。イヤホンが無いと、何も出来ない。

 でも、さすがに引越しまでしたんだし、イヤホンをはずし、久しぶりにつけたテレビをぼーっと見ていたら、「早く起きた朝は(?)」がやっていて、びびった。

 この番組は俺が見ていた十年前くらいは「遅くおきた朝は」って題名で、磯野キリコと松井なおみと森尾ゆみの三人が音楽をかけてだべる、という、幾らなんでもラジオで出来るのを地上波で、しかもこの三人というメンツで流すか? というある意味トチ狂ったというか、ナンシー関に(悪い意味で)奇跡の番組とか、揶揄されていたような記憶があるが、俺、この番組が何故かスゲー好きだった。森尾のピンクハウス的な薄っぺらいがんばりと松井のいい人そうで疲れたおばちゃんの突っ込みを肴に、キリコのうざったさが一番発揮される、本当に日曜の皆の頭が覚醒していない時間帯だから許される内容だと思う。

 しかもこれ、何度か時間帯を変えてリニューアルしてんの、長寿番組、いや、ゾンビ番組。しかも番組の本も出たんだって。欲しい。でもこんなのにかねを払うなんて、俺の財布が許さない!! サンタさんにお願いしようと思う。サンタさんにお願いしたことも、欲しいものを貰ったことも今まで一度もないけどな!

 小さい頃は、多分中学生位までは、アニメを割りと見ていて、でも高校に入ってからか、さした理由も無いのに見なくなって、漫画は好きなのにアニメは見ないのも何だか残念に思えてきて、二十代の半ば位からかちょこちょこ見ようとしているのだが、いまいちはまれない。俺の中にアニメを楽しめる能力がないのだろうか? 俺がすきなのがアニメ化されないという理由が大きいとも思うのだけれど。

 一応、最近は「ローゼンメイデン」と「ダンガンロンパ」を見ている。どちらも(原作やゲームを)知っているから見ているのだが、楽しい、といえば楽しいのだけれど、何だか豪華なファン向け賞品を見るような視聴をしているような気が。どちらの作品も初見の人には説明不足だったり尺が足りずに超展開だったりするような。「純粋に」アニメを楽しんでいる、とはいえない気がするが、まあ、いい。

 ゲームもこの所あんまりはまれなくって、とうとうリメイクのペルソナ2罰psp版を購入。psのは結構やりこんだ、というかメガテンやペルソナのファンだから、ストーリーは頭に入っているのだが、ひとつ思ってもいないことがあった。

 この作品、ペルソナ2は子供が主人公の「罪」と「ほぼ」似た世界で大人が主人公の「罰」の二作品で完結するようになっていて、「罪」の内容が引き継ぎできるのだが、逆に言うと俺はpsp版の「罪」はプレイしていないから、本来自分であるべき主人公の名前がデフォルトの「タツヤ」(あだなはたっちゃん)になっていて、かなりの違和感があった。だって、「タツヤ」って、俺じゃなくて、友達の名前なわけで、

 ある事件で、元々仲間だったのが記憶を封印して、しかし「タツヤ」だけが記憶を取り戻してしまい、また事件が起こってしまう。

 悲劇の主人公、「タツヤ」がイケメン台詞を連発していると、どうしてもあれ、俺の役だったのになあとか、その人の顔がちらついてしまう。

「身体の傷だけなら、幾らだって我慢できるのに……もう、俺に関わるな」

 みたいなイケメン台詞を「タツヤ」が言う度に、あー俺、これ自分で言ってる気分になっていたのかー(前作の罪では選択肢で選んで主人公は自発的に発言しない)みたいなこっぱずかしい気持ちになる。新しい楽しみ方、なのか?


 先日友人と秋葉原に行った。秋葉原に行ったというのに、どちらももえもえな感じのを買わない。って、誰が何を買おうと自由なのだけれど。

 でもその友人はアメコミやホラー映画とかのフィギュアのコレクターで、一緒にそういう店を回るのは結構楽しい。フィギュア関係の店を回ると、当然萌え系のフィギュアも見るようになるのだが、アメリカ(外国)製のフィギュアは男のフィギュア製作に特化していて、日本のフィギュアは女の子のフィギュア製作に特化しているのが面白いなあと思った。

 欧米人や日本人のゲームに対する好みにもこれは大筋で当てはまって、欧米のゲームではとにかくリアルを追求してプレイヤーをつよくすることが自分を強くする、みたいな、筋肉ムキムキのいかついゴリマッチョみたいなのが主人公なのが多い。

 その分、洋物の女性フィギュアは酷いものが多い。だって、女性はメイクをして完成するものだから。この言い方が悪いなら、メイクなんてしなくても美しい女性を表現できるレベルのものは単品で値段がつくような作品であって、大量生産の場では求められていないし、作れない。

 その分メイク、というか、あるオタク系の小説家(?)の人が、「萌え」は奇形というか、アウトサイダーアート寄りで、でも中には小動物のように愛らしいものもあって、そういうのまで全部アウトサイダーアートの枠に入れるのは忍びない、という発言をしていて、俺はとても納得してしまった。だって、「普通に」考えたら変だもん。独自のコードの中で、つやつやぷくぷくきらきらひらひらしすぎている女の子。

 でも、これは筋肉ダルマみたいなフィギュアだって似たようなものだ。過度に理想化されたアイドル、アイドルはいつだって畸形だ。平凡ではありえないということだ。

 俺はフィギュアをほとんど持っていない、何だろう、家に「人」がいる、みたいなのが少しだけ、苦手なのかもしれない。でも、ぬいぐるみはいくつかあるのだが……。

 俺、男なわけで、いい年しているわけで、ぬいぐるみって! と思っていたのだが、あるときふとタガが外れてリサとガスパールのぬいぐるみを買ってしまったら、もう後はずるずると買ってしまった。

 中学生で始めて携帯電話を手にしたときから何で男が絵文字や顔文字を使うんじゃ、この軟派もんが! と思っていたのだが(まあ、その思いは今もあるけど)、俺も似たようなもんだ、と少しだけへこんだ。ぬいぐるみを持っているより、グルカナイフやシャムシールとかの方がもっと欲しいんじゃ、でも、そげなもん買えなかけん、しょーがねーからティガーとか買ってんじゃボケ!(は?)

 でも、俺も自分でぬいぐるみを買ってからか、単に年のせいか、絵文字をつかっている人にもやさしくなれたような気がしないでもない(勿論直接何か言ったことはないが)。二十歳の俺なら、男からのメールに絵文字顔文字を発見したら、この軟弱者があ! 兎跳びでお百度参りじゃあ!! 級に頭の中がわいていたのだが、今はもう、温水プール位の温度になりました。ぬいぐるみありがとう。ズっ友だょぉ……(意味不明)

 友人の誘いでオーディオショップに行った。勿論音楽、というか音の広がりは素晴らしいのだが、値段も素晴らしい。男の趣味と言う気がする。って、何故かその店でナカシマミカが流れていたのだが……。謎だ。ナカシマミカ結構好きだが、歌、上手くないだろ。曲もダンス・ハウス風のがいいと思うし、バラードとか歌い上げるのはメロディアスでいいけれど、安っぽいし。

 個性派、みたいに言われる女性・男性(アイドル的)アーティストはしばしば方向転換しようとして失敗する。やっぱりいつまでもポップソングを、ダンスミュージックを歌わされるのに疲れて、個人的にはあんまり聴きたくない路上ミュージシャンみたいなのを歌いたくなってしまうのだろうか。


 勿論すごいオーディオ機器は欲しいなあ、と思うが、その思いはそれほど大きくない。音楽ならとりあえずきければいい、って思うのもあるが、俺はガレージっぽいのとかエレポップとか、ニューウェイヴ、音響派とか、要するに多少ノイズが乗っかっているような音が、雑音がかなり好きなんだなあと改めて思う。

 雑音の中で見る夢、のようなもの。モダンエイジ、という言葉もすごい好きで80'sシンセサイザーの貧弱な音、それは妙な温かさも備えていた。手塚治虫の描く近未来都市のような、ロックマンの舞台のような、ファミリーコンピューターの、あの貧弱な音と画面に見る何かが起こるような、そんな幸福で少し寂しいような、そんな予感。

 何かが起こるような予感くらい、大切にしなきゃなと思う。ここのところ何だかセンチメンタルだった、って、いつもか。でも、それでもほんのり前向きになれる。「ラジオスター」の為の、いや、スターが大好きな俺らの為の歌。

https://www.youtube.com/watch?v=7XLE1Q2ohJ4


 高校の頃から今までに本当に何度も繰り返して聞いて、聞くたびに何だか寂しくなって、でも、いとおしいと思う。それはきっと予感、何かを好きになるようなさよならをする、かのような。これからもそういう生活がいいな、いいなと思うならしなくちゃなと思う。