突然通俗小説のごとく

何度も通っている歯医者ではよくエンヤがかかっている。人間の狂気をあと、一押ししてくれる、ポップミュージックの一つ。今日担当してくれた人は、今まで俺を担当していた人とは別の人で、別のことを口にしていた。曰く「痛みはないんですね?でも、昔詰めた二本の銀歯の中で虫歯が再発している『かも』しれません。もしそうでしたら、銀歯を外して削って神経を抜いて(以下略)どうしますか?」

「しません」と言った。俺の今まで担当していた人は「他の部分は大丈夫」と言っていたのに、後出しじゃんけんのような宣告に腹が立つ、いや、大して腹は立たなかった、エンヤのミュージックに似合う俺の精神状態。治療してもらった奥歯は未だ、ふとした瞬間に、痛む。けれど、あんたらにもう会いたくないよ、最後に、蝕みを教えてくれてありがとうありがとう。

 歳ではないが若くはない俺は、未だに自分の身体をきちんと管理しようとしていないのだ。

 読むものがないので、車谷長吉の本を十冊近く読んでいた。小説は、確かに、筆力、というような、読ませる力があったのだが、彼のエッセイが、あまりにも酷くてびっくりした。仕事のできる小心者の優等生、福田和也が作品は認めながらも、色々罵っていた理由が理解できてしまった、その、最中でも、俺は読書を続けていた。失望する為の読書、なんて可愛らしい情熱はなくて、まあ、活字があれば読む読む読む俺。彼が会社勤めをしていた時に上司にプラトンの著作を読んでいて怒られた、というエピソード(蛇足だが多分事実)は、好きだ「そんなもんじゃなく週刊誌を読め、お前はお金に頭を下げるんだぞ」俺も、お金に頭を下げてる。あと、歯が痛いの、嫌なんだ。でも、逃げ出す方がもっと好き。

 彼の小説が私小説か否か、ということに興味は全くない、それに彼自身で、良作エンタメ小説の『赤目』は創作だと口にしている、し、小説を書くということは嘘をついてしまうということだ。それをしないと見るに耐えなくなる。それに、長々とそればかりをしていたら、とてもではないが、枯渇して、ネタ乞食になってしまうだろう。彼のここ数年の著作、エッセイらは、かなりに、(とはいっても興味すら湧かない人の著作ではないのだが)酷いので、どうか多くの人に一読して欲しい。

 とか思いつつ、古本屋で百円だったから、久しぶりに大江健三郎の『同時代ゲーム』を買った読んだ。五百ページもある分厚い本で、嫌になる、その上、俺は大江が好きではない「光君大大大好き!」「自分の批判は編集脅して潰す」とかいったゴシップ、以上に、彼の信じている共同体というものが全く理解出来ないのだ、そしてメタファー・シンボル・アレゴリーの戯れは固定収入か信仰心がある人の楽しみであって、俺は蚊帳の外、にもかかわらず、飽き性の俺が、幾ら惰性とはいえ大江の著作を読む、(とはいっても五冊程度しか読んでいないはず)のは筆力の、批評家や論者が還元できない詩的な繋がりの力を十分に感じるからで、大江が「偉大な作家」かと問われたならば、好きではないけれど、「そうじゃないかな」と答えるだろう。

 筆力、詩情、といったことならば、古臭い作家の方が圧倒的に優れている、と思うのは俺だけではないはずだとは思うが、そういったものは流行らないのか、割と最近の作家の本を読めば、実力はある、と感じるものの、詩情はあまり感じない。特に新鋭の男性作家は「驚かせる」或いは「新しい場所取り」には敏感だったり、精巧で俺にとっては興味の薄い「小宇宙」を作り上げたりしている。女性作家だって、本の題名で釣ろうとしているんじゃないの、とも感じたし、そもそもこんな男女作家を枠にはめるのは便宜上とはいえ品の無いこと、その位は理解していて、俺は単に、頭に浮かんだ割と若い、といってもいいだろう清水博子のことが頭に浮かび、そして鹿島田真希のことを書こう、と思ったのだ。この二人の方が禁欲的に感じられて、俺には好ましく映ったのだ。

 清水博子の小説の堅牢な張りぼてのごとき神経過敏と排他性は、彼女が秀才で良く文章の書ける人だ、と感じるには十分ではあるが、一方で魅力に乏しいとも感じる。鹿島田真希の『ピカルディーの三度』、というよりも、彼女の著作を読んだのは初めてで、「ピアノレッスンに来た青年が便意をもよおした時、先生に洗面器でも排便を求められる」といった設定を知ったから、とはいっても、下痢気味の俺は、どんどんどんどん、消化しようと詰め込んでいくので、こういった設定が魅惑的とはいえず、むしろサド・バタイユ的発想は、耽美への親和と断絶とを感じる俺の鬼門とも言える。

 彼女はレネの美しすぎるメロドラマ『二十四時間の情事』、脚本、原作を書いたデュラスの小説のオマージュも書いている。ヒロシマの代わりにナガサキを舞台にしているらしい。未読だが。俺が読んだこの短編集は、予備知識が無い状態で、デュラスに似ていると感じた。俺はデュラスをちっともいいとは感じなかった。サガンよりはまし、程度にしか感じていないのだ。詩的「っぽい」表現が並んだ、ちょっと頭がいい女性がかいた小説みたいなもの、としか思えなかった。


 鹿島田の小説は、というと、次も読んでみたい、と思った反面、堅牢さには欠けていた。良くも悪くもデュラス的な感じが、先入観があるにしても、残った。でもデュラスよりは好き。引用は避けるが(めんどうだから)、わざと書いたにしても、安易な二項対立や手垢に塗れた表現を除菌殺菌して再利用しました、みたいな文章は、読みやすい、ロマンチックな題材とあいまって読ませる、のだが、どこかずっと覚めていたのも事実で、硬質なしかし野蛮な動物のいない堀江敏幸の文章を目にしている時のような寂しさ、にも通じた。新しいことをしようとする、小説という表現に自覚的な男性新鋭作家のことを思う、我儘な俺。


 彼女はキリスト教系の学校を卒業し、伴侶もそういった職業の人らしい。俺もキリストは好き、でも、好きなのは、その精神じゃないんだ。聖を辱めるなんて、恥かしくないのか?、と感じる大江も読めない俺。

 先は蝕みと共に、あくまで暗い、が、小説を読むと思考ができて、いや、まだまだ生活をなめられますねーと感じる俺は缶のエビスビール(ビールは好きじゃないけど、エビスは苦くて好きかも)一本で赤い顔になって、突然。