いつだってモダンエイジ

猫背がひどくって、肩がこり過ぎていて、しょうがないから視線を上げて、空を見るようにしている。今日は風が強く、雲が大きく動いて見ていて気分がいい。雲の写真、というか自然の写真なんて下手に撮るほうが難しかもしれないが、スティーグリッツのイクィヴァレント、流れる雲たちはまた見たいなと思う。絶え間ない記録の楽しみ。単純なもので、風の強い日には、気分が高揚するのだ。

 上を見るようにしていると、渋谷の広告で、今日発売のGTAVの広告が、センター街中心に8個もあってびっくりした。GTA(マフィアの手先とかになって、犯罪行為とかしまくるゲーム)に渋谷ジャックされたような、

って、GTAV、即行でギネス記録六個も更新したそうで、



24時間で最も売れたアクションアドベンチャービデオゲーム
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だそうです。すごいなあ。初日で世界中で一千万本売れたゲーム!! みんな人殺しまくりたいんですねー!! (もちろんそれだけのゲームではないし、犯罪との関連性は極めて低いと思うのだが)って、多分作りこまれすぎた、ハリウッドのノワール映画の中の登場人物になれるなんて、素敵なことだろ?

 でも、それに反して、旧東急近くの六連広告パネルの五個が広告募集中の真っ白で、少しびっくりした。こんなことって、あまりなかったと思うのだけれど。

 広告、は元気ではないのかもしれない、景気は悪いのかもしれないけれども、ヒルズのけやき坂通りの中ほどに、○国大嫌い、日本大好き(なふりをした)国籍だけは日本人(だと思う)の人らが元気たっぷりにお得意の演説をしていて、しかしヒルズに来てそんなのを聴きたい人がいるわけがなく、数人の警察官が聴衆になって、マークしていたのがおもしろかった。

 この付近は大使館が非常に多いし、○国、○国大使館があるから、街宣車がとても来る。って、最近リニューアルした○国大使館、超きれいでびびった。近未来の建造物みたいなの! 鏡張りのかっこいいデザインで! 俺の知る限り一番素敵な大使館の国と一番いがみ合っている、っていうのも、おもしろい、のかな?

 もういい加減観念して、エヴァの序、と破の二作を見ることにした。

 のだが、いくらアニメ版のリメイクだとはいえ、何だか肉料理ばかりのコース料理のような気が。映像は勿論現代版に、迫力があるものになっていて楽しめたのだが、どうしてもテレビ版よりも尺が足りないから、テンポよく話が進む、つまりちょこちょこはしょられた(はずの)部分がどうしても気になってしまう。

 だって、シンジ君が、登場人物がぐじぐじするのがエヴァなんじゃあないのか、と思っているのは中学生のころに見た俺の凝り固まった考えなのかもしれないのだが、でも見ていくうちに、やっぱり何だかわかりやすく、でも陳腐になっているような感じがしてきてしまう。

 余計な時間というか、テンポが良すぎてなにも感じられない、というのはゲーム版の忠実な再現をしたアニメ版ダンガンロンパにも感じられたことで、ダンガンロンパの場合は、閉じ込められた閉鎖空間での殺し合い、からの脱出が大きな問題としてあるのだが、その中でプレイヤー(主人公)は殺人現場の捜査や犯人探しを毎回することになる。

 そういった「画にならない、なりにくい」捜査や会話の積み重ねがクライマックス(生死を決める学級裁判)の盛り上がりを生むのだが、このアニメ版の監督は、ゲームの忠実な再現にこだわり、その積み重ねを切り捨てた。結果、(特にゲーム未プレイ者は)よくわからないけれどいろんな人がわーわー叫んで刺激的な映像が流れる、という超豪華な「ファンアイテム」的な作品になってしまった。

 エヴァもこれに近いものを感じてしまった。「新しい」のではなく、超豪華ファンアイテム。

 いや、でも、エヴァの場合は映像もすごいから、それでもいいのかなあとか、だってこれ未だ「序」だしと思っていたのだが、次の「破」を見て、がっかりしてしまった。

 新キャラの投入が単なる必然性の感じられ無い萌えキャラにしか思えず(しかも与えられたのは頭よさそうなメガネ萌えキャラがラッキースケベ、不自然におっぱい揺れる描写、みたいなどうでもよすぎるシーン)、そのせいかアスカが尺を削られて、単なるかませ犬ツンデレ萌えキャラになり下がっていて、代わりにレイがヒロインっぽい感じというか、「人間的」になっていて、これでいいのか、いいのかなあ、と複雑な気分になった。

 だって、単なるラブコメになっていたんだ。別に、ラブコメでもいいのかもしれないし、俺が原作を美化していたのかもしれないのだが、でも、何もかもが都合がよすぎる展開に思えてきて。なんか、「セカイ系」とか、そういう気持ち悪い単語さえ浮かんできてしまった(エヴァがその元祖ともいわれているけれども)。

 セカイ系、とかいうのがすごく気持ち悪いのが、自分と恋人(女の子)の恋が世界の終わりとかと結びついているというすごく自己愛や全能感に満ち満ちた設定で、大きな機械を操縦できる少年(ヒロイン)の愛が世界の決定権を握っているって!

 こういうのが気持ち悪いのは、強すぎる自己愛の為に、障害が全部あて馬でしかないことだ。いや、別に俺の好みでしかないというか、エンタメって要するにご都合主義なのだけれども、それでも、主人公(ヒロイン)すごいの太鼓持ちとあてうまだらけの世界を見て、何が面白いのだろう、と思ってしまうわけで。だってさ、100メートルを五秒で走れる中学生の「シリアスな人間ドラマが展開する」陸上漫画って、見たい?

 なんか、この映画で悪趣味とかではなく、単に絶望的にセンスが悪いと思う某合唱曲のシーンとか、「僕強いし、僕は僕(が好きになった君)が大好きだよ」ってことなのかなと感じてしまった。

 でもなーこれ、Q(不評らしい)で色々違う展開があるそうで、それも見てからちゃんと感想書かなきゃな、と思いながら。こんなグダグダした気持ちでエンタメを楽しむのってどうかなって思った。

 俺はエヴァを楽しめなかった、ってそれだけだ。映画は多くの人にとって受け入れられたのだろうし。元々ファンもなかったのだし。でもなー俺、テレビ版の弱くってぐじぐじしていても戦う(描写がある)シンジ君たちが結構好きだったんだけどな。

 でも、新しい東京の映像はやっぱカッコ良くて、これをアニメで見るだけでも、この映画を見る価値はあったのかもしれないとも思う。

 都心から離れた工場地帯に行くと、大きな団地と工場ばかりが並ぶ、だだっ広い道路の街を目にすることがある。唯一の娯楽施設は大きなショッピングモール。他には何もない。

 恐ろしい近未来都市。こういう街並みをみてげんなりするような、不思議な気分になるのは、これは金儲けの資本主義のどん詰まりを突き付けられているような気がしてしまうからだ。同時に、変な清々しさも感じてしまうのだ。

 中学の時に英語の先生が共通語、エスぺラント語が流布しなかったのは、つまりその言語が文化を欠いていたからと説明してくれて、その時はなんとなくしか分からなかったが、しばらくたって、それの意味を知ることになる。

 ばかでかい団地だけが並び、大きな道路と大きな工場、大きすぎるショッピングモール。ここで、何か文化が生まれるとは思えない。余計なものが入り込む隙間がない。

 アメリカ産のTRPG、D&Dサプリメントの一つ、近未来、サイボーグ社会を舞台にした中で主人公たちの職業の一つに「コーポレイト・ゾンビ」というものがあった。ただの、いや、多くの人がなりたいた、正社員、健康的すぎる善良な会社員にこういう名称を与えるのは、けっこういい趣味しているなと思う。日々の繰り返し、他人の悪口とアルコールとポルノ。繰り返し。

 団地育ちではない俺が言うのも多少気が引けるのだが、安野モヨコの漫画(未完)で、安野自身が団地育ちだそうで、団地育ちの主人公たちが大きな団地を見上げ、

「ここが自分の田舎だって思うと 正直ちょっとヘコむよね」

 といったような台詞を口にする。俺も、それにとても共感してしまった。

 一つのところにとどまることすらできないくせに、何を、団地のことなんて知らないのに、俺は共感してしまっているのだろうと思う。どうしようもない風景について、勝手に変わってくれる、風景について思いを馳せる。


 


旅に出るのは、確かに有益だ、旅は想像力を働かせる
これ以外のおのはすべて失望と疲労を与えるだけだ。僕
の旅は完全に想像のものだ。それが強みだ。
ひとも、けものも、街も、自然も一切が想像のものだ
小説、つまりまったくの作り話だ。辞書もそう定義している。まちがいない。
それに第一、これはだれにだってできることだ。目を閉じさえすればいい。
すると人生の向こう側だ。

 セリーヌ第一次世界大戦中を舞台にした、自伝的な小説、「夜の果てへの旅」を再読する。上下で800ページを超える、とても素敵な本。




ことの起こりはこうだ。いいだしっぺは僕じゃない。とんでもない。

 ではじまる冒頭だけでひきつけられてしまう。悪罵も呪詛もユーモアも彼は連れて戦地を駆ける。そしてどうしようもない倦怠、下らなさ、発狂。



それから僕は病気で倒れ、発熱し、発狂したのだ、病院の説明では、恐怖が原因で。考えられないことじゃない、そうじゃないか、こんな世界にいる限り、一番いいのは、そこから抜け出すことじゃないか? 狂気だろうと、恐怖だろうと、かまっておられるか


 この部分で、ふと、ウニカ・チュルンの『ジャスミンおとこ』を想起して、これもまた読まなければと思う。現実の為の夢想の為の記録について。自分にはそれが必要だと思うし、流れる雲のように風が身体を撫でて行くように心を穏やかにしてくれる。

 どんなものであっても繰り返しでしか生まれないものも、繰り返しがあってこそ、生みだされるものがあって、マラソンランナーが毎日ランニングをするように、俺もしなければならない、していることがあって、気持ちがいいし、さっさと終わってくれと思う。いい気分になる。飽き症の俺は、飽きてしまっても、それにも飽きることができるだろうから。同じことばかりするとうんざりするし、違うことばかりなんて、誰も生活ができないのだから。

 俺にとってのセリーヌ、ウニカ・チュルンが、誰かにとってエヴァだったりGTAだったりするのだろうなと思う。知らない景色を見せてくれる。知らない景色が自分の前に広がっているのなら。目を、閉じられるのならば。

 でも、少し、肩と胸と頭が痛くなって、少し、やすんでからまた少し。