水や雨や涙や油

石川忠司のレヴュー、評論集『文学再生計画』を読む。『極太!!思想家列伝』もそうだけれど、彼の本は「コイツかっこいいだろ?」みたいに語りかける熱気を感じるから、わくわくするのだ、その本を読みたくなるのだ。丁度前日に同じくブックレヴュー、堀江敏幸の『本の音』を読んでいて、その対照的な中身にも楽しめた。堀江の選ばれた、整列した言葉は静かな熱意を伝えてくれる。今の俺には石川の方に元気を貰ったけど、元気ない、無かったから、そんな時は「ノリ」を感じられる文章が恋しいのだ。

 以前石川が鈴木清剛と対談した時に、鈴木が石川さんは違うけれどと断った上で「批評家、評論家の人はこの要素が足りないとか、足し算引き算みたいに考えている」「この人は本当にその本のレヴューがやりたくてやっているのか」といったようなことを語っていた。このような形で鈴木の発言を記憶しているのはつまり、鈴木の意見は俺が抱いている疑問と同じだったのだ、そして、鈴木の発言の本意からは多少外れているかもしれない、でも、調べて確認しません。

 それで、やりたい時だけ仕事をしたとすると、どうだ?何かに従事するタイプの職業は成り立たなってしまう。怠惰な精神への一喝と言えば聞こえがいいが、誠実な人だって発言を控える時には、沈黙を選択する時には怠惰を感じているのではないのだろうか?

 浅田彰は対談や特集記事等への寄稿はしても、新作は書かない。そして、彼は間違わない。俺は浅田に肩入れしていることを自覚しているが、その上でなお彼の「間違わない」ことは揺るぎが無いはずだ。間違わないとは、要するに「ダサい発言をしない」ということだ。誰もが喋り続けていれば書き続けていれば、意見の相違という意味ではなく、アレ?と思うような発言をする。俺は浅田の「アレ?」を無意識に探そうとしていたのだが、それは叶っていない。良識と知識は明らか、しかし情熱が有るのか無いのかさえ感じさせない、ミネラルウォーターのような不純物の極めて少ない文章と彼の態度。それは批評家、評論家のもっとも優れたタイプの一つと言っても過言ではないはずだ。

 とか言いながら、俺は浅田(みたいな人)よりも石川(みたいな人)の今後に期待をしている。石川も浅田と同様、著作が少ないのが残念だが、彼は間違いを恐れていない、それよりも「気持ちいいだろ?カッコいいだろ?」って言葉を優先している。不健康な若者(俺)は、浅田を目指してはいけないような気がする(まあ、俺、目指してはいないっすけど)。流れる水に憧れるのは、爆発した後でも遅くはないのだ、かっこいいことばかり、考えるのだ。