暮らしの雑記帳

音楽を聞くのも音楽が無いのも嫌ならばどうすればいい?

 用事を済ませ、後は怠惰に飲まれる日々。何かをするのが嫌だ、なにもしないのが嫌だ。そういう我儘を言う俺は信仰心が薄い。

 キリストの顔が好きだ。でも俺は彼を信じることが出来ない。何らかの宗教に入信、帰依している人は、昔の人の言葉を信じているのだ。それが俺にはとても不思議に感じられる。だってどんな経典だって、後から改竄したり出来るし、そうでなかったとしても、その生きた人の人生を、真実を伝えることなんて無理なのに。

 神様を信じられないんだから、せめて他の何かに信仰心を持てたなら良かった。本なんて読むのは嫌だ嫌だ、とか考えつつ読む本、セリーヌの『夜の果てへの旅』は真っ黒なゴツイハードカバー、しかも五百ページもあって嫌々読む。読みながら思うのドストエフスキーとの類似点。強迫観念にかられたような多弁とユーモア、読むものを疲れさせるその語り。洗練を捨てた、体臭の文学。

 現代の作家にも、無理矢理描写を重ねてリズムを作ったりする人がいる。しかし彼らの書くものは体臭というよりも全能感や計画性を感じさせる。昔の作家は、貧困や戦争や革命という暴力の場を書く人がいたけれど、現代の日本では、それは好まれない。俺達は恒常性への暴力が暴力にならない世代の子供達だからだ。日本のみなさん、あなたにとっての暴力って何?俺には満足な答えが浮かばない。暴力があったならば。都合よく神様を求める無神論者。

 それでも喋らなければ、書かなければ、と思う俺は、洗練や宗教が好きだった。象牙の塔、ニューマンのone zip 、止揚の一波、観念の完璧な白さに憧憬を抱いていた、けれど、それも所詮雑多な告白の内の一つではないだろうか?生きているんだ、もう十分品の無い恩寵は受けてきた。
 
 完璧なものなんて、キリストなんていない、音楽が無いのも音楽が流れているのも耐えられない。そんな時にも、俺の身体を使って、勝手に湧き出る思考、この雑多で下品な思考のまま流し続ける、慰め。