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今年のクソみたいなバイトが終了しまして、今年書いていたクソみたいな文章も一応まとめおえまして、ふと来年のことを考えると、半年後に契約更新なんて地獄イベントが待っていることを思い出してしまう。今まで契約更新なんてしたことないんだけど、書類にサインとかするはずだから、多分大家さんを家にいれるわけでしょ?

 でね、俺分不相応にもアパートじゃなくてマンションに住んでいるんだけど、そこの家賃がかなり安い、理由はベランダ(干す場所)がなく、窓を開ければアルミ(?)格子、しかも窓の前には格子だけではなく、大家さんの息子の車が駐車されているん。フリーターでふらふらしている俺(家族がしょっちゅう車に乗るので、明かりついてるだけで部屋にいることがバレルのだ)、ニート疑惑かけてたらどうしよう、と『聖☆おにいさん』みたいなことをマジで考える。

 しかも、俺の部屋の壁に貼ったコピーとか原画がヤバイ、吉田良の人形(半裸少女)、グリューネヴァルトのイーゼンハイムの磔刑画、アラステアの磔刑画、サイ・トゥオンブリのややグロ抽象画、『裁かるるジャンヌ』のLDジャケ、ピチカートのでかいポスター(スーヴニールの時の)、ルー・リードの詩。そして床には本の山。

 やべ、結構いけてんじゃね?、という勘違いは、あくまで趣味が近しい人にしか通用しない。きちんと生活している人には、ふらふらしている不審者にしか見えない、確実に。

 かといって家を探すのは難儀だ。笙野頼子の『居場所もなかった』をこの前読んだのだが、この時期の俺にはかなり身に染みた。物音が苦手で貧乏な三十過ぎの女主人公が、オートロック物件を求めて不動産屋をふらふらする話(を「著者」は書いているのだが、編集者にありえないんじゃないのとか駄目出しをされる。てか、笙野は25でデビューしてから十年間編集から没くらいまくったらしい。おそろし)。彼女らのふらふらは続く。とにかく主人公にもそれを書いている「著者」にも安住の地はないのだと分かる。

 同時に論争を巻き起こした、笙野の批評エッセイの類も読んでいたのだが、これがまた「業界」のそれぞれの正義がぐねぐねと絡まりあっている様を目にして気分が悪くなる。これについての言及は今は控える。

 書いていて嫌な気分になったので、現実逃避をすると、最近古本カフェをオープンしたらいいんじゃね?とか思って、でも、カフェの開業にはふつーに五百万とかかかるらしい。まあ、ちょっと考えれば、店を持つなら何百万も吹っ飛ぶなんて当然のことだと分かるけどね。壁に画を描いて、キリストカフェ作りたかったのになー、出すのは水でいいじゃん、キリストの奇跡で葡萄酒になるぜ(は?)で、お客さんとニーチェとかボードリアルとかコジェーブとかの本投げつけあったりすんの。
「テメー死んだんだろ?バーカ!」
「イエス!ジャパニーズスノビズムマクドナルドディズニーランド!」

 北尾トロの「僕はオンライン古本屋のおじさん」、とか、そんな名前の本を読んで(現在は休止中)、これならやれるかな?とか妄想がふくらむ。蔵書が千冊程度とかでも、ネット本屋ならば出来るらしい(古物商の資格とかそんなん必要だけど、てか、俺自分の持っている本の冊数数えたことないけど)。

 新しい物を買えば買うだけ快感だった。自分が知らない英知が世界には溢れている、そのことに素直に感動をしていた。しかし何度も引越しをして、その度に荷物を軽くしていって、好きな物はそこそこ集まってしまって、モノを集め、買う快楽はまばゆい輝きを失った。いや、単に若い俺は熱病にかかっていただけだった。文字通り本に囲まれる生活をおくっていても、俺は本を所有していることにはならない、それに少し手間をかければ、大抵の本は手に入る。

 でも、それと本を手放すのとは別問題だ。そこそこ好きな本だって、無理に手放さなくてもいいのだ。再読しないだろうめんどいハードカバー。山積みのまま腐らせたっていい。

 あーこれじゃあ古本屋もカフェもできないねー残念残念また五年後までには考えましょ、とか都合よく解釈をしよう。三十で駄目なら三十五、四十、これからもたどり着けない妄想の家を暖める