子供達の子供達の子供達へ

バイト先で休憩中に主婦の人と話した。たまたま少子化の会話になり、二人で「もっと金ばら撒けよ」的なことを話す。俺のバイト先には子供がわりと来る。大抵の子供は、無条件で可愛いと思う。以前は余り感じなかった、というかそんなことを意識しなかった。

 大学に入った辺りの年齢だろうか、昔の自分の写真を見ると、あまりよろしくない顔をしているなと思いつつも、かわいいなと感じるのだ。子供は少ないよりも多い方がいい。どんな子でも。恥かしい言葉でもあるが、可能性は多くあるべきだ。

 少子化が問題になったのって、十年以上前だったのではないだろうか。目に見える対策はなされたのだろうか?俺は知らないけど。若者が結婚しないのも子供を産まないのも、それをする「リスク」を考えてしまうのは当然だと思う。お金で解決出来ることは沢山あるのだ。

 とか考えつつ、俺が「若者」から自分を知らず知らずのうちに除外していたことに気づきはっとした。そうだ、俺はバイトこそしているが、社会参加している気分はほとんどない。

 政治に参加しないという政治、或いは不信感に起因した政治アレルギー。こういった、俺と似たような消極的な選択を選んでいる若者は多いような気がする。そういった若者が家族を作ったり、子供を育てたりするのは金銭的に(も精神的にも)難しいことだろう。

 俺みたいなフリーターは再就職、正社員になり家庭を築くような経済力を得ることは難しい。しかも企業はなんだかんだで都合のいいフリーターを求めている。ただ、俺は企業を政界を憎んだりはしない。僅かな悲しみや諦めが去来するだけだ。はなから彼らを信頼していないのだ。勤労意欲の無い俺はワーキングプアと言われる程働いているわけでもない。浮き草生活の男が自分より収入のある人の心配をするのは滑稽だろうか?

 今俺がいる場所には、人目を引くキャッチコピーになるような「戦場」も「日常」もありはしない。ただ(それぞれの)生命活動があるだけだ。

 三十過ぎてようやく就職と結婚をした俺の父は「子供なんて産む(育てる)つもりは全然なかった」なんて口にしたことがある。俺も同感だ(それを子供には言わないだろうが)。

 社会がどうであろうと、何かがあった時に選択出来る力を保っていられるだろうか?俺だけじゃなく、三十とか四十とかになろうとしている人達にも。出来ることは摩滅を悲しまないようにすることだろうか?