車は勝手に動く

千葉まで行ってモーリス・ルイスを見てきた。まあ、友人の車に乗せてもらえなければ行かなかっただろうけど。アメリカの抽象表現主義にはまったのは学生の時で、その時にも川村記念美術館の存在は知っていたけれど行かなかった。そのころからものぐさ。

 俺はコピーの図版、画集で満足してしまってもいた。現物とは微妙に色味が違ったりするのは誰にだってわかるし、現物との差異は確実にある、しかしそれでも現物を「見なければならない」と思ったものはどれだけあるだろうか?

 ポロック、ニューマン、ラインハート、サム・フランシス、とか好みのものは記憶の中の物と同じように良かった。だけれど個人的に一番気になったのがフランク・ステラの作品群で、初期のミニマルなモノクロの作品はとてもいいと思う反面、自意識の噴出のようなカラフルな立体作品には、もう緊張感は全く感じられず、醜いという思いさえ浮かんだ。館内にはシュール・レアリスムの作品もあったのだが、それと同じような感想を抱いた。

 シュールの作家達を、一時期は俺も好きだったのだが、次第にそこに美的構成要素を見出せなくなってしまった。ツァラの「ダダは何も意味しない」という発言が白眉であり崩壊をも示唆していたのだ。後はもう驚かせる為の子供の遊びであり、それならば漫画や映画として発表する方がずっと有意義に感じられる。初期の作家達には真剣な意識があったとは信じて、感じているものの、その追随者には嫌悪を覚える場合が多い。

 わざわざ千葉まで来ておいて何だが、チラシにもなっている<ヴェール>という作品群はあまり好きではなかった、嫌いでもなかった、どちらかといえば好き、ああ、<ストライプ>は結構好き、という程度で、見たかったのは、真ん中に空白を作った<アンファールド>という作品群だった。

 画面中央に向って両端の上部から垂れ流された幾条もの太い線、それは画面では交わらず、塗られた色よりもカンバスの地の方がずっと多い画面になっている。後はそれのヴァリエーションなのだが、俺は彩度が高くてお互いに触れていない作品の方がいいなと思った。緊張感を保ちつつ、時間を瞬間を内包している絵画。何より見て美しい。自分が見て美しいと思えることは何よりも大事で、大切にしなければならないことだと思う。何を言っても考えてもいい、としても、自分の美意識に嘘をついてはいけないのだ。

 休日にしては案外道はすいており(とはいっても途中渋滞にまきこまれた、イケアと幕張のせいらしい)、帰りに浅草に寄った。車から降りると、時折雨粒が肌に触れた。明らかに外国人向けのコスプレ忍者セットが欲しかったけど、それに友人は寒い態度。大金持ちになったら買うことを誓う(ありえないので)。

 軽く散策をして、食事を済ませ店を出ると雨脚は少し強くなっていた。寺院をライトアップする大型の照明が雨の線を映していた。綺麗だと思った。

 自然を美しいと感じる瞬間があるとして、製作者はそれに秩序を与えなければならない。幾ら線を引いても塗りつぶしても、完璧には収まってくれない。しかし世界と言う混沌には堅牢な秩序が伴侶として最上だ。美しいと思ったならば、手を伸ばすこと、捕まえること、触れること。嘆息だけではなく。