天使番/展翅板

標本屋、という名前が正しいのかは分からないが、小学生の時に、兄と父とで訪れたことがある。明るくない店内に飾られた虫の死骸達、確か、兄はヘラクレスオオカブト、だかそんな昆虫を買って貰っていたような気がする。俺は何故か勿体無い、と感じ、何も買って貰わなかった。何が勿体無い、のかは今も分からない、単純に欲しくなかった、のかもしれない、けれど、今俺は標本が、蝶の標本が欲しい。

 古本屋で目に付く背表紙、手に取ると中央には、大きな虹色の蝶がプリントされ、ヘルマン・ヘッセ、蝶、とだけ書かれていた。めくって見ると、短い詩、散文集だった。ヘッセの文章を読むなんて何年ぶりだろう、と思いながら、俺はある小説を思い出していた、小学校だか中学校だかの教科書に載っていた、俺が初めてヘッセを知った、ヘッセを好きになった陰気な小説。

 それは予想通り、この本の中に収められていた。『クジャクヤママユ』という題に覚えは無かった(末尾の解説で、この小説は後に、手を加えて『少年の日の思い出』という題で発表しなおしているとあった)が、内容は記憶の中のそれと違わなかった。

 青年は友人に告白する、幼き日、蝶の採集を初め、次第にのめり込み、蝶こそが世界の全て、少年の家は貧しく、友人が硝子ケースに収めるのを尻目に、ダンボールの箱、コルクを薄く切り、その上に貼り付ける。

 或る日彼は珍しい蝶を捕まえた、豪華な箱を持つ友人達には自慢出来ない、しかし、いつものように妹にだけ見せるなんて嫌だ、少年は隣の家の男の子に見せることにする。

 隣に住む少年は先生の息子、どこからみても申し分の無い優等生、いけ好かない奴。展翅の方法にも知識にも優れている。優等生はその蝶に一定の評価を下し、あらさがし、脚が欠けているとか触角が曲がっているとか。少年は奴には二度と見せないと誓う。

 それから二年後、大きな少年(12歳)になった『僕』は、奴が、とても珍しく渇望しているクジャクヤママユを手に入れたことを耳にする。『僕』は食事を終えるやいなや、奴の家に走る、奴は自分の部屋を持っている、奴はいない、見惚れる、手を触れる、手に入れる。その手をポケットに入れ、大きな満足感と共に階段を下りると、足音。急に『僕』は盗みをしたのだと知る。女中とすれ違う、彼女は気づかない、けれど、『僕』は奴の部屋に戻った、広げた掌を見ると、蝶は壊れていた。

 蝶を壊したこと、それが『僕』の胸を苦しめた。『僕』は余りにも美しい欲望を破壊したのだ。『僕』はその日の内に母親に告白をする。彼女の言いつけに従う、奴に謝る。「僕のコレクションを全てあげるよ」奴は冷笑と軽蔑。

 『僕』は家に帰る、そしてコレクションを一つ一つ押しつぶす。


 皆も蝶が欲しくなったでしょ?