神様との付き合い方

宗派は違うものの、神に仕えるはずの聖職者同士が、殴り合っている映像がニュースで流れていて、酷く嫌な気分になった。その場所では一つの施設に複数の宗派が入っているらしく、以前から反目しあっていたらしいのだが。

 一神教という考えは危険だ。それは正義や真理を体現することになるからだ。西洋では一神教が根付いているけれど、日本は汎神論というか、神様「みたいなもの」が色んな所にいる、といった考えが浸透している。日本で育った俺は強い信仰とは無縁だったし、周りの人達もそうだったように思える。

 あいまいな日本の私、というか、日本には曖昧さを美徳とするような感覚が残っている。印象派の絵画が受けるのもそういった理由の一つだろう。曖昧ということは卑屈や自己保身に傾くこともあろうが、自分自身を正義とみなすことよりかは、いくらかましなのではないだろうか。言葉を知る人々は人間、穢れを纏って生まれたのだ、俺も、貴方も正義ではない。

 正義じゃなければ、場所を取り返さなければ、神様は「負けた」ことになるのか?好きな人だったら許してやれよ。何をされたって傷つくのは信仰者のそいつ自身じゃないか。神様を汚せると思っているのか?理解不能だ。こんな風に理解不能な者同士で争ったら泥仕合になるに決まっている。殴らせてやれよ。殴ってくれって言えよ。

 中世の西洋絵画で発展した、アレゴリーという言語との強固な結びつきも日本ではほとんど見られない。そもそも日本文学も言語に信頼を置いていないように思える。その一つ到達点とも言えるのが、川端康成の恐ろしい文章だろう。俺にとって川端の文章ほど刺激的なものは無い。『いきの構造』なんて言葉自体が矛盾している存在とは程遠く、川端は「いき」の中ばかりで生きている。「いき」も「わび」も「さび」も、その名前を口にしたり、体系化しないで表現することで、かろうじてその身がうつつの中で閃くのだ。

 だがしかし、逃走を生業としているジュネや、「いき」ばかりしかない非人間的な川端のような生き方を出来る人間がどれだけいるだろうか。寄る辺を編んでくれるものがなければ人は生きられない。

 誰かに教えられた神様のいない場所で信仰に到達することが出来るだろうか?それこそが信仰というものではないだろうか?森有正が似たようなことを言っていたはずだが、失念した。またいつか、あの長いエッセイを再読するのかと思うと面倒くさく、楽しい。俺の不実な神様は誰にも汚すことは出来ない、けれど、その姿は朧だ。もっと近くに行って触れてみたい、なんて思ったりもするけれど、他人をどうこうしてまで成し遂げたいとは思えない。自分と言う最も近しい他人でさえも?どうだろう、神様。ただ、神様と小さく心に思う、それだけでもいくらか気分が楽になる時はある。それでもいい。俺は争う人を変えられない。それでもいい。俺は神様の名前を呼べる。