感傷教育

体調と気分が揃って優れない日には、センチメンタルが身体の中でくすぶって、疫病のように俺を苦しめる慰める。

 早くノルマをどうかしなきゃ、と考える、ノルマ、文章を読むこと或いは書くこと。でも、何故か瞳が活字を拒否し始めていて(ブルーベリー摂っているのに)、しかも感傷的な俺、なんかでは小説を書けない。小説を書くなんて、酷くセンチメンタルな行為だから。このままセンチメンタル過剰な小説を書く位なら、涙を流すか寝ている方がましだ。

 清水アリカの処女作『革命のためのサウンドトラック』を期待しながら読む、期待は裏切られる、けれどそこそこ面白かった、というか、センチメンタル・コンプレックス・シンドロームの今の俺にはあっていた、ロック少年やカメラ少女達の陰気爽やか物語。

 清水アリカ中原昌也の本の解説を書いていた。石川忠司が褒めていた。きっと彼の書くものはノイズみたいな文章なんだ、と勝手に思い込んでいた。でもそれは美しいノイズだった、U2とかコールドプレイを連想するような(ってあんま知らないけど)美しいノイズ、それはアレゴリーやシンボルの戯れであり、小さな狂気と普通の人の話、しかもこの小説には超越者も出てくる、勝手に期待していた俺は少し落胆する。

 中原昌也は汚いノイズだ、頑張って、雑音にならない程度に汚い音を出している。どちらかと言えば、俺は中原の文章の方が好みだ。美しい音楽は、耳障りがいい文章は素敵、だけれど沢山ある。俺は人間が美しさを内包していることを知っている、だから余計な要素なんてなくてもいい、ノイズはノイズのままが一番恐ろしい、小説は人間らしきものしか存在しないことが恐ろしい。

 油断していると感傷は身体の穴という穴から漏れ出す。(当然のことだが)純粋なノイズにはなれない俺は彼/彼女とこれからも付き合っていかなければいけない。多分俺は自分の感傷が過剰で、他の人の感傷に過剰反応しているのだと思う。これから先、俺は他人の感傷に、都合の良い神様にきちんと挨拶が出来るだろうか?分からないけれど、いつかはしなければならないと思う、きっとそうしたら、どんな時でも会話が出来るようになるだろう。