瞳に映したとして

かわいい物、例えばブライスやバービー、めくるめくフリルやドレープ、下着下着みたいな服が好きだ、好きというよりも、見ていると幸福な気分になれるといった方が正しいかもしれない。

 こんなことを感じる男は極少数だろう。しかし俺は女装をしたいのでも女性になりたいのでもないし、男性という性に愛着を持っている訳でもない。

 松浦理英子の著作に幾つか目を通して、エッセイはともかく小説にはくだらない文句のつけようがない、とも感じたが、同時に違和感も覚えた。多分それは俺になくて彼女にあるものなのだろう。

 デビュー当時としてはセンセーショナル、だったのか知らないが、男性女性という性差から解き放たれて、とかそういった部分は俺には退屈なだけだった。

 退屈、というよりも、彼女に言及した文章で、あの「A感覚」がどうとかを引き合いにだしている人がいて気分が悪くなった。馬鹿じゃないだろうか。銃ってのは心理学でペニスの象徴なんだよ、って真面目に言う位おぞましいと思った。

 BLの世界ではアナルセックス至上主義、最終的に相手を受け入れる=ペニスを受け入れるというパターンが非常に多い、というのをネット上で読んだ。松浦理英子が描くビアンのカップルはお尻の穴で遊ぶ、或いはペニスを必要とはしない。

 で、それが何を意味する、なんて真面目に書くのは馬鹿らしくないだろうか?ペニスについて、与える/受け入れることについて語るのは馬鹿げている。馬鹿げている、と感じた俺は、関係性をないがしろにしている。

 松浦の小説は内省的、モノローグ的側面が強い。彼女は軽い足取りで性について歩みを進めて行く、配置された人物達は好対照をなしているが、それゆえに一人の人物としての魅力は薄い。彼女はきっと人物にはさして興味がないのだろう。あくまで関係性に全体での語りに主眼がおかれる。

 エミリ・ブロンテの『嵐ヶ丘』に、登場人物の書き分けができていない、まるでメロドラマの悪魔が順に乗り移ったようだ。という長所と短所を言い当てた批評があったように思うが、彼女の小説にもそういった部分があるように(特に『セバスチャン』)感じられる。それは関係性を、対話を重要視しているからだろう。対話の為には相手は答えなければ(応えなければ)、無視をしなければならないのだ。しかし俺は対話に関係性に信頼を置いていない、だから彼女の「よく出来た」作品達に感動することはないだろう。

 女性として、男性として生まれたから、社会に属することになったから、といった問題提起は俺には曖昧模糊としている。俺が悲しむとするならば、それは生まれたことだ。そしてこの年まで生きながらえている俺は、十分に品の無い享楽を受けてきたことを証明してしまっている。

 彼女はジュネが好きらしい。彼女がジュネのどこに惹かれたのかは分からないが、俺が魅惑されたのは、その詩的な、文章に還元できないその文章であり、属さない、という姿勢である。ジュネを読むと生まれてきて嬉しい、と感じる、つまり生まれてきて悲しいとも感じる。

 男とか女とか関係ないぜ、とかいうのではなく、俺は男のことも女のことも実の所大して知らない。だって俺は全てのことを少ししか知らないのだから。また、それが幸福だと思えるような瞬間もある。世界と繋がる為の新しい言葉を所有することを、幸福だと感じる瞬間もある。それは必ず不感症を孕んでいる。よくわからない。通じていない。それを俺は悲しいとは思わない。思わないうちに、少しずつ、身体のどこかが摩滅していく。家のお菓子がなくなるとか、瞳を奪われるとか、そういったものを悲しいと思うのは恒常性に根付いているからだ。俺の意志は悲しみを少ししか知らない。

 俺は松浦や色々な人とは違った意味で幸福だ。この当たり前のことを確認するために、俺は時に小説を読み、書く。