バラバラになってって

憎しみの悲しみの残り滓が肺の中で燻っていて、息をするのが嫌になる、のだが、酸素がないなんて、考えられないの俺、人間だから。クソみたいな髪型で、クソみたいなことを喋っていると、自分ができの悪い機械の様で。そんな時にも事態は悪い方へと転がって行って、俺は冷静になる。やはり中途半端はよくないのだ。少しは本が読める余裕ができる。

 筑摩の文庫で目に入ったから、という気のない理由で(というか、大半の方はこんな風に手元に来るのだが)トマス・ピンチョンの本を買った。しかし「解読」や「謎解き」が周りにある作品は苦手なのだ。解読されない作品の方が、評論の言葉が追いつかない作品の方が、好きだ。ちょっと警戒していたのだが、まあ、楽しく読めた。阿部和重への距離みたくして。カヴァー装画は大竹伸朗が担当していた。俺は彼の作品で感動した経験がないのだが、文庫本(雑誌)の表紙としてみるならば一級品だった(特に好きではないが、和田誠横尾忠則も)。

 そういえば大竹伸朗バロウズの本も表紙を描いていた。骸骨の画で、まあ、本気で探せば見つかるよ、うん。バロウズは割りと好き、だと自分では思っていたのだが、なぜか二、三冊しか目を通していない。キャラクターとしても、薬中ニート、ホモなのに奥さんをウィリアム・テルごっこで銃殺、と跳満級のキャラなのだが。まあ、急がなくても、楽しみは多い方がいいけど。てか、結構前に河出の文庫でギンズバーグ(俺には何がいいのか分からない、というかビート自体が分からない、森山大道が『犬の記憶』という自伝エッセイで日本を回りながらケルアックの『路上』を読んだ、とかいうのを読んだの二十歳前、で、「若いっすね」と思ったんだ。馬鹿にしているんじゃなくて、若いっていいことすね。俺はロマンティック(蔑みの言葉ではなく)な大道の写真が好きだ)との往復書簡(三島と川端のを読むと、三島が可愛らしいく思える。でも読んだのは十年近く前かも)バロウズの部分が楽しいので少し引用する。

エスメラルダス市はトルコ風呂みたいに暑くて敷けって手大通りでハゲタカが死んだブ豚を食べ見回すとどこでも黒○ぼが金玉ボリボリ」

グアヤキル。毎朝ラッキーストライクを街角で売る少年達がふくれあがるような叫び声をあげる―「A ver Luckies」「みてよラッキーだよ」―百年たってもまだ「A ver Luckies」と言い続けているだろうか?

 ピンチョンの短編集が思ったよりも肌に合っていた。とは言っても長編を読む体力はないので、ピンチョンのお仲間系らしきジョンバーズのお船の本に手を出してみる。これが予想外にまた肌に合っていて、無理矢理説明するならば、セリーヌに阿部公房とモーパッサンをふりかけた感じ(は?)。楽しみなので、中断して別の本を読んでいる(は?)。

 表紙が金子國義萩尾望都なので、これだけでまあ、いいかなと思う津原泰水の小説。ゴシックホラー妖気譚、みたいな感じの本で、俺、こういうの好きなんだけど、人形作家とかさあ、好きなんだけど、「ヤバイ」とは思ったことないんだよね。前にも書いたけど。あんまり好きではない英米研究本出まくり謎解き小説の方が読んでいて楽しい。借り物の言葉じゃなくて、自分の言葉で文体で小説を作っている感じがする。俺が求めているのは物語や雰囲気ではないのだ。それが小説ならば、小説というもの自体に自覚的にならなければならない。「ヤバイ」作品は常に前衛(という単語が形骸化していたとしても)であるべきだ。そうじゃなきゃ「ヤバク」ない。「ヤバイ」のが欲しい。機械の身体に新しい肺が欲しい。本当は新しい顔が欲しい、いや、早く髪が伸びてくれるだけでも十分です。髪さま、お願いします。

 終わっている状況だと、薔薇のことを考えていてもちっともわくわくしてこない。少し前まで、題材ではなく、「薔薇のような」小説がよみたいなーとか、ゆるい妄想をしていれたというのに、ぬるい吐き気が肺の中。そして俺は憎んでいる恒常性に助けられるのだ。早く薔薇が欲しい。薔薇が早く美しいと思えるようになりますように髪様。