『loveless』

公園でマイブラ聞きながら本を読んだ。本を読むのもそうだけれど、マイ・ブラッディ・ヴァレンタインを聞けるのが嬉しい。美しいノイズは青少年の健康や不健康を助けるのだ。悪い時期に聞くと死んでもいいのかもしれないってことに気づいてしまうだろ?

 初めて読んだ清水博子の文章におや、と思い調べてみると、彼女は処女作の『街の座標』で賞をとった時に二十九歳だった。これが出たのが1997年、一体何を言いたいかというと、彼女の文体は金井美恵子を想起させたのだ。若い作家でこういう人(きっと俺が知らないだけでいるんだろうけど)はちっとも目にしなかったから、少し驚いた。

 金井美恵子を想起させる、息の長い、冗長なようでいながら無駄の無い文体(阿部和重は冗長で無駄のある文章だと思うが、筆力を感じる、ので、あまり文章自体は美しいとは思わないがそれでも読んでしまうし、スゴイ、と思う。印象批評に堕するような「この文章は美しい」という恣意的感覚を俺は大事にするし批評家にもそれを求めるが、これが乱立するなら批評は用無しになってしまうだろう)、俺の好みの文章。

 次に『処方箋』という作品を読んでいる最中に、何故か途中で飽きてしまった。アラン・ロブ・グリエの小説を読んでいるような倦怠を覚えた。

 金井美恵子は映画に深い造詣と熱意があり、作品の中でもそれはしばしば顔を出す。登場人物の何人もが、一部の人しか知らない、言及しないような芸術の話題を口にするのは不自然だとも思うが(漫画家フレデリック・ボワレのストレートな映画への愛情は、見ているこっちが少し恥かしくなってしまうけれど、好きだ)会話のテンポの良さでそこまで気にならない。

 清水博子に好きな物は、狂うほど好きな物はあるのだろうか?

 俺は彼女の作品を読んで、どんな諦念にも殺しきれない、潔癖症にも似た、世界への管理欲望を感じた。好きなもの、熱情が顔を出す瞬間、危険だが芳醇な肉や香りが飛び出す瞬間を感じることは無かった。俺には良さがさっぱり分からないロブ・グリエの小説を読んだ時のように、思考を上手いこと誘導されるだけで、疲労感ばかりが残る。世界には潔癖の美しさもあるだろう、しかしノイズの美しさもあるし、俺はそれをより信じている。

 しかしノイズはきちんと管理しなければならない、そしてノイズは管理できる物なんかではない。世界は好きなんだか嫌いなんだか判断できないような友人だ。

 『loveless』を聞きながら、友人のわけの分からなさが愛おしいと感じる。まだまだ平気なんじゃないかと、また同じ苦笑を繰り返す。世界をある一面からの潔癖症で(適度な雑音さえも潔癖の許容範囲にに入る場合もあるだろう)再構築するのは、俺も趣味なんだけれど、それよりも芳醇なノイズを信じたいんだよ『loveless