コーヒーアンドシガレット

 最近アマゾン先生では買い物を控えているというのに、何かの不在通知。受け取ると、なんと、すっかり忘れていた懸賞の当選の知らせだった!

 ほんの少し、「まさか」と思いつつも、少し、わくわくして中を見ると、なんと、中にあったのは、柔軟剤の香り(!)のする、某柔軟剤とコラボした新製品らしきガムが箱にみっしり。

 観念して口に入れると、まずくはないが、買いたくはない味だ。それに、俺、口の中がべたべたするから、あまりガムは好きではない。って、なんで俺、これに応募したのか全く記憶にない。捨てるわけにもいかないし、人にあげられるようなものでもないし。どうしろっていうんだろう。

 やまだないとのコーヒーアンドシガレットを再び買った。六十ページ少々のオールカラーのこの本を、なんで俺は売ってしまったのだろう、覚えていない。

 でも、欲しいものも手放したものも、大抵、こうして手に入ってしまうのだ。大抵、それは本で、俺は希少本に興味はないから。それがいいことなのか、そうでないかは、分からない。

 この本の主人公、名前のない「彼女」は、カフェで煙草と甘物を前にして、


とても正直にいえば

男友達なんて言っちゃうと
すごく心が通い合っているようで
気が引ける

通い合うほど心を見せてくれないし
見せてくれと興味を持つ人もいないわけだから…

「男の知り合いは何人かいます」

「でも」

恋人がいなけりゃ
知り合いなんて何人いても同じだけどね



 と考えている。彼女はカフェに、煙草に、食器に、花に、コートに、ホテルにほのかな愛情を感じていて、それらを彼女は「思い出」と表現している。すぐに、手を離れ、「思い出」になる。

「そして彼女の眼や指にのこった、それは思い出

 懐かしさは、それが確かに存在した証拠」

 電車に乗らない日があってもカフェ・喫茶店に行かない日はない、と言い切る彼女は、しかしカウンターに座るのもマスターに好みの「豆」を覚えられるのも、オサレな店のスタイルを押しつけられるのも、常連さんになってしまうのをいやだと思っている。

 名前も知らない誰かが、彼女の為に淹れてくれたコーヒーを、その他大勢の中の一人が良いと彼女は考えている。

 俺はコーヒーも煙草も口にしようとすればできるけれど、好みではない。でも、彼女のような感覚はすっと、身に入ってくる。寂しいわけでもないけれど、寂しくないわけでもない、ような感覚になったりして。大切な雑踏の中の一人の時間。

 リラックス、というのが俺はとても下手で、この「彼女」だってどちらかといえば下手な方かもしれないけれど、俺よりかはずっとぼーっとするのが上手いような気がする。

 立ち止っているような余裕はないのだけれど、俺も少しは、身体を雑踏に任せなければと思うのだけれども。


 リラックスするために、というわけでもないが、軽めの、ドキュメンタリー映画を二本。

 オランダ絵画の巨匠、フェルメールレンブラントらが残した傑作の数々に大きな影響を与えた、独特の陰影を持つ自然光“オランダの光”を多角的に検証する長編ドキュメンタリー。


『オランダの光』という題名そのままの内容で、でも、見始めて要するに、この監督は「オランダの光は特別だ」という認識に合わせて事実を列挙していく、というドキュメンタリーとしては強引で貧乏くさい手法を撮っているのを感じてしまう。どこの国の「光」も「自然」も、それぞれ、特別なものじゃあないかと、ある瞬間まで光は生きていたとか、ケージの感覚的すぎる発言を何度も引用するのも、みっともないように感じた。感覚で撮られた、いい風景の中の、こじつけのナレーション。

 なのだが、映像はジャームッシュのようにヴェンダースのように美しく、つまり感傷的にちょっと気のきいたスナップショット、ポストカードのように景色を捉える術は心得ていて、彼らの映画はあまり肌には合わないにしても、映画としては文句をつけにくい、つまり美しい映像の前に、ナレーションなんてキャプションで歴史の中でのみ自立できる現代美術のようで、残念な気持ちにもなってしまう。


 でも、フランス映画の、パリ自然史博物館の動物学ギャラリーに密着したドキュメンタリー。長らく閉鎖していたギャラリーのリニューアルオープンに向け、4年に及ぶ大改修を行った現場を捉える。『動物、動物たち』というドキュメンタリーはとても好みだし、出来の良いものだった。

 淡々と、ギャラリーに密着した、そう、ドキュメンタリーなのだ。観客の思考を誘導しようと、余計なナレーションなんていらないのだ。剥製の骨組みの展翅盤の上の動物や昆虫たちの「お着替え」と、作業する人の声。

 素体(という言い方が適切だろうか)に皮をかぶせるとか、白い像には刷毛で鼠色の肌を作ったり、吊るされた大きな骨の模型をねじで留めたり、野性動物だったものの腹の中におがくずをつめたり、小さな緑色の鳥の羽をピンセットで優しく修復したり、普段では見られない光景の数々に言葉なんてなくても、ちっとも退屈しなかった。

 紙でできたジオラマを前に、彼らは動物の並びについて意見を交わす。そう、動物園ではない、動かない、閉じ込められた動物達。彼らはそれらを配置する。

 ラストも動物達を並べ終えたらおしまいで。客の入りとかを描写しないのがとても潔くてよかった。まっとうな、誠実な観察、つまり優れた、軽く見ることができるドキュメンタリー映画

 ふと、テネシー・ウィリアムズの『ガラスの動物園』を想起する。でも、このドキュメンタリーとはかなり離れた内容だけれど。それに勝手な好みでいえば『欲望と言う名の電車』の方が好き、というか、映画版のヴィヴィアン・リーマーロン・ブランドの演技がすごく素敵で。ヴィヴィアン・リーの正に女優、って感じの説得力のある情熱的で力強い演技、そしてマーロン・ブランドの、粗野ではあるのに、どこか甘い、セクシーな存在感。わくわくしてしまう。こういうのが、好きなんだなって感じてしまう。

 何だか、本当に俺はぼーっとするのが苦手なんだなと思う。休暇をヴァカンスを午睡を楽しむという才能に欠けている。

 数年前に、友人と剥製屋さんに行って、俺は剥製を色々見て回りたい気持ちがありながらも、「商品」に染みついた、店内に充満する、獣臭さと薬品のにおいが混じりあった何とも言えない臭気にやられて、すぐに店を出てしまった。

 本当は色々観察がしたかったのに。でも、どうしてもあの臭いをかぐのは、耐えられなかった。

 その点昆虫の標本はにおいがしないのがいい、のだけれど、店内に並んだ。箱の中にいる、針を刺されたままの彼らを見ると、刺される瞬間の、死体になった彼らのことを、彼らに、慎重にしかし(きっと)嬉々として身体を貫く人の指先のことを思う。ちゃらんぽらんな俺は剥製に天使に展翅盤に、それらを愛する人々と何だか感覚がずれているようにも思うのだが、俺にもそれが少しは分かるようになるのだろうか。リラックスの為に。ぼんやりと、懐かしさに思いをはせるために。

 そのためには多分、コーヒー アルコール シガレット