読書は面倒

保坂和志の小説を何冊か読んでいて、何冊か読んでいるということは、結構気に入っているということなのだが、何に惹かれているのか、自分でもよく分からない。文章のゆるい空気、というとそんな気もするのだが、何かしっくりこない。

 保坂は猫が好きで、猫をテーマにした小説やエッセイを書いている。俺は猫が好きだが、猫を書きたいと思ったことはない。馬鹿なことを言うようだが、猫は生きている猫が一番優れていると思うのだ。猫に過剰に感情移入することは、自分の全能感や代価物としての猫を生み出すことになって、俺はそういった「ニセ猫」描写に激しい嫌悪を抱く。

 それで保坂の「猫」小説を読んでどう思ったか、というと、単に自分の肩肘張った態度に軽い疑問を抱くだけで、それは普通の小説であり、エッセイだった。でも、やっぱり彼の何が好きで読んでいるのかは分からない。

 先日『小説の誕生』という題のエッセイのような小説のような評論のような文章を読んで、少しだけ自分が保坂の文章に引かれる理由の一端に触れたような気がした。この『小説』は、保坂の取り留めのない思考を、多くの文章を引きながら紹介している。それが心地良かった。彼が賞賛する小島信夫は未読なのだが、読んでも頭に入らない(保坂もそう言っていた)クロソウスキーやミシェル・レリス、それにゴダールの発言集(でも保坂が引用していた箇所は特に何も感じなかったけど)、また「読まなきゃいけない(再読しなければいけない)リスト」が増えることになるよめんどくせ、等と考えながら読み進めることの幸福。

 あと、手放しでは賞賛できないけれど認めるしかない阿部和重ドストエフスキーの独白は不自然でも命懸けであるから迫力を持つけれど、(1951年出版されたジュリアン・グラックという人の)文章を引いて、メロドラマの独白はナルシシズムと感情移入の装置でしかない、という時に出す村上春樹の名前(否定的でありながらも直接斬ることは慎む態度)は、あ、俺も、と感じた(ここは保坂の文章をを借りた自分の言葉になっていると思うが)。

 ただ、彼が時間や生死について語る箇所は正直全く楽しくなかった。保坂の文章は読んでいて人をイラつかせる事がないように思う、だからあまり立ち止まらずにすらすらと読めるのだが、俺は読了した後もその箇所が抜け落ちている。彼は熱心に語っていたはずだ。そういえば『季節の記憶』という小説で、男やもめの主人公の息子が、そういった問いを発していたことを思い出す。生死、時間、というか、それは幼児の哲学的問い、と言うヤツで、俺はそれが頻出されると作為的な感じがしていい気はしなかったのだが(自分も質問ばかりしている子供だったが、文中の少年は幼児っぽくないなあと感じたのだ)、ふと、問いを持ち続けゆらゆらふらふらすることが保坂の文章の良さ、というか、俺が惹かれている点ではないかと思い当たった。

 ゆらゆらふらふら、は誰にでもかけるものでは無い。エッセイであるとか、ブログの日記ならばそれでもいいけれど、小説としてそれを提出する、一つ二つ書くなら未だ出来はともかく可能かもしれないが、それを続けるには著者の明確な意識が必要だろう。

 Aという作者、小説を読んだら芋づる式で次に読みたい、読むべきBCDも繋がっている。これは俺の考えだが、保坂も同じことを作中で語っていた、というよりも、多くの本好きにとってはこれは当然のことだろう、そして一つの本を読んでいるうちに、湧き上がるアイデアや夢想を楽しむことを。本が好きな人の本を読むことは楽しい。