一方的な友情

 俺は映画が好きなはずだった。しかし今となっては映画にかける時間、考える時間は極僅かだ。でもこれは映画に限ったことではなく、世の中に素晴らしいといってもいいような職業(金銭が発声するかは別とする。しかしこれは趣味とは言えない範疇の話だ)があるけれど、その中の一つにでも従事できれば幸いなのだ。幾つもの芸術や楽しみに触れられる、いや、幾つものそれと手をつないでいられるほど、人間の両腕は便利には出来ていない。

 自分で書く小説内に映画を見る人、撮る人、を登場させたことが何度かある。というか、今もそんな男の子が主人公になっている。しかし俺には撮影の経験が無いので、その彼も鑑賞専門になってしまう。撮影と編集に関しての薄っぺらい、文章にするのに必要最低限といった程度の知識は持っているが、要するに俺は本格的な撮影に至るまでの情熱が無いのだろう。

 作中でゴダールのことに言及すると、俺はその少年に自分の吐き気について喋らせていた。俺はゴダールの二千一年上映作『愛の世紀』に拒否反応をしめしたのだ。あの映画は思考を、感情移入を許すような瞬間が溢れていた。その題名も嫌だった。あのへんくつ野郎が愛を探すなんて!
愛のようなものが遍在している、のなら分かるが、愛が偏在しているなんてことはありえないように思える。それは極個人的なメロドラマであるべきだ。

 今までのゴダールならばそんな間延びした時間は許さなかった。その余剰ともいえる時間は、ジャン・ユスターシュの映画、とりわけ『僕のちいさなこいびとたち』に顕著なように、演者や観客を戸惑わせるような余剰の時間、放り出された時間とは間逆の性質をしていたのだ。

 それを見て俺はとても嫌な気分になった。裏切られたような気分になった。後に見た『アワー・ミュージック』も好きになれなかったし、そういえば『ゴダールのマリア』なんて何がいいのかさっぱり分からなかった、(しかも嫌悪感さえ起きなかった)。俺は六十年代あたりのゴダールが一番好きなのか、七、八十年代の映画には喜んでついていけたけれど、もうこれからのゴダールの映画を楽しめないのかと思った。

 『フォーエヴァー・モーツァルト』は九十六年に上映された映画だった。この映画は『愛の世紀』を見た後に、友人に借りて見たのだが、酷く美しかった。会話が、音素の発生源がそこにはあった。

 俺にとっての白眉はここだ。浜辺に立つ女優がアップになる。彼女は強風に煽られ、長い髪がなびく、彼女は演技をするが、監督はOKを出さずに何度も反復させる。そこには『裁かるるジャンヌ』におけるクロース・アップの神聖と恍惚があった。そしてそれは『女と男のいる舗道』における作中で『ジャンヌ』を見て涙する、情婦=ナナ=アンナ・カリーナにも通じる神々しさだった。

 この映画に関する小説を書きながら、俺は未だ映画を好きなのかもしれないと思った。で?どうすればいい?仕方が無いから小説を書くしかないだろう。