アメリカの友人/リハビリテーション

仕事先が暇で、一人黙々と単純作業を繰り返していた。ふと、今自分がリハビリをしているような気分になった。リハビリ?リハビリって何のことだ?確か元の意味は再生だったと思う。あと欠損がある人が適応するための訓練、訓練?何が?アルバイトが訓練?そんなに適応したいのか?したい、しなければ生きていけないから。多分、俺はゆるいリハビリ人生の途中。

 アメリカの文学がどうも肌に合わない。アメリカ人の小説にはどうも湿気が感じられない、息づかいも逡巡も。そんな俺に年上の友人が教えてくれたのがコーマック・マッカーシーポール・ボウルズだった。友人は俺の好みを知っているわけではなく、たまたまその二人を紹介してくれただけだったが、その二人は俺にとってアメリカの友人になった。

 かといっても、俺は熱心なファンというわけでもなく、マッカーシーは(邦訳されているのは五冊位しかないし)芳醇な、美しいアメリカ、大陸、人間を書ける所に惹かれ、またそれが俺の食指を鈍らせる。

 逃走する、失踪する、停滞するボウルズは俺の性に合っている、と思いきや、大好きな作品、と言って思い浮かぶのは短編『コラソン寄港』長編『シェルタリング・スカイ』位のもので、彼の他の長編は単に冗長な気がして好みではないし、短編もボーヴォワールの小説のような、機知の投げあいといった風のスマートなやりとりはあるけれど、大好きとまでは思わない。

 思わず否定的な流れになってしまったが、少しでも褒めている時点で、俺の好みなのだということだ。好きじゃないものなんて言葉にしない、しない方がいい。逆に好きなものならば話は簡単だ「イエーイ」でも十分、その点アメリカの友人達は俺にとって手ごわい。いや、でも、ボウルズの『コラソン寄港』はとても好きな作品で、あれが全集の最初に納められていたから、俺がボウルズを好きになったのかも(それ以外の作品が多少色あせて見えたのかも)しれないのだ。

 粗筋はこうだ、新婚旅行中の二人、その途中で男が一人黙って汽車に乗って軽やかに無目的に揺られていく、あれ?きっと細部は違うような気がする、はは、大好きなはずなのに、忘れてるよ、忘れてしまったよ。

 旅行の人生の中絶の途中、鮮やかな寄る辺無き逃走、そのイメージだけが美化され、俺の脳内で、光を反射する廃油のように輝いている。俺に廃油のように美しいボウルズや自然のように美しいマッカーシーを教えてくれた友人とは(俺のせいで)もう会うこともないだろうけれど、そのことに思いを巡らせると、寂しく嬉しい、こんな考えをする俺は多分ゆるいリハビリ人生の途中。