寄る辺探し

 美男美女は味方(か悲劇の敵役)でオッサンやブサイクは敵(か変な成長率の味方)の、ニンテンドーシミュレーションゲームをようやくプレイ(そうしないと日本ではゲームや商品として成立しずらいもんね!)。

 DSのファイアーエムブレムを先ずは「ノマール」モードクリアして、全員生存クリアでもなんかぬるかったから「ハード5」モードをやったら敵が強くなりすぎててウケタ。主人公達の兵士四人で一人の山賊と同じ位の戦力って。しかもこのゲームでは一度死んだらキャラ蘇らないし(例外はあるが)。当然敵の方が数が多いし。序盤を切り抜ければ、まあ救済策はあるにせよ、「ハード5」をクリアするまでに百回はリセットした。

 百回は誇張ではなく全25ステージで四回ずつリセットすれば、ほら、百回。でもわざわざこの「ハード5」をするような奴はそこそこFEに慣れている人だろうし、俺みたいに馬鹿リセットした人は少ないと思う。

 「ハード5」で重要なのは、自分たちが毎回(圧倒的)不利な状況に置かれている為に、何手も先を考えてプレイすることだ。

 で、俺はそんなことをしないでいつもの行き当たりばったりプレイをしていた。何回もキャラが(最初は全キャラ生存プレイを試みていたが途中で諦めた)死にまくってようやく戦略を練るという始末。しかも、思いも寄らない伏兵に殺されたりして、そのドキドキを楽しんでいたりして。

 福光しげゆきの『僕の小規模な失敗』という駄目人間系の漫画道があるのだが、その中で「ホームレスに憧れる」とい題の話がある。その話の結びで「悪い人じゃないけど、駄目な人、それがホームレス」と呟くのだが(家の中を探したが見つからなかったので多少違うと思うが文意は同じはずだ)俺もこれにはとても共感を覚えた。
 
 自分がホームレスになる想像をしたことがあるだろうか。俺はある、そしてそれは空想の域を出ない事で、もしもなったとしても、いつまでもその状況ではないだろうという楽観も付いて回ることだろうと予測できる。

 トーマス・マンアンドレ・ジッドが「貧困は時に品性を犯す」と言っていたが、信濃川日出男の「Fine」という漫画にもこれに似た表現が出てくる。自称芸術家の男が、同居人と諍い家を飛び出し、公園生活をしようとしたときに、ホームレスにたかられる。そして主人公は肉まんおごるのだが、それにかぶりつく卑屈な笑み、厚かましさ、醜い風体を自らに重ね、「これではいけない」と思いなおし、同居人の元にもどることになる(蛇足だが、この漫画のように現代美術を漫画のテーマにすることはとても困難だ。ニーズもそうだが、哲学の領域にも跨る知識がないと、ごく一面しか描けないし、何より作中で「スゴイ」作品を描かなければいけないのだ)。

 バイト先に特定のホームレスが来る。俺は彼らの存在を、外見を、臭気を、消えればいいと思っている。鼻がおそろしくいい俺が「臭いのはヤダ」と感じる、生理的な意味合い以上の感情がそこにはある。彼らと俺は「近いのか?」彼らは「駄目なのか?」答えのない問いが頭にへばりつく。

 ホームレスになってはいけない。或いは何年もホームレスでいてはいけないといいかえるべきかもしれない。「ホームレス」とは殆どの場合「駄目な人」だ。それだけで誰かに嫌がられたり迷惑を掛けたりする羽目になるだろう。生きているだけで存在が罪悪のように思われる、自分でも思ってしまう。そうなると緩慢な自殺か、自殺や他人を巻き込んだ自滅が待っているだろう(そもそもそういう心配性な人はホームレスにならないだろうが)。

 長期間ホームレスでいられる人は、そういったことを捨ててしまった人だ。しかし、現代日本には一度「落ちて」しまうと這い上がりにくいシステムが既に出来上がっている。若年層のホームレスが増えているというニュースは他人事ではない。しかも貧すれば鈍するで、状況が悪ければ人はどんどん追い込まれていく。

 俺は誰かをどうにかできるとか思えない。せいぜいできて助言位のものだ(「もやい」って検索してみたら?位の)。だから自分自身に言う「ホームレスになるな」。そして俺みたいな人にも「ホームレスになるな」と言いたい。マジでヤバイ人はとにかく誰かに頼るべきだ(誰も思いつかなかったら「もやい」って検索してみるべきだ。非営利の団体で相談に乗ってくれる。こうやって名前を出すことがいいことか分からないが、今の俺には悪いことだと思えないので出させてもらう)。

 「どうにかなる日々」っていう町田康のエッセイ、それをそのまま貰った志村貴子の漫画のタイトル、いいことば。案外どうにかなる。ホームレスがその人の責任だけではないなら、社会だけのせいでもない。案外「どうにかなる」、だから品性を捨ててはいけない。