君の好きな兵士

先日友人と約束して新宿の公園でシャボン。ということで家の中を整理していると、あんなに物を処分したつもりなのに、家の中に500ミリリットルボトルが五本、2.5リットル分のシャボン液があることを確認し、あまりにも自分のアホっぷりに脱力。

 てかさ、シャボンの原液ってあんま大容量の売ってるとこ少ないから、買いだめして、引越し前に消費しておこうと思ったんだけど、それでもこんなに残っていたとは!

 まあ、あまり深く考えず新宿へ、したら、ふと目に付いた家電量販店のソフトバンクコーナーに、お父さんカレーのポップが!

 随分まともにテレビを見なくなったが、ネットで記事を見たから、ソフトバンクでどの機種でもいいから携帯を見せるとカレーを貰えるサービスをしていることは知っている。以前はラーメンをしていたような気がする。

 ソフトバンクのCMの、あの視聴者にメタ視点を与えた気になって、こういうの今受けるんですよね(笑)みたいなのが浮き彫りになった安っぽさとか底の浅さにげんなりするのだが、あのヴァリエーション多さ、金のかけっぷりとかには素直に感心することがある。広告って、こういう軽薄で、目に付いて、それが本質的に求められているものだなあと思う。

 でも、犬かわいい。カレー大好き。犬カレー食べたい。

 でも、なんでこの年になって店員さんに、「俺あんたの会社嫌いだけど犬カレーくれよ」って言わねばならんのだ、わいは、日本男児じゃき、そげな真似はすかん。けどさ、犬カレー欲しいべ、ぜってー旨くねーけどさ、カレーはカレーだべ、カレー食べたい。俺の知らないカレー。犬のカレー食べたい。

 でも、俺、勇気が無かった。ちょっと、意気地なし、と思ったが、後でこんな勇気持たなくていいかもと思った。

 そんなんで、公園でシャボン。

 喫煙区域が厳しく、ショボイ滝の前で、音楽を流し、ベンチに座り、少しのアルコールと、友人がマルメンをふかしている横で、電動シャボン機でシャボンを沢山。

 せっかちで神経質な所がある俺は、リラックスすることが苦手で沢山のシャボンの背景を、ふと、公園の青々とした緑をぼんやりと意識する。いかに俺は緑を見ずに、意識しない生活を送ってきたのだろうか。それは精神的に貧しいことのように思える。人工物は大好きだが、自然だって、それなりに好きだし、とても豊かなものだ。

 ドライバーと同乗して、二人で仕事をする現場を何度も経験しているのだが、恐ろしいことに、ほぼ全ての同乗者に俺の会社から派遣されていた人間のダメっぷりに関する愚痴や自分の会社の愚痴を聞かされる羽目になる。

 というのも、俺が「一応」「最低限の礼儀」をもって仕事にあたるのが珍しいから、ドライバーもつい話をしてしまうからだそうで、

「金銭が発生しているんだから、最低限の挨拶や礼儀は必要だし、気の合う人同士でも意志の疎通は難しいのだから、その日限りの人間同士のほうが円滑な業務のために声かけをしたほうがいいし、そういう空気作りをするべきだ」

 的な、意見をちょこっとだけ口にしたり、すると向こうも安心してくれるのか、割と初対面の俺の働きを褒めてくれたり、そして、愚痴。

 仲の良い人ならいいのだけれど、初対面の人にずっと愚痴をいわれるっていうのは、正直嫌だ。しかもこのところ百パー聞かされる。しかもさあ、これって今に始まったことじゃないというか、俺って職場で仕事で一緒になった上司の愚痴を聞かされることがえらく多い(表面上は穏やかに、相手の言葉に反応をするから)ような。それとも単に俺が愚痴を言う人が苦手だから、記憶してしまっているだけなのだろうか? 皆そんなに愚痴を言って、そこまでして仕事をしたいの?

 でも、愚痴の対象になっている、礼儀作法を忘れた人、どうせだらけて働いても時給は一緒なんだから的な人ばかりを責めるわけにはいかない。だって、そういう人達は搾取対象にあっていて、色んな名目で多くない給料から金を引かれ、自尊心を保つのが難しい状態にある。

 どういう理由があっても、金が発生しているんだから、それなりに働けよ、と俺は思うのだけれど、そういった個人ではなく、社会から会社からまともな人間扱いされず、待機時間拘束時間は長く現場はあったりなかったり色んなところに回される、というのは自尊心を保つのが難しい状況にある。その構造が改善されない内は、「最低限」の礼儀さえ、求めるのは難しいだろう、って、俺、人事じゃねーから!

 しかも、そういうげんなりする現場で、休みはほぼ無しで残業までして働かされるのに、何故か会社の対面を守るためか、とっていない休憩の一時間を勝手に申請したことになっていることがほとんど。

 一緒に働く社員だって休みはない、けど、こっちは使い捨てで幾ら残業してもボーナスも保障もないし、それにさ、俺は社員が俺らが終わった後も「明日のための」仕事で帰れなくて、でも皆そんなの好きではないことくらい知っているから、俺が自分から動いて仕事をするのは、自分が恥ずかしい真似をしたくないのもあるけれど、あんたを早く帰してあげたい気持ちもあるんだよ、とか思っても、すこーしだけ口にしても、タダ働き。あんなに俺を褒めて、愚痴をこぼしていた人に「払うのは俺の派遣元だから、せめて休憩30分と書いてください」と言っても苦笑いをされうやむやに。

 でも、俺はその人らをあまり強く責められない。彼らも労働力扱いされ、搾取される側の一人だから。

 そして俺は資本主義の、人間を労働力として換算すると言うことに慣れている(俺が経営者であるなら、阿漕な真似はしたくはないが、その考えをしないと会社がまわっていかないことを知っているはずだ)。悪いことだとは、思えない。

 以前、ネットで外国人が「日本は遅刻にはすごく厳しいのに、残業はタダ働きでしかも働かせて申し訳ないという態度がないのが変」

 と発言していて、あ、と思った。日本社会の悪い部分に俺は毒されているなあと思った。「遅刻をしない」のは当たり前だと思っていたし、雇用側だってきっと「こっちは金を払っているんだからちゃんとしろ」と思っているだろう。一分の遅刻だって許さないし、給料にはペナルティがつく。でも、人を働かせるのにはその理屈を適応しない。だって、多くの人は望んだ仕事についていないから、金の為に働くのだから、契約を守れと「時間外労働は一切しない」というのも正当な権利だ。

 でもそんな風に出来る人は極まれだし、やったとしたら日本社会ではつまはじきにあう。俺だって、無用で不毛な争いなんて嫌だ。何で、話の通じない人と話をしなければならないのだろうか? しかもそんなことをしたって、嫌な思いをするばかりだというのに。

 何度か日記に書いたが、「戦争請負人」伊勢崎賢治の一連の著作
を想起する。教育を受けた人ならば「正しい」戦争なんてものはないことを義務教育期間中に知ると思うが、教育が無い地域でそれを求めるのは酷であるし、それに、日本だって、別の戦争が紛争が起こっている。自殺大国のしょぼくて深刻な生存紛争。

 世界では、現代では絶えず紛争が戦争が起こっている。それを解決するには第三者の力が必要になることがしばしばある。そしてその為には、争いを止めるとこういうメリットがあるのだと相手に提示した方が事態が収束へと向かうのだ。だって、その争い自体が「正当な、理性的な理由」で始まるなんて、無いのだから、解決も、そういうビジネスライクに行くのだ。

 (アフリカのシエラレオネの内戦について、冗長になるので割愛する)でも、人を殺しまくった側が恩情を得てそれなりの暮らしを保障されているのに、家族を失った側には何の保障もされず、しかも、家族を殺した人間と同じクラスで授業を受ける(勿論復讐は犯罪だ)という光景もみられるそうだ。

 これは苦渋の決断であり、痛ましい光景ではある。また、こういった前例が生まれてしまうということへの危惧はあるだろう。けれど、彼らが泥を被って、ぎりぎりの選択をしたことを誰が責められるのだろうか。最善が無い中で、誰かが、命を救う為に、

 それにしても少年兵、という問題はとても根深く考えさせられる。彼らはいきなり大人たちに武器を持たされ、渡された銃で隣の奴を殺せと言われる。殺さない奴は銃で撃たれ、別の奴も銃を渡されて言われる「お前もこいつみたいになりたいのか。なりたくなければ殺せ」

 こういった洗脳教育を受け、有能な少年は、殺人にためらいがなくなるし、もし、万が一生き延びてしまっても、そして万が一、更正プログラムを受けても、殺し以外のことができない。それしか習っていないから。
それをすることで生き延びていたから。

 また、少年兵についての著作を読むと、彼らが「教育の為に」麻薬を常用している、させられているという記述にあたることがしばしばある。そして「本当に」麻薬のせいで感覚が麻痺してしまった子もいれば、助かったときに、麻薬のせいで俺は人を殺したから俺は悪くないと言う子もいるという。

 少年兵の遊びのひとつに、妊婦の腹をかっさばいて、中の子供が男か女か当てるゲームがあるそうだ。彼らは明らかに痛ましい被害者ではあるが、加害者になってしまうことを、犠牲者の遺族が心情的に、どうしても許せないこともまた、理解されねばならないだろう。

 伊勢崎はゲスト出演した軽い対談本の中で、アウンサン・スーチーみたいな「人を惹きつける」アイドル的な人の「セクシー」な行いで、どうにかなることもあることもあるというような趣旨で、結局セクシーが世界を救うと発言していて、対談相手につっこまれていたが、言葉で解決できることは言葉で解決できるし、それにもまた限界はあるという現場で働いてきた人の、みもふたもなく、重みもある言葉だと思った。

 セクシーだけでも論理だけでも、人は助けられない。

 俺はラブアンドピース、みたいなイベントとかにげんなりすることが多く、それは現場で命をかけたり、相当勉強をして、「考えて」自分の職務に当たっている人がいるのに、そういう人たちに恥ずかしくないのかと思うからだ。参加する人に対してではなく、主催者側にだ。小さな努力とか、大それたことだけがボランティアであったり社会貢献だとは思わない。俺だって大したことをしてるわけじゃない(てか、人のことより自分の人生どうにかしろよと思う)。でも、自分でそれを選ぶとするなら、先人の記録を知ることは必要ではないだろうか。それが「教育」を受けられる環境にいる日本人の、最低限の心構えではないだろうか。

 ボランティアとかラブアンドピース的活動をしている人は、あまり「セクシー」ではないように見えてしまうことがしばしばあり、こちらの色眼鏡もあるだろうが、実際にそれらを原動力にしている人は社会変革と自己実現を直結するような浅薄っぷりを露呈していたり、自らの中の「メサイアコンプレックス」(これ自体を否定しきれないのだけれど)に向き合えているようには思えなかったり。残念なことにフェミニストはブスばかり、なんて意見には当てこすり以上の重みがある。コマーシャルの為には民衆にアピールするには、美しい、かっこいい、幸福なロールモデルを提示しなければならない。人は優れたものにしか惹かれない。普通に暮らしているならどうだっていいけれど、それを仕事にしているならば、何かを変えたいならば、セクシーであることは求められてしまう。

 伊勢崎は何でこんな危険な仕事をしているのかという問いに「奥さんにかっこいいと思われたいから」と答えている。面倒でセンスの無い、しかも繰り返される質問へのクリシェであるとも思うが、半分は本気だと思う。そう、好きで、プライドをもってやっているのだ。「えらいひと」なんていない。でも、そう言って行動に移せる彼は、かっこいいなと思う。

 同じように、かっこいい人としてマザー・テレサの言葉を思い出す。彼女は「貧しい人が、傷ついた人が求めているのは哀れみではなく愛なのです」と説いた。そして無関心ではなく、愛情をかけてあげることを説き、
「神様は私たちに成功してほしいなんて思っていません。ただ、挑戦することを望んでいるだけよ」
「善い行いをしても、おそらく次の日には忘れられるでしょう。気にすることなくし善を行い続けなさい」
「人は不合理、非論理、利己的です。気にすることなく、人を愛しなさい。」と言う。

 キリストは好きだが、キリスト教はばからしいと思う俺が、そして、愛についてさっぱり分からない俺が彼女の言葉に深く感銘を受けるのは、彼女が愛が一般的に考えられる、契約や幸福ではなく、愛とはもっと厳しく、そして求めてしまうということについて語っているからだ。そして、後年には彼女でさえも神への愛に迷ったという内容の記録が残っていたとしても、自分のプライドを持って、自分の人生を全うしたということだ。

 そんなことを考えながらシャボンをしたら、もう、スゲーリラックスできねーし。ipodでショボイ小型スピーカーでハウスミュージックを流しながら、俺は社会や政治や仕事よりもずっと、ゲームと芸術が好きだなあと改めて思った。「最低限の礼儀」をもって。好きなことをみんなすればいいと思う。それが難しいとかは問題じゃない。

 グレゴリオ聖歌と、ケチャガムランとハウスミュージック。そして友人の副流煙。それがそのときの俺のリアルで、どうでもいい大切な時間。俺も早くくだらねー兵士になりたいな、もうなっているかなと思う。どうせ死ぬし、それまでは楽しくね。