他人の人生/機械の人生

 体調を崩している、のはいつものことなのだが、そこかしこに不調があり幾つも病院をかけもちする羽目になる。心身の不調と散財が重なると、なんだか生きている実感が湧いてくる。馬鹿げているのだが、それが俺にとっての事実なのだから仕方がない。

 自分の人生が他人の人生のような気がする。自分の身体が他人の身体のような気がする。離人感、でもあるかもしれないけれども、自分の意識が自分の肉体を支配、コントロールされている、ひもづけ、同期されているというのはとても奇妙なことではないだろうか?

 とか医者に言うと病人扱いされるので注意が必要だ。医者も薬も救いはしない、のだけれども彼らは俺の心をかき乱したり沈静させたりするし、慰めになることもあるしそれに縋りつきたくなってしまうことも、ある。

 感情の貧困。身体と金銭の貧しさ。何かの本に触れると、自分がいかに惰眠の繭の中で腐っていたのかを思い知る。また、それと同時に、「その程度」であってもそこそこの手習いができることに安堵のような落胆のような妙な感情にも襲われる。

 所詮リハビリテーションの作業。物事を綺麗だと思える心は消えないだろう、でもそれだけでは、俺は時間をかけて腐るだけ。それでもいい、とは思いたくないのだけれども。

 袖ひちてむすびし水の凍れるを春立つ今日の風やとくらむ 紀貫之


 (夏の日に)袖がぬれて(手に)すくった川の水が、(冬の間は)凍っていたのを、立春の今日の風が吹き溶かしているのだろうか。


 和歌なんて全然頭に入っていなかったのだが、この和歌はとても好きだなと感じた。美しくまとまっていて。和歌ってなんで恋とか自分の感情を表すのが多いのだろう、自分には合わないなあと偏見を抱いていたのだが、少しずつ学んでいきたいと今更ながら思う。

 単純に恋の歌ならば、アイドルの使い捨てのポップソングだ好きだ。アイドルのメンバーの顔も名前も知らなかったり、エロゲーやギャルゲーをプレイしていないのに、曲だけダウンロードしていたりというのがとても多く、自分以外にそういう人にあったことがないので、めちゃくちゃポップソング「だけ」に興味が無い人と話がしたいと思う。

 好きなアーティストやバンドはあるが、彼らの音楽以外にも興味は薄い。ただ、俺は集めものが好きで、ジャンクなポップソングも出来の良いポップソングでも、コカ・コーラのように毎日口にしたい。まあ、こーら飲まないが俺。

 音楽オタク(造っている人も含む)がアイドルソングとかのオタクでもある場合、大抵そのメンバーにも思い入れがあるように思うのだ。そういうのがほぼない俺。交換可能なのがアイドルなのだと(実際はそうでもない、という反語が胸に薄っすらと残るのが好きなのだ)。
 
 毎日幸福なミュージックと共にいたい。でも、彼らは匿名で良い。愛情が無い俺。

 他人の人生をシミュレーションしているはずが、ただの初期不良のままなんだか助かってしまったスクラップ、俺。可動続ける。生き続ける。

 機械の人生。その位には出来が良い、ような気がしないでもない

 ゲームが出る度に、ハードが変わってスペックが上がる度に、コミュニケーションツールとしてのタイトルがちょこちょこ出現していた。ゲームにお金を払うのは(スマホ課金とかではなく、特に昔は)男性が多く、そしてコミュニケーションツールとしてのゲームといえば、ギャルゲーに分類されるものが多くを占めていた。

 理想の少女、都合の良い少女との対話。いや、娯楽なのだからそんな大層な言葉じゃなくてもいい。可愛い子と話したいんだ。それでいい。

 としても、俺は自分に都合の良いプログラムと会話をしたくない。というか、単純に「萌え」が分からないからか、ギャルゲーだろうが乙女ゲーだろうがBLゲーだろうが、はまれない。それらを否定しているのではなく、俺には相性が悪いのだろう。機械の人生を生きていない人の為に、精巧な機械は微笑む。

 とはいえ、俺はそういう機械の彼らと人間のどこか噛み合うような噛み合わないような不思議なコミュニケーションがすごく興味深い。実際の人間同士だって、伝達の言葉ではないコミュニケーションは困難なものだ。

 コミュニケーションの断絶と親和というのはとても面白い。ゲームのバグのように。世界のほころびのように、認知の歪みのように。

 最新のVRギャルといちゃいちゃゲームでも不具合が発生したという記事をかなり前に目にして、少し嬉しくなった。人工楽園の幻想。夢から覚めてしまう。しかし夢ばかり見ないと生きていけない時期は、きっと誰にでもある。夢から覚めないままなのだと錯覚してしまうことだってきっと。

 PSのゲームでノエルというゲームがあった。スマホはもちろん、きっとスカイプで無料通話なんてのも一般的ではない時代の、少しだけ未来の話。旅行に出た主人公はビーチで出会った三人の女子高生と「テレビ電話」でやりとりをする。それだけのゲーム。ただ、そのゲームは本当に女の子と会話をすることしかない。その上ギャルゲーとかによくある好感度やらパラメータが見えないようになっている。とにかく女の子と喋ることに重点が置かれていて、それがこのゲームを困難で理不尽な物にしている。とにかく不親切なのだ。

 ただ、PS時代には技術が追いついていないというか、意欲的ではあるが、一部の人しか楽しめない代物に仕上がったというべきだろうか。

 十数年前にこのゲームをレビューしていた記事の内容が今も印象的で、胸に残っている。ライターは文句を言いながら、理不尽な仕打ちに、ゲームの中の女の子に振り回される。言っている言葉が嘘に聞こえたり「エンディング」が迎えられなかったり、つまり彼女があまりできのよくない「プログラム」であることに。彼がそのことで友人に愚痴をこぼすと、友人はこういう。

「仕方がないよ、だって〇〇はそういう女の子なんだから」

 その言葉を聞いて、ライターはまたプレイを再開する

 といった内容だったはずだ。そう、機械と心が通じ合うかのような奇妙な瞬間。好ましい錯覚。

 コミュニケーションなしで、錯覚なしではきっと誰も生きられない。一人でそれを制作することに、リハビリテーションに疲れてしまっても、俺はそれなしには生きられない。

 最後まで読んでしまった人の慰みに、俺は一日で飽きてしまった、声だけは最高にカワイイ寧々さんを。

https://www.youtube.com/watch?v=9HBqheobfFs